1968年からの宿題

別冊『環』2「大学革命」; 2001年2月

たとえば半世紀後に大学像はどうなっているだろうか、どうあるべきだろうかという課題は、否応なく私たちを現実にひきもどす。大学なるものが存在しはじめたその時から、大学は自らの姿を、少なくとも数十年単位の時間のなかに、思い描いたにちがいない。そしてその大学像は、必然的に、それを実現しようとする方策を含むものだったにちがいなく、その実現の過程こそが今向かいあっている現実であるからだ。

私たちの京都精華大学は人文学部と芸術学部、そしてそれぞれの学部につながる大学院修士課程からなる大学だ。人文部には人文学科と新しい環境社会学科があり、芸術学部には、造形学科、デザイン学科、マンガ学科がある。これは標準的な学部学科の構成とは言えないだろうが、一九六八年に開設した英語英文科と美術科からなる短期大学をその前身としていると言えば、理解はしやすくなるだろうか。

一九六〇年に四年制大と短大をあわせて五二五校であった日本の大学数は六八年には八六三校であり、私たちの大学もその急速に増えつづけるものの一つとして開設されたのだ。しかし一九六八年は、社会のなかで大学の果たす役割が厳しく問われることになった、あの学生叛乱の時代をあらわす記号でもある。創設期の人びとには、逃れがたく、その時代の突きだす大学問題が意識されていたにちがいない。一言でいえば、限りない経済成長にのみ向かっているかのように見える社会の流れに、総体としては無批判に隷従することになってしまっている大学、という問題だったと言える。学生の目から見れば、時代の経済権力と一体となってしまった大学権力という問題だった。先端的な学生たちのなかには、自分たちが大学の閉鎖的な特権性を享受しようとしたとして「自己否定」するものもあった。

岡本清一初代学長を中心とする私たちの大学の創設メンバーは、一面的な大学否定論に立っていなかったのは言うまでもないが、大学が学生と教職員とからなる自立した共同体でなくなっていることが、この問題の根本にあると考えていた。そして、新しい大学の在り方についての計画のなかに、その考えを目にみえるよう示そうとしていた。いささか過激に聞こえるかもしれない断片をとりあげれば、「われわれの大学は新しい画布のように、一切の因襲的な過去から断絶している」という、最初の受験生向け入学案内にのせられた岡本学長のアピールにもそれは表されている。そこでは学生を、大学によって処理され通過する存在としてではなく、「大学創造の仕事を分担」する対等の仲間としてとらえようとしていた。

大学の抱える因襲、その中心にあると考えられたのは、教員と学生の間、職員と学生の間、教員と職員の間にあった身分制的な関係だった。 これを断ち切ろうとする大学運営のための具体的な組織計画には、たとえば、全教職員が政策について対等に意見交換する「教職員合同会議」、職階とは無関係に全教職員が被選挙権をもつ学長選挙、同様に全教職員が被選挙権をもつ理事選挙などがあり、今でもつづいている。これらはいずれも、大学が自立した共同体でありつづけるための、組織上の土台と考えられていたことである。

しかしそれでも、大学の自立は途方もなく困難な課題としてありつづけた。もとより、学内組織の直接民主主義的な改革のみによって達成されるはずの事柄でもなかったにちがいない。現に、設立直後の私たちの大学は充分な数の学生を集めることができず経営的な危機に直面し、学長不信任にいたる大きな組織的混乱にみまわれていた。こういった経営的接点でこそ、大学はそこから自立しようとする社会の趨勢と対峙しながら存続しなければならないということを、創設期の人びとはどのようにとらえていたか。残念ながら、それを包括的に明示するものは、たとえば文書としては残されていない。自立した学問芸術としての大学は、一方で大小の経済社会的流行を、そのつくりだす意識の襞にまで分けいり明らかにしながら、流行とは別の目指すべき世界像の可能性があることを説得的に語らねばならず、また他方で、その外ならぬ批判の対象である流行の現実に対応しながら自己の存続を企てつづけねばならない。存続しようとするならば、経済社会という現実への対応を、大学はどの程度すれば充分なのか。それは、恐ろしいほどであるとしか言いようがない。私たちの大学が一度ならず経験した経営的危機の局面に限っていえば、先に述べた因襲の打破を目指す諸制度、他大学にはあまり見られない勇ましいそれらも、その果たしえた役割といえば、もっぱら経営を担当するべく選出された者に、信任を与えること以上でも以下でもなかったのだ。

高度経済成長とよばれる急激な社会変化の趨勢は七〇年代そして八〇年代に入ってもとどまることはなかった。この間大学も、十八歳人口のピークをむかえるまで膨張しつづけ、九四年の時点で四年制大学は五五二校、短期大学五九三校を数え、六八年に約一二〇万人だった四年生大学の学生数は約二五〇万人となった。二〇〇一年の現時点では、四年制大学は六五〇校、その学生数は二七〇万人をこえている。私たちの一風変わった大学もこの趨勢のなかにこれまで存続しつづけたことは、否定できない。しかしこのことは、一九六八年の刻印をうけた京都精華大学の大学像にとって、もっぱら受動的な挫折を意味するわけではない。

学生叛乱後の大学膨張の時代は、ある意味で皮肉なことに、日本社会の教育力低下が顕著に見えはじめた時期でもあったと思う。より正確にいえば、その兆候は六〇年代にはすでに現れており、いわゆる団塊世代の若者を多数受けいれる役割を担った私立大学の多くは「マスプロ教育」と批判され、また入試は難関だが勉強しなくても卒業できる大学と言われてもいたのだ。大学入試が目的化したかのような中学、高校の教育もすでに目だっていた。それは明らかにバランスを欠いた経済成長至上主義の帰結であり、教育への投入の貧しさだったと思わざるをえない。この線上で七〇年代に受験産業によって開発された「偏差値」は、およそ二〇年にわたって、凹凸のない偏差値ランキングに沿ってきわめて能率的に学生を配分することには大いに貢献したが、若い人びとがもつはずの思考の自由、あるいは社会からの思想的自立を、これまた効率的に縮小させてしまった。そうしておいてその一方で、さらに経済的豊かさの増した八〇年代には、大学が「レジャーランド」になっていると嘆げくことになったのだから奇妙である。

八〇年代半ばから九年間にわたって学長だった笠原芳光は、このレジャーランド論にふれては、ニーチェの「楽しい学問」や、学問を意味するギリシャ語「スコレー」がもともと余暇すなわちレジャーを意味することを引きながら、私たちの大学が目指すべき「知的レジャーランド」像を説いていた。このころ流行った大学論には、大学は消費者あるいは顧客としての学生のニーズに応えて知識を供給するべきものだという情報産業論的な考え方があったが、笠原学長の論拠はまったくちがうところにあった。それは、学生は顧客ではなく教職員と共に大学を創造する責任を分有するもので、それゆえ全員がこの大学の創立者であり毎日が創立記念日であるという、ユーモラスなラディカリズムだった。

振りかえって見れば、出発から三三年間、そのかかげた理念の一つは間違いなくこの大学の空気のように引き継がれてきたように思える。その一端は、卒業生を除いた約三〇〇〇人の在学生に限って、一人の専任教員が平均して約一〇〇人の学生の名前と顔を知っているという数字にも表れている。学生対象の調査の結果から控えめに算出されたこの数字は、おそらく他の多くの大学では到達することのできない、学生と教職員の共同性の水準を示しているにちがいない。こういった共同性は、匿名的な自由と無責任を意味しないのはもちろんだが、学芸の自由には無くてはならない基盤であるにちがいないのだ。また、この大学につけられた「偏差値」の推移をたどってみても、他の多くの大学に比べてずっと偏差値からも自由であったこともまちがいない。この数年受験生数の減少とともに、偏差値上位大学から下位大学まで、軒並みその偏差値を下げていく趨勢のなかで、京都精華大学につけられた偏差値は、例外的に、下がることはなかったのだ。

この大学淘汰の時代に、あるべき大学像が語られることは至極当然なことだが、日本のなかで、はたしていくつの大学が、すでに付与されている偏差値に心を奪われずに明日の姿を論じることができるだろうか。さらに「市場」を拡大するあのセンター入試にわれもわれもと参入しながら、偏差値上の生き残り組があれこれの夢を語り、負け組の多くはただ沈黙するしかなくなるのが現実だろう。私たちの大学は今までのところ偏差値から比較的自由でありえた。しかし、充分な志願者数を維持することができなければ偏差値上の位置づけは確実に下がり、理念や方針を語ることなどできなくなることも疑いようがない。志願者確保のための最大限の経営的投入が至上命題であり、それが成功しなければ、一九六八年生まれの自由と共同性は、次の時代に実現すべき大学像の基礎となることを身をもって示すこともできなくなるだろう。 現に京都精華大学には、ようやく実質化の途についたというべき、次の時代の大学像がいくつかある。一つは創設当初から掲げられていた「国際主義」の大学像であり、その中心には、「新しい人類史の展開に対して責任を負う人間の形成」という言葉がある。学生を積極的に海外へと送りだすと同時に、海外からの学生が多数いるという状態をつくりださねばならない。現在一〇か国からの一五〇人を超える留学生が在籍し、他にも毎年数か国からの交換学生があり、アメリカとオーストラリアからは数種類のグループでの相互訪問がある。これをさらに拡充し二年後には、全学生の一割近くにあたる三〇〇人の留学生が学ぶようになる計画だが、当然ながら、世界の現実を共有し問題を共に考えることが目指すべきことがらであり、たんに日本を手本にすることではない。

問題を共に考える場としての大学は、当然ながら学外の社会にも開かれていなければならない。それまでは図書館と呼べる施設のなかった私たちの大学は、ようやく九七年に情報館を開設することができた。現時点で、開館日一日あたり延べ約九〇〇人の利用者があるが、その内一二〇人は学外の人たちである。いくら強調してもしたりないこのことは、社会にたいして独立を維持しながら特権的な閉鎖性へと傾斜しない大学像を実質化しようとする具体的な一歩だが、これもまた一九六八年からの宿題の一つだったのである。