第5回 博物学の視点へ

デューラー(1471-1528)物理学者ヴィクター・ワイスコップが、かつて自分のことをについて語ったように、これまでひどい時代に生きてきたけれど、それでもわたしは幸せであった。とはいえ、わたしが一心に取り組んできたこと、それは核の刀、および息を飲むような工業技術の改良などではなかった。それとは全く異なったことだ。つまり、〈自然(ネイチャー)〉の基本的な変化をこと細かく目撃する、そうした役割をわたしは担ってきた。

挿画:デューラー(1471-1528)による
E. O. ウィルソン『ナチュラリスト・上』
荒木正純訳より


あたりまえだった風景や生物が、気がつくと、記憶の中や、文章の中にしか見つけられなくなっている。そしてそれが意味することに愕然としたときに、その何もかもを書き留めようとせずにはいられなくなってしまうだろう。緻密に、正確に、そして思いを込めて。その先人、ミシュレの足跡をいまたどってみよう。


■博物学の視点へ

中尾ハジメ:ちょっと復習しましょう。ユーゴーはいつ頃の人だったかな?

学生:1802年に生まれて、1885年に死にました。

中尾ハジメ:長生きですねえ。えっと、じゃあ、明治維新はいつだったかな?

岸本智史:せんはっぴゃくろくじゅう〜・・・5。

中尾ハジメ:8だ、8。1868年です。1800年代ですね。ユーゴーも1800年代ですね。さて、明治40、寒村が『谷中村滅亡史』を書いたのは、西暦でいうと何年ですか?

岸本智史:1907年です。

『ナチュラリスト』中尾ハジメ:つまりヴィクトル・ユーゴーが死んでから、何年か経ってますね。まあ、こういう細かい年代を覚えるために努力しなくてもかまいません。しかし、いつごろかぐらいは知っておくように。しかし、ユーゴーはパリの下水道について、自分の生きていた頃より昔のことも書いておりますね。

さて、今日の資料をご覧下さい。最初に目次があって、いろいろ並んでますね。で、『海』というタイトルがありますね。で、めくりますと、第2部の「海からの発生」の6、「海の娘」というのがありますね。次の資料が、「海の律法」というものがあります。で、その次はパラダイス・ビーチとか書いてあります。

この第1章「パラダイス・ビーチ」というのは、エドワード・O・ウィルソンという人が書いた『ナチュラリスト』(法政大学出版局)という本からの抜粋です。荒木正純さんという人が訳しています。エドワード・ウィルソンという名前を聞いたことがありますか? 知らない? 覚えておいた方がいいよ。えっと、法政大学出版局が出したときは1996年です。元の本は94年にでています。さて、この「パラダイス・ビーチ」、少し読んで下さい。

■ミシュレとユーゴーの時代

中尾ハジメ:読んだね? そんな感じの文章で始まる本です。さて、じゃあ、今度は、ミシュレってひとは知ってる? (手を挙げる人は少ない) ええ!? みんなあまり知らないんだな〜。じゃあ、マルクスは知ってる? そりゃ知ってるよね。マルクスはほんとはカール・マルクスっていうんだけど、「マルクス」だけでわかるでしょ。ミシュレもほんとはジュール・ミシュレっていうんだけど「ミシュレ」だけで、通用するくらい有名なんだよ。

『海』で、ミシュレが書いた『海』(藤原書店 加賀野井秀一 訳)なんですが・・・この藤原書店てのは面白い出版社でね、この間山田國廣さんのところに社長さんがきてましたが、そんなにとしの人じゃないんだけどね、手紙は毛筆なんだよ。なかなか面白い本を出している出版社ですが、この本がでたのは、1994年です。もともとミシュレがこの本を出したのは、だいぶ昔ですね。おそらく1860年くらいではなかったかな〜と思いますが、ちゃんとしたデータは後でお渡しします。で、ミシュレという人は1798年くらいに生まれて、1874年まで生きていました。ヴィクトル・ユーゴーは1802年から1885年ですね。ということは、ミシュレは、ユーゴーより少し年上です。さて、ところで、ユーゴーの『ノートルダム』って話は知ってる? 聞いたことある? 手を挙げて・・・はいはい。南君は何で知ってるの?

南信之介:ノートルダム・・・女子大学。

中尾ハジメ:・・・

南信之介:あとは、ディスニーのアニメーション映画がありました。

中尾ハジメ:そうそう、その映画のタイトルの中に「ノートルダム」って単語があったんだね?

南信之介:はい。

中尾ハジメ:よ〜し。その作品の原作はヴィクトル・ユーゴーです (教室内に納得の雰囲気)。ユーゴーが若いときに書いたんだよ。さて、フランスの革命は、1回こっきりで終わった訳じゃないよね。何回かの段階を踏んでますね。でしょ? その革命の時代に、ヴィクトル・ユーゴーは『ノートルダム』などを書いたんだね。

前回の授業では簡単に通り過ぎるだけになってしまいましたが、フランス革命のその時代ってのは、印刷屋さんが大活躍したました。たくさんの印刷物が作られたんですね。その革命の中にはたくさんの対立グループがあって、それぞれの印刷物──新聞であるとか、雑誌であるとか、あるいは本──で革命を戦ったんだね。もちろん武力の衝突もありましたが、しかし、どういう社会を作っていくのか、という点においては、ほんとうに言論の戦いだったんです。ほんとは、1年間くらい、「フランス革命史」の講義があるといいんだけどね。当時の言論の戦い。それは本当にすごかったはずです。いまのようにテレビもなければ、ラジオもない。携帯電話もない。とにかく、印刷だったんです。で、その時代、だいたい新聞を書く人は、小説や詩や評論も書いた。

さて、実はミシュレは偉大な歴史家です。そして、荒畑寒村や田中正造がそうであったように、政治に関心を持ち、選挙で選ばれたりするんだよ。そして、さらにミシュレは、これまで何人かこの授業で挙げてきた人たちと同じように、ものを書いて主張をします。ユーゴーは国外に追放されました。さて、西村さん。ユーゴーが追放されたのはいつのことだい?

西村一恵:185・・・2年?

中尾ハジメ:うん、それくらいのときかな。そのときにミシュレは大学を辞めさせられます。ユーゴーだけじゃなくて、たくさんの人が国外追放みたいな目にあいます。つまり、ユーゴーとミシュレは同じ考え方、当時の政府に反対する思想だったんだね。年齢は違うんだけど、ミシュレは『ノートルダム』を読んで、よい評価をしています。それ以来、ミシュレとユーゴーは同じ陣営、共和主義の立場になったんですね。共和主義って何か分かる? ちゃんと調べるんだよ。共和国のことを「republic」といいますが、この「re」は、なんだろうとかね。

さて、ユーゴーやミシュレについて、ほかのくくり方があります。それは「ロマン主義」というくくりです。これは1800年代になってから強くなる、文学と社会の運動ですね。ただ、僕の考えでは、ロマン主義というものを、こういうものだといいきれない感じがしています。しかし、歴史を細かく区切って、定義をする人の中には、「ロマン主義、すなわちヴィクトル・ユーゴー」というふうに言います。で、「フローベル、すなわちロマン主義を否定する立場で、自然主義」なんていったりしますね。こんなふうに「ロマン主義」だの「自然主義」だのきくと、みなさんは「こんなのがテストにでたらかなわんなあ」とお思いになるだろうし、僕もテストになんかだしませんが、こういうのは覚えておいたほうがいいんだよ。重要なんです。で、どういうふうに重要かということを非常におおざっぱに、したがっていささか乱暴に言いますとね、教会の坊さん達が、だんだんだんだんのさばってきてね、決まり切ったことだけを教える。で、庶民もそのことだけを信じていればいい、という時代があったと思って下さい。つまり「封建時代」。教会がたいへん強い力を持っていた時代です。ヨーロッパではそれに対する反発がおこりました。その反発の時代をこれまたおおざっぱにいいますと、「啓蒙主義」の時代としますね。啓蒙ってのはね、「明るくする」ということなんです。つまり、知識がないという意味で暗い状態の人々に、知識を与えて、理性の力でものを考えられるようにするんだ、という考えなんですね。

しかし、この啓蒙主義の時代のなかみも様々でした。啓蒙主義の時代の終わりの方にでてくるのはルソーです。ルソーの前には、百家全書派という人たちがいました。サイクロペディア、つまり百科事典なんですが、いろんな学問・宗教の用語が解説されていたんですね。それをフランスの人たちがフランス語に翻訳したんですね。で、その人達は翻訳だけでなく、エンサイクロペディアっていうものを作っちゃったんだね。これが啓蒙主義の時代にあったんです。たくさんのひとがそれを読むことで世の中のことが分かるようになるっていうんで作ったんですよ。その啓蒙主義の時代には、印刷屋さんが、一生懸命それを印刷したんだね。

さて、啓蒙主義ってのは、おおむね進歩主義でした。今風に言うと、近代化を目指す感じだったんですね。ルソーは変な人でね、そういう「進歩」っていうものに疑いを持ったんですね。啓蒙主義なんだけど、進歩をしてはいけない。かわってますね。で、その啓蒙主義のの時代のあと、フランス革命が起こるんです。

■アプローチの仕方は多くあるということ

中尾ハジメ:環境ジャーナリズムの、元型みたいなものをいろいろみなさんに紹介していますが、どうやら、出発点がひとつで、そこから単線的に、続いてくるというようなものではなさそうです。複数の出発点から考える必要がありそうです。日本を見ても、印刷技術があった。社会主義の運動があった。で、朝日であるとか、毎日であるとかの大きな新聞ができる時代でもあった。印刷技術がなければ、印刷物を作ろうとは当然思いません。そして、なによりも印刷より先に、人間というものがいます。たとえば、それは荒畑寒村とかいったりして、印刷物を作る前に具体的人生を持っていたりしたんですね。その人生の中で、田中正造に出会った。このであったことをひとつの出発点にすえることもできるでしょう。

荒畑寒村でなくても、いろんな無名の人たちが、ジャーナリストだった。日記をつけていた人がいましたね。詳しい紹介をまだしていませんが、川俣事件の裁判がありました。それは東京に向かって、足尾のあの周辺の人たちが今で言うデモンストレーションをしに出かけるんです。で、川俣というところで警官隊が待ち伏せて、暴力も振るっていない人たちから、暴動の言いがかりを作って100人近い逮捕者を出します。で、裁判では無罪になるんですが、この事件の結果、東京の農科大学の先生達が、足尾で鉱毒問題があるということを調査することになるんですね。この先生たちが書いていた調査報告書があるんですね。そしてこの先生たちのジャーナリズムをたとえば『農業雑誌』というものです。

さて、話を戻しますと、出発点はいろいろあるということです。それは、時代や土地によっても違いがあったりします。しかし、どこか相通ずるところもあると思います。

■啓蒙主義時代以前の印刷物による大変革の時代に少し触れる横道

中尾ハジメ:さて、印刷についてもう一言。マルティン・ルターは知ってる? 英語風にいうとですねえ、マーティン・ルーサーですね(黒板にMartin Lutherと書く)、で、ここに King をつけて、jr.もつけると(黒板にはMartin Luther King jr.と書く)、知ってるよね、この人? え、知らない人いるの? マルコムXってひとは知ってる?(まばらに手が上がる) 公民権 (Civil Rights)ていう言葉は知ってるよね。── 稲田雅洋の話はしたよね、『自由民権の文化史』?──南北戦争によって、黒人は奴隷状態から解放されたことになっていましたが、長い間一人前の扱いをされませんでした。で、Civil Rights Movementというものがあったんです。その有力な指導者のひとりに、キング牧師がいました。1964年だったかな? 暗殺されます。暗殺の前の年の演説、「I have a dream」っていう有名な演説があります。モハメッド・アリはしってる? 猪木は知ってるか? アントニオ猪木? じゃあ、モハメッド・アリっていう名前になる前は何だったか知ってるか? カシアス・クレイっていうんだよ。ところが、ある日名前を変えたんですね。イスラムの名前、モハメッド・アリにね。カシアス・クレイだったころには、たぶんマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、彼にとって尊敬の的だったと思います。これも覚えておくといいね。

でね、話を戻すと、このマーティン・ルーサーをドイツ語読みすると、マルティン・ルターなわけだね。じゃあ、ついでに「ルーテル教会」って知ってるか? あれはルター派教会なんだぞ。これも覚えとくといいよ。ノートルダムはルター派じゃないぞ。ああ、こんな事しゃべっててもしょうがないなあ、とも思うんだけど、でもねこういうことで世界はどんどん広がって行くんだよ。ついでだからいうけどね、ノートルダム (Notre Dameと黒板に書く)、多分こういうスペルだと思いますが、Dame。これは「婦人」という意味なんだよね。で、Notreは、たぶん「私たちの・我々の」とかいう意味だと思います。つまりね聖母マリア様なんだよ。聖母マリア教会。でも、ノートルダムの方が格好いいよね。

それで、話を戻しますとね、マルティン・ルター。彼は宗教改革をした人だね。キリスト教は、大きくふたつに分けることができますね。カトリックとか、プロテスタントとかいいますね。で、カトリックの方が古いんですが、それにプロテスト──つまり抗議、異議申したて──したんですね。で、プロテストのチャンピオンはマルティン・ルターなんです。で、ルターの宗教改革は、印刷がなければ、絶対あんな事はできなかったといわれています。あ、もう2時(授業は1時から始まり、90分間)だ。この話はここまでね。

■ミシュレの『鳥』

中尾ハジメ:その後の、大きなヨーロッパの変動の波、それはフランス革命でした。フランス革命中、印刷技術によって多くの意見が飛び交うわけですね。そのなかにミシュレやユーゴーもいたんだね。さて、ユーゴーが環境ジャーナリズムと呼べそうなことをやっているな、ということで提示した資料は、「怪物の腸」でしたね。それから、もうひとつ、今日の資料はミシュレの『海』の一部です。彼は、もともとこういうのは書いてなかったんだよ。ちょうど1851だか52年の時、反政府派がいろいろ追放されます。ミシュレも大学を追われ、そのあとにこういう『海』みたいなものを書き始めたんですね。ミシュレはほかにもいっぱい歴史の本を書いているんですが、こういうのは「博物誌」といいますね。「博物誌」といわないで、「自然誌」というふうにいうこともあります。横文字で書くと、「ナチュラル・ヒストリー」といって、こういうことをするひとを「ナチュラリスト」なんていいますね。で、今日のもうひとつの資料は、ウィルソンの『ナチュラリスト』からでした。日本語ではどういったらいいのかな? 博物学者? 自然誌家? まあ、いいよ。これは、実はたいへんな伝統です。日本にももちろんそういう流れはありました。しかし、どうも少し違うようです。それからヨーロッパでは、ロマン派であったり、共和主義者であった、ね。これはどういう違いなのでしょう?

ミシュレの書いたいろんな本がありますが、ローマ史、フランス史。特にフランス中世史、それからフランス大革命史。さまざまです。そのあとですね、追放されますが、かなりの時間をかけて博物誌の本を書き始めます。『鳥』『虫』『海』『山』。こんなのがあるんですね。さて、歴史学の先生が、どうしてこういう風に、博物誌を書くことになったのか? なぜ、ユーゴーは、『レ・ミゼラブル』のなかに、下水道の話を書いたのか? ユーゴーに聞けば、何で下水道の話を書いたのかを教えてくれたかもしれないけど、ユーゴーはそんなものを残していません。ロマン派はそんなダサいことしないんでしょうね(笑い)

『鳥』しかし、ミシュレは残しています。歴史学者が、なんで博物誌を書いたのかを。『鳥』の序文です。「著者はどうして自然を研究するようになったか」という露骨なタイトルが付いています。しかし、この序文が長い!(本を見せながら)ホラ、本の1/5くらいは序文です。しかし、感動的な序文なんですよ。

あんなにも長い間、私に耳を傾けてくれ、また私を少しも見捨てなかった公共の友に対して、

「公共の友」とは何か? republicにつながることですよ。そして読者のことです。実際に飯を食ったり、顔をつきあわせているとかいう世界を超えて、つながりを持っている、そういう人たちのことですよ。何によってつながりを持っているか? 本を読むことによってですよ。

その友に私が専門の歴史から離れることなく、博物誌に向かうことになった、個人的な事情を告白しなくてはならない。

一千年間にも匹敵する争闘を含んでいる強大な十八世紀は、その末期において、ベルナルダン・ド・サンピエールの(科学的には貧弱であるが)愛すべき、またなぐさめとなる書物に休息を見いだした。

サンピエールの本があったから、あの激しい時代にも、知識人は休息を見いだすことができたのだ、といっているんだね。ミシュレにとっての18世紀は、生まれてすぐ終わっちゃうけど、知識としてそういうことを知っていたんだね。

十八世紀はラモンの哀切な言葉で終わりを告げた。《自然の胸のなかで嘆かれた、こんなにも多くの取り返しのつかない損失! ・・・・》

ものすごい社会的損失があった。それをひとびとは自然の胸のなかで嘆いたと言うんですね。ミシュレ自身はそれを受けて、

われわれは、たとえどんな物を失ったにしても、孤独に対する涙以外のもの、傷ついた心をやわらげる慰め以外のものを求めたのである。私たちはそこに、つねに前進するための強心剤、涸れることのない泉の一滴を、新しい力を、そして翼を! 求めたのである。

なんでしょうこれは? 何を言おうとしてるんでしょう? 単なるメタファでしょうか? みなさんはまだそういう経験はないかもしれませんが、いや、僕はみなさんがまだ気がついていないだけで、当然みなさんにもそういう感じがあると思うんですが、風景に救われるって事がないですか? 落ち込んだりしたときに、浜辺に行ったりして、そうして、やっぱりもう少し生きていようかな、と思ったり、そういうことなんです。ないですか? で、ミシュレはそういうことを言っていると思うんですが。

歴史は決して歴史のひと[歴史家]を手ばなさない。この強いにがい酒を一度でも飲んだことのある人は、死にいたるまでそれを飲むことだろう。

歴史ってのは、やめらんないってことですね。

私はいまだかつて歴史から離れたことがない──苦しかった時代にさえも、過去の悲しみと現在の悲しみがもつれ合い、われわれ自身の廃墟の上に九十三年(大革命の年)と書いたときに、私の健康はおとろえることがあった。しかし私の魂、私の意志はおとろえなかった。一日中、私はこの最後の義務に忠実であった。そしていばらの中を進んで行った。夜は、博物学者や旅行家のおだやかな物語に(初めのうちは努力して)耳をかたむけた。私は、まだ心をやわらげることも、自分の考えから抜け出すことをもできないままに、耳をかたむけ、また感嘆していた。しかし少なくとも、自分の考えを押さえつけ、この清らかな平和に私の心配や私の嵐を持ち込まないように気をつけたのである。

夜には博物誌の本を読んだんですね。さて、博物学者といえば? 『動物記』を書いたのは?

南信之介:シートンです。

中尾ハジメ:そうだね。じゃあ、『昆虫記』は

長澤智行:ファーブルです。

中尾ハジメ:ほかにだれかいる? まあ、もっといるんだけどね。ファーブルは『植物記』ってのものかいてるね。ミシュレは夜になったらそういう博物誌を読んでいたと告白しているんですが、

私自身が、久しい前から、自然科学におけるフランスの大革命を心から賛美していた

つまり科学の革命もあったんだよね。で、その科学の革命についていうと、いまこの京都精華大学の環境社会学科の先生のなかには、あの科学の大革命こそ、環境破壊の原因だという人もいるでしょう。しかし、ミシュレはこういいます。

あんなにも実りゆたかな方法を持ち、あらゆる科学の力づよい鼓吹者たちであった、ラマルク(ラマルクなんて、環境文化コースの人は、絶対に覚えておくんだよ、と付け加え)やジョフロア・サンティレールの世紀を。彼らの精神をひきついだ正統の息子たち、賢明な子供たちの中に、彼らの価値を見いだして、どんなに喜んだことだろう!

何でこんなに感嘆文ばかりなんだろう? しかし、逆に言えば、どうして感嘆文じゃあかんのでしょうか!?

まっさきに、あの愛すべくまた独創的な『鳥の世界』の著者[トゥスネル]の名を挙げよう。人々は彼を以前から、もっともおもしろい博物学者ではないとしても、もっとも着実な博物学者の一人だと言明していたようだ。私はこの点には何度もふれることだろう。しかし私としてはこの本の開巻早々急いで、きわめて偉大な観察家に対して最初の賛辞を呈したいのである。彼は彼自身で観察した事柄のために、ウィルスンやオーデュボンと同じ程度に重要であり、また同様に特別なのである。

しかし、読者がこれから読まれれるこの本は、あのすぐれた巨匠の本とは異なった観点から出発する。

それは決して反対の観念ではないが、対称的に向かい合った観点だ。

この本は、鳥を鳥として見るだけにつとめて、できるだけ人間との類比を避ける。

人間! 人間ならわれわれはほかのところでもうたくさんなだけ出あっている。

人間とここが似てる、ここが違うとか、あえていわないということですね。いいですか? ミシュレ自身は、人間とは「もうたくさんなだけ出あっている」んです。もう充分だ! と言っているんですね。

その反対に人間社会に対するアリバイ[不在証明]や、ふかい孤独や、また古い時代の荒野などを求めたのである。

人間は鳥なしには生きられなかっただろう。ただ鳥だけが、人間を昆虫や爬虫から救うことができたのだから。だが鳥は、人間なしでも生きられただろう。

人間が居ようと居まいと、鷲はおかまいなしにアルプスの彼の玉座で支配するだろう。ツバメは依然として毎年の移住[渡り]をつづけるだろう

・・・

本書とトゥスネルの本とのもう一つの相違は、彼が調和主義者であり、あのおだやかなフーリエの弟子でありながら、それにも拘わらず狩猟家であった点である。

・・・

本書はその反対に、まさに狩猟に対する憎しみを持って書かれた平和の書物である。

・・・

われわれが心に抱き、また本書で説いている宗教的信念は、次の通りである。すなわち、人間は平和的に全地球をむすびつけるだろう。家畜の状態か、あるいは少なくともその本性が適応できる程度の親しみまたは近しさかにまで連れてこられた、すべての動物は人間にとって、それを締めころすよりも百倍も有用であることに人間が次第に気がつくだろう。

例えば、マンモスなんかはね、氷河期を生き延びられなかったなんて言いようを聞くでしょ? どうもちがうみたいですよ。マンモスは人間が食べたから居なくなったんですよ。マンモスを食べたから、人間は生き残って、マンモスは絶滅したんです。

さて、今週はここまで。「海の律法」をしっかり読むように。現在の、いわゆる21世紀の環境運動と通ずる点が多く見られます。読んで下さい。

授業日: 2001年5月15日;