「学歴社会」の崩壊へ

京都新聞 2002年7月1日夕刊「現代のことば」

ひとつの時代がようやく終わり、別の価値観に向かうようになる。断言できないところが残念だけれども、かすかながらそのように感じはじめても、おかしくはない。

終焉に向かっているにちがいないのは、日本式産業社会に独特の人員補給体制で、国の外からの目によって「学歴社会」と命名されていたものだ。大企業の社員になるためにはブランド大学に入学しなければならず、そのための受験戦争は過熱ぎみになる。が、奇妙なことに、大学ではほとんど勉強しなくても卒業はできる。企業の側は、大学での勉強など役にたたない、仕事の訓練は入社してからで充分と、豪語していたのだ。

それゆえ大学は、学問を人間形成のための拠りどころとすることを忘れてしまい、かつては教養と呼ばれていたものも、また学問ゆえの忍耐も、学生たちの憧れの対象ではなくなってしまった。これが半世紀も続けば、「学力低下」問題となっても驚くにあたらない。

たしかに、「偏差値」にかわる実質的な基準をもたない多くの大学受験生たちは、あいかわらずブランド大学を目指している。しかし、日本的産業社会のことは措いておいても、大学にとって事態は深刻である。内的な反省によって自己改革が起こるよりも先に、少子化の進行とともに大学間の競争がいよいよ激化しつつあるからだ。大学にとっての、「学歴社会」の安定した秩序は、崩れはじめていても不思議ではない。

「偏差値」によらない大学選びを受験生がするようになるだろう、という予言があった。実際には、受験生たちのなかに「偏差値」以外の多様な基準がまだまだ育ってきていないので、一足飛びにはそうはならない。といっても大学間では、入学試験の「偏差値」のうえで直接的に競争し合うすべがあるわけではない。結局のところ、それぞれの大学が、自分たちが実現しつつある価値はこれだということを、つまりはそれぞれの学問の力あるいは教育力を前面にだして競い合うしかない。わかりやすい例が、産学連携と呼ばれる新たな競技場であることはまちがいないが、人間形成という課題の求める深さや広さにはまた別の競技場がなければならないことも、疑いようがない。つまり、産業社会に存在しながら、批判的視点を持つことのできる大学それ自体として、競い合うということだ。

大学間競争は、いずれは、新しい「すみわけ」のような秩序に帰結するかもしれないが、それまでは激烈な競争を避けることができないように思う。ところで、わたしたちの社会は、このような時代の変化とそこに発生する競争とを、健全なことととらえているのだろうか。そうであるとすれば、社会の責任で、早急に着手しなければならない課題がある。それは、そのような競争が健全に、公正に、行われるよう、だれの目から見ても自由競争の精神に大きく反している、国立大学と私立大学の授業料の格差を、なくすことである。