第6回 『沈黙の春』への産業界の反撃と、宇井純『公害原論』──ジャーナリズムとは言論という闘いの場であること

リンダ・リア『レイチェル』から化学産業界の反撃を読みとる

それでは始めますが、まずは先週の続きからやりたいと思います。資料は回ったかな。これはリンダ・リア(Linda Lear)という人が書いたRachel Carson:witness for natureという本の日本語訳です。奥付があって、2002年8月26日の発行、著者はリンダ・リア、それから上遠恵子さんが訳者であることがわかる。

先々週と先週、『沈黙の春』が出版されると産業界からかなり強烈な反応がきて、それ以来産業界とレイチェル・カーソンのような人間との戦いが始まりました、ということを言ったよね。それは今でも続いていますが、具体的にどんなことがあったのかを今みなさんが読んでいるわけだよね。ただし、これは、当時レイチェル・カーソンとやりとりをした人たちが直接とらえらえていることに限定されています。「産業」というのは、みなさん想像したら解ると思うけど、たいへん大きなものだよね。その大きな産業組織の中で、具体的にどういうふうに議論が行なわれたか、あるいは作戦が立てられたか、ということは全くわからない。わかっていることは、いわば断片なんですね。しかしそれを透かして見れば、どれだけ産業界からの圧力──つまりは産業を進める力──というのが大きいかがよく解ると思います。

レイチェル・カーソンがホートン・ミフリンとの間で契約を交わす時に……。契約を交わすと聞くと、みなさんは意外と思うかもしれませんが……。作家が何かものを書き、出版社がそれを出版してくれるといったら、作家はよろこんで──どうぞ出版して下さい。タダでもいいです──出版社は適当な値段をつけて……。出版社は出版社でたくさんの人たちが買ってくれたらこんな嬉しいことはない。でも、買ってもらえなければ仕方ない。……そういう流れを想像するかもしれませんが、世の中そんなふうにはできてないですね。特にアメリカはそんなふうにはできてないです。ここではそのことが非常によくわかるんですが、考えようによってはアメリカ社会ってのは極端に契約的社会、競争的社会だということが読み取れると思います。

それは措いておいて、586ページから587ページにかけてのところを見ると、もしどこかの企業から名誉毀損──なんで名誉毀損になるのか、おそらく当時のアメリカの民法でいったら、これが一番可能性があったんでしょうね──で訴えられたら……。ようするに、DDTを作っているのは悪い企業だと言うことは、これは名誉毀損に当たるということじゃないかと思うんですが、それで訴えられた場合に、出版社が責任を負うのか著者が責任を負うのか、そのあたりのことをハッキリとさせておくということをしたわけだよね。ところが、この587ページを見ると、4行目ですが、

ブルックスがホートン・ミフリン社の弁護士にたずねたところ、最近、会社は名誉毀損保険に加入したが、控除可能額は5千ドルだということだった。

「控除可能額」という言葉はちょっと解りにくいですが……。ジャーナリズムも大変だよね、こういう言葉も相手にしないといけない。翻訳をする人も「控除可能額」としか訳しようがなくて、それが5,000ドルだと書いてある。リンダ・リアが「控除可能額」と書いたのは、ひょっとして控除可能額を超えると推定されるある種の経済的損失の大きさを言いたかったのかもしれない。そうだとすれば、そのことはなかなか読者には伝わってきません。控除可能額は5,000ドルと書いてありますが、現在のドルに換算するとおよそ6倍です。つまり30,000ドルぐらいだろうなと思います。今、1ドルが125円だと換算すると、375万円ということになります。わからないなりに考えるとですね、要するに企業が訴える可能性が十分にある。それに対して十分な準備をしておかないと、レイチェル・カーソン自身の生活が成り立たなくなる。ということが想定されていたという事がわかる。

後は読んでいただいたらわかると思いますが、6月16日に『ニューヨーカー』が出版される。『ニューヨーカー』のやり方は、もうみなわかってると思いますが、つまりいろいろ準備されているわけだね。単行本は9月に出版されるという段取りがもう決まっている。それから、実は『ニューヨーカー』だけではなくて他の出版メディアも同時にやるということが起こります。それから603ページを見てごらん。先程の、もし名誉毀損で訴えられたらどうするかという事について、ここではもう一回、6月の出版の時点からさかのぼって、5月段階のことが書いてありますね。

カーソンとホートン・ミフリン社との契約を五月末に再交渉した。新しい契約では、カーソンの有限責任は二千五百ドル以下、もしくは訴訟費用の累積総額の半額と厳密に制限された。

「制限された」とはどういうことか。それ以上はカーソンがお金を出さなくていいようにしたということですね。ホートン・ミフリンという出版社も、カーソンだけに絶対的に有利な契約をしたわけでもない。ある種のリスクを計算して、それをカーソンと分割する、というふうになったわけですね。その場合、有限とはいえ「2,500ドル」。これを6倍して、1ドル125円で換算するとどうなるか。計算しておいて下さい(2,500×6×125=1,875,000円)。

被害と言論──被害の「科学的」説明、そして「科学的」反論

そんなことがあって、カーソンがSilent Springを出す時の社会状況はどうだったか。当然のことながら農薬被害の問題は、カーソンがその全てを発見したのではなくて、1940年代、特に50年代には、DDTの空中からの散布がたくさんやられたんですね。その結果、実際に農場にいる人達であるとか、散布が行われた土地の近くにいる住民は、ある種の「体験」をする。実はその「体験」が基になっている。その体験というのは……鳥が死んだり、あるいは牛が死んだりしてしまうということです。人間自身が死ぬ被害も若干あったかもしれませんが、鳥や野生動物や家畜が農薬中毒で死んでしまう、という例が山ほどありました。

しかし、カーソンのような科学的な証拠集めをしたり、科学的にそれを説明──解説というかな──するということがそれまで足りなかった。全くなかったというのではなくて、あまりなかったということなんですね。それを『ニューヨーカー』のような大きなメディアを使って、しかもその後に単行本を出して、たくさんの読者に訴えるという準備を着々としていたということだった。……というのも思いだしてください。

その社会状況というのは、農薬だけではなくて、その他の化学物質がたくさん世の中にあふれてくるわけですが、中でもめざましいのは薬品類でした。例えば、「サリドマイド」っていうのが出てきますね。「サリドマイド」って知ってる? 知らない人、手を挙げて。(学生数人、手を挙げる)1957年に、ドイツの製薬会社がこの薬を開発して売り出しますが、これは精神安定剤、あるいはよく眠れるようになる薬です。だから、よく眠れない人がその薬を使ったんだね。その結果女性であれば、妊娠中にその薬を飲んだりすると──特に手、腕が多いようですけども──手足がちゃんと発育しない、アザラシの様に短い手しか出てこないという事例がありました。これは──今みなさんが読んでいるところは1962年の秋の話ですが──1963年には日本でも、サリドマイドの責任を製薬会社が取るべきだと訴訟が起こされます。この薬を販売してはならないということになるのは、それからさらに4年後の1967年です。……というような事がありましたが、繰り返して言いますけれども、Silent Springという本だけがあって何かを主張した訳ではなくて、社会状況そのものがかなり、こういう化学製品の問題を感じ始めている、ということが背景にあります。

それで、606ページを見てください。

七月の下旬に「ニューヨークタイムズ」紙のビジネス金融欄に掲載された記事は、化学産業界がカーソンへ反撃を開始する先ぶれだった。

と書かれています。ここから続く部分に、どういう反撃があったかが、ある程度は書かれています。それを見ていただくと、ああ、やっぱりそうなのかなとわかることがあると思います。

言論と、広告あるいはPRという言論

それのひとつなんですが、616ページをちょっと見てごらん。「農薬化学協会」というのが書かれています。「農薬化学協会」というのは、ひとことで言えば化学肥料と農薬とを作っている人達の集まりだね。そこに「渉外部」と書かれていますが……もとの英語は何だったでしょう? Public Relationsというものだと思います。

農薬化学協会は渉外部を大幅に拡大し、農薬が適切に使用された場合の恩恵を再確認するたくさんの新しいパンフレットを郵送し、雑誌や新聞の編集者に、カーソンの本に好意的な書評を書くと、今後広告を出すのは考えなおすと暗に脅しをかけてきた。

「広告を出すのは考えなおす」──つまり、おたくの雑誌には、新聞には、広告をださないよ。とすると、すでに1945年時点の、みなさんが見た例の「ヒロシマ」(ジョン・ハーシー)が載った『ニューヨーカー』を見てもわかるように、広告がなければ成り立たない、出版できないようになっています。ここから、大きな化学産業が手を引くと言われたら、やはりみな困ってしまって、カーソンの『沈黙の春』についてはあんまり記事を書くことはやめなきゃいけないというふうに思ったりするんだよね。

これがどの程度の効力を持っていたか、実際にこの圧力によって、どの程度世論が抑えられたか、という事は実はわからない。誰も調べてない。なかなか調べようがないと思いますが、こういう事があったことは書かれています。それから後、かなりしつこく表面的には小競り合いに見えるようなことが1964年にカーソンが死ぬ頃までに──実はカーソンが亡くなってからも続くんですけれども──、大体どういう方向性にあったか。ということが断片的に描かれています。という、これ自体が、つまりリンダ・リアのこの本自体が、ひとつのジャーナリズムですね。

余談:最近のアメリカのジャーナリズムについて──実証主義の肥大かな?

一番最後をちょっと見ていただくと、本の後に非常に細かな「注」がついています。この方法はリチャード・ローズと同じですね。なんだかアメリカのジャーナリズム、あるいは歴史──といってもたいして長い歴史ではないんですけど──はますますこういう感じになってきていますね(笑)。根拠──誰から聞いたか、いつ聞いたか、どこにそういうことが書いてあったかということ──をいちいち細かく書きながら、しかもそういうことばかりを、つぎはぎと言いますか寄せ集めて、それで出来上がるので、この本のようにめちゃくちゃ厚いんです(笑)。こういうのが流行っているようです。

ということですが、ひょっとすると、これと同じような手法をみなさんは大学のようなところでは要求されているのかもしれない。あんまり要求されたくない感じがしますが……。一行書くごとに注をつけないといけない(苦笑)という、大変なことになると思います。どこか適当な線でバランスをとったらいいと思うんですが、ただ、肝心なこと──そんなことはどこに書いてあったんだと言われそうなこと──については、こういうふうに注をつけるのがいいかもしれません。というわけで先週の続きはここまでです。

意見と意見の衝突──伝えたいこととしての体験と、利害ゆえに広めたいこと

さて、先週までやってきたこと、今やったことをふりかえって、もう一度意味づけをしておいたほうがいいと思います。ここでは「ジャーナリズム」という言葉を使ってやっています。授業のタイトルも「環境ジャーナリズム」です。では「ジャーナリズム」ってなんだろう? いろんな言い方があるんですが、ようするに言論のことじゃないか、あるいは言論・出版のことじゃないかと思えてきたでしょう。最初はただ何か「事実」とか「体験」というものがあって、その「体験」が、体験をした人たち──その現場──からこっち側の「みんな」の方に伝わる。この伝わるというところが「ジャーナリズム」であるかのように言ってきました。それは別に間違っていないんですよね。間違ってないけど、よくよく考えてみたら、結局のところはジャーナリストが「私の意見」、「私の伝えたいこと」を持っているから成り立つわけですよね。当たり前ですが(笑)。

このことが今なぜ「言論」と同じだというふうに言われるのかというと──別に急に思いついたわけではありませんが──それは反論する人たちがいるということがあるからです。つまり、人間の世界ではいろいろ衝突を繰り返している。その衝突はどこで繰り返されるのか。軍事的衝突、武力的衝突とか肉体的に衝突するものもありますけど、今ここで言っている衝突というのは要するに「言論」ということなんです。

「言論の方法」はどういう方法があるか。しゃべる、書くことというような方法があったわけですが、言葉を使わないとどうにもならない世界ですね。ちょっと脱線するように思うかもしれませんが、最近は言葉を使わない方法があるかのように言われています。映像とかね。しかしそれは本当に言葉を使っていないんだろうか。これは今考えなくてもいいんですが、いずれ考えなくてはならないだろうと思います。なぜかというと、「言論、出版及びその他一切の表現の自由」という言い方が、例えば憲法にも定着しています。

日本国憲法 第二十一条 1[集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密]
  1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する
  2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

「その他一切の表現」というところに何でも放りこんで本当にいいだろうか、ということを考えなければいけないという問題です。

ジャーナリズムの「客観中立性」について

ちょっと脱線をしたので元に戻すと、いずれにしても、ジャーナリズムと言うけれども、要するに言論のことではないかと。ジャーナリズムとは言論のことだ、と言ったときに、ひょっとするとみなさんの中には、例えば「客観的」とか「不偏不党」とかいう言葉でジャーナリズムを考えたがっていた人たちがいると思うんですよ。「客観的事実」とか。実際問題、長い間──とくに戦後ですが──日本のジャーナリズム、つまり報道、マスコミュニケーション世界では、「偏らない」「中立的でなければいけない」ということが非常に強く言われてきました。僕がここで抽象的に言ってもあまり意味がないんですが、そういうふうに言われてきたということを覚えておいてください。おそらくみなさんが今年の4月が始まる時点で、ジャーナリズムが伝えるべき事実は何かというときに、たぶん頭の中に抱えてきた「事実」というのは「報道は中立でなければいけない」「客観的でなければいけない」という考え方を受け継いでいたと思います。みなさんはそれをあまり意識しなかったかもしれませんが、そうであったに違いないと、僕は思います。

これはここに措いておいて、実際問題レイチェル・カーソンが直面した状況に戻って考えてみると、これこそまさにレイチェル・カーソン自身が最初から予期したとおりの言論の状況──言論が活性化したと言いますか(あまりよい活性化だと思いませんけれども)、言論的な衝突が次から次へと起こるような状況──ですね。その1960年代の延長線上、40年経ったいま、その言論の状況がどうなったかということを捉えるのが、本当はわれわれがするべきことなんですよね。ところが、ちょっと泣き言を言って申し訳ないんですが、これを捉えるのは難しい。ものすごく難しい。いささか古い材料しかなかなか扱えないというところに私はおかれています。

さて、こういう文脈があるというふうに考えていただいて、いよいよ宇井純の『公害原論』というのにはいりたいと思います。みなさん持っているよね。それからさらに新しく2枚つづりのプリントを配ります。

やっとたどりついた宇井純『公害原論』

いま配ったものを説明します。『公害原論』は1971年に出版をされています。『公害原論』1巻から3巻までと、補巻1から3巻の全部で6冊が1971年に出版されています。それが補巻を除く1巻から3巻までをまとめた、こういう合本というかたちで1988年に出版されました。これは2,835円。そんなことを言って何になると思うかもしれませんが、さっき紹介したリンダ・リアの本は5,000円です。厚みはほとんど一緒です。おもしろい世界ですね。

その合本の「まえがき」が、いまみなさんが見ているものです。したがって、これは1971年ではなくて、1988年に宇井純が書いたものです。「DDTをかけられる上野の家なき親子」という写真と、DDTの辞書的解説は、宇井純の『公害原論』とは関係がありません。全然別のところからとって、スペースが空いたから入れておいただけです。ただ1946年の上野って、こんなふうだったんですよ。そのころの子どもたちはDDTを山ほどかけられて、もう真っ白になっていた。僕も自分の家では大掃除をして畳を上げたら、必ずDDTをたくさん撒いていました。ノミがくるからね、DDTをさかんに撒いておりました。頭にかけられた記憶は僕にはありません。でも僕より10歳くらい上の世代は頭にかけられていましたね。シラミとかいろいろいたから。しかし、この写真をお見せするのは、DDTを子どもにふりかけたのがけしからんということを言いたいからではありません。DDTというのは基本的に農薬なんですよね。ふりかけられたって死にはしません。僕なんてずっとDDTと一緒に成長してきていますから死にはしませんでしたが、それを農薬として使うということに問題があるということです。

「自主講座」そのものがジャーナリズムであったこと

それでは「合本まえがき」というのに戻りましょう。前回も言いましたけど、宇井純の『公害原論』を読み、これはどういうジャーナリズムであったかということを考えようということです。実は本にする以前の問題として、宇井純という人が東京大学の教室を使って「公害原論」という自主講座を開いたということが、ジャーナリズムにとってものすごく大きな意味がある。それ自体がジャーナリズムであったと言わなければならない。

前回渡した資料を見てくれますか。水俣病というのは、実は「公害原論」の第2回目の講義の途中からです。1回の講義が例えば夕方の6時くらいから始まるのかな。それから8時30分くらいまで続けられているわけです。おそらく途中で休みが1回入るくらいです。98ページというところを見てみてください。1970年の10月26日という日付がありますね。そこから161ページまでがだいたい1回分の自主講座で宇井さんがしゃべった分量です。これくらいのことをしゃべったということですね。ここに集まってきた人の数は、大変な数でした。

その1回前の第2回目の講義というのは1970年の10月の19日です。そうすると、すぐおわかりになると思いますが、2回目が10月19日で、3回目が10月26日ですから、1週間に1回のペースでやっていたんですね。これはすごいですよ。1週間1回、途中でどのくらいのペースになったか僕はちゃんと把握していませんが、これを15年間続けたんです。これはすごい。

しかも、繰り返して言いますけれども、次の年の3月には『公害原論』の第1巻が出版されます。それから2ヶ月とか3ヶ月とかいうペースで2巻、3巻出て、1971年のうちに補巻もあわせて6冊の本が出ます。本が出たということはもちろんすごいんですよ。どうしてすごいかと言うと、東京大学なんか行ってやらないと思っていた僕は、『公害原論』の本が出たと聞いたらそれを買ってきて一生懸命読んだ。そういうふうにして読んだ人がたくさんいると思います。この本を出版しているのは亜紀書房というあまり大きくない出版社ですが、この本は売れた(笑)。それはよかったと思います。

言ってみれば、アメリカでレイチェル・カーソンの『サイレント・スプリング』が売れたように、『公害原論』も売れたと言っていいと思います。他になかったんですよ、これだけまとまって公害について、本当のところというか、ちゃんとした研究を発表するようなものがなかった。したがって、「自主講座」自体がものすごく意味があった。そこに毎週のように、例えば千人とかいうたくさんの人が来るわけです。椅子がなかったりするんだけれども、みんな一生懸命ノートをとってやったんですよ。

職業ジャーナリストの仕事ではなく

これが本になる過程はどうだったかと言うと、テープレコーダーを回して、それを何人かの人が分担してテープ起こしをしたんです。レジュメであるとか資料であるとかいうのは、自分たちでプリントをつくっていたと思うんですが、結果的にそうやってテープ起こしをしたものがそのまま本になるんだよね。それで恥ずかしくない講義ができるというのは、もうとにかくすごい。全部が宇井純のワンマンショーというわけではなくて、いろんな人がそこに呼ばれてしゃべるということも含まれているけれども、15年間続けるというのはすごいですよ。

で、宇井純という人は結果的に70年から85年までの15年間は東京大学に居座りつづけるんですね。「居座りつづける」という言い方は具合が悪いかもしれませんけれども、彼はずっと助手だったんですよ。絶対教授にはなれない。それで、もっと東京大学にいればよかったかどうかよくわかりませんが、彼は15年経って沖縄大学に行っちゃうんですよ。──いまでも京都精華大学は沖縄大学と仲良くしていて、沖縄大学に行く交換の提携がありますから、宇井純さんに会いたかったらそれで沖縄に行くといいでしょう。

宇井純という人──化学の研究者として

宇井純という人は、これはもうみなさん調べてきたと思いますが、いつぐらいに生まれた人ですか。1932年に生まれた人ですね。あっ、調べてきた人たちがいるな。偉いもんですね。いろいろなことがありますけれども、彼は化学の研究者、あるいは化学で仕事をするということを目指す人間でした。つまり大学に進学するときに、自分は化学の勉強をしようと思ったわけですね。それで大学に入ると、例えば槌田龍太郎の「硫安亡国論」というのに出くわすんですね。それでますます自分は化学の勉強をしようという気になるんですね。

そんなようなことがあって、何を考えたかというと、ビニールをつくるということに自分は一生懸命貢献するべきだというふうに思うようになります。それはどんなものかというと、農業用のハウスとか……。いわゆるハウスではなくてもビニールの覆いを掛けたりするとうまい具合に作物をつくることができる。日本はそういうビニールをこれから大量に作る。そこに自分は貢献しようと思うんですね。このビニールこそは、あの水俣でつくられていたもの。ある段階ではアセチレンからビニールをつくるわけですが、その途中で水銀を使うんですね。そういう代物。塩化ビニールってやつですね。

それで宇井さんは大学を出ると日本ゼオンという会社に入りますが、そこで一生懸命技術者としての仕事をします。念願叶って、会社の中でも技術者としての力が認められて、プラスチックの加工の仕事につきます。この前の授業でも言いましたけれども、いまやそうでないものを探すのが難しいくらい、あらゆるものがプラスチックになってしまいました。自動車に乗ってもそうだし、ゴムなんてもう天然ゴムほとんどないですね。ということを、彼も化学の世界の中で一生懸命やり始めるわけですが、ちょうどその頃、つまり1960年前後に彼も水俣病のことを聞くんですね。それで自分がいままでやってきたことをふりかえってみると、実は恐ろしいことをしていたんではないかと思い当たるわけです。それで彼は水俣の現地に行きます。

実はどのようにしたのかということは『公害原論』からはあまりはっきりわかりません。わかりませんが、1960年ごろの朝日ジャーナルの中に宇井純さんが水俣を取材をして書いたものがちょっとあるんじゃないかなと思います。関心のある人はちょっと調べてみるといいかもしれません。

ここで彼は、細川一(ほそかわはじめ)や、石牟礼道子に出会います。最初の段階では、これはやはり工場からの排水に原因があるけれども、うかつにこれを公表できない、という立場をとります。細川先生はチッソの持っている病院の医者だったんですが、彼は宇井純に「最初の段階では迂闊に発表するな。焦ったら負けてしまう。背後にどれほど大きな力があるかということを考えると、単純な正義感だけでことをすすめたら、絶対にうまくいかない」と言ったそうです。

宇井純はそんな中でますます公害についての調査研究を進めていたんですが、1970年、東京大学の都市工学科に助手で入り、そこで公害の講義をできることになったんです。できることにはなったけれども、技術的な側面に限らなければならないという注文がついたそうです。「政治的なことをしゃべってはいけない」ということですね。せっかく講義を持たせてもらえることになったんですが、宇井純は、そんな条件がつくのであればやりませんと、正規の授業を担当することを辞退します。そのかわりに彼が始めたのが、「自主講座 公害原論」だったんです。

「自主講座、あるいは本も含めて表現媒体であった」──大学の理想

さて、「開講のことば」を見てください。この「開講のことば」には、こういう大学が理想だということが書いてあります。

この学問を潜在的被害者であるわれわれが共有する一つの方法として、たまたま空いている教室を利用し、公開自主講座を開くこととした。この講座は、教師と学生の間に本質的な区別はない。修了による特権もない。あるものは、自由な相互批判と、学問の原型への模索のみである。この目標のもとに、多数の参加を呼びかける。

いいですねえ。単位なんか出ないんだね(笑)。まあ、こういう「開講のことば」が本についているわけですね。もちろん「自主講座」を始めるときにも、こういう宣言文があったんでしょう。さて、今度は「合本まえがき」を見てください。「合本」ができたのは、15年間続いた公害原論をうち切って、東京大学を辞めて、沖縄大学に行ってからです。とうぜん自主講座は終わっても、『公害原論』の読者はいますよね。そういうひとたちが言ってくるんですよ。本が手に入らないって。それで、「合本」を作ることになった。この「合本まえがき」には、その経過が書かれているわけですね。

彼自身は、新しく『新・公害原論』を書きたかったんです。と、いうのは、その後もますます状況が変わってきて、公害を輸出するというような状況にまでなっていた。とりわけアジアの他の地域の人たちと連携をしなければならない。そして、そういう状況についてもふれて、新しく書きたかったんですね。しかし、東京大学の助手であるうちはできたのですが、小さな私立大学の教員になるととたんにできなくなるんです(笑)。なぜか? なんとなくわかりますよね。出来なくなっちゃうんです(笑)。考えてみたら、京都精華大学環境社会学科の先生方は、もっと暴れていた方がいいような人たちなんです(笑)。それなのに気の毒に、小さな私立大学に来ると研究できなくなっちゃうんですね。それはけして怠けているわけじゃないんですよ。まあ、これは余談ですが。

話を戻して、宇井純は『新・公害原論』を書きたかったんです。しかし世界の状況が変わってしまった。たとえば石油というものの位置づけが、明らかに変わってしまった。石油文明化はどんどん加速しました。それからエネルギー政策が変わった。基本的には変わっていないんですが、何からエネルギーをとるかということが変わった。端的に言うと、石油・天然ガスそして原子力、こういうものを、産業社会の大きな体制が、どうやって自分たちの成長のために確保をするか、という問題が起こっている。こういう流れに対して単純な反公害運動では、対処ができないということがはっきりしてきたんです。……僕達はそういう状況のさなかにいるわけですが、この状況下で、いま僕らが『公害原論』を読むということはどういうことか、ということも考えてみるといいでしょう。 彼自身どこかに書いていますが、「公害原論」というのは「自主講座、あるいは本を含めて表現媒体であった」。つまり、意識的な活動だったわけです。

ふたたび、体験と科学的説明について

さて、『公害原論』にもどりましょう。第2回は52ページから始まっています。73ページの、水俣病についてふれているところからを見ていきましょう。みんな読んできたかな?おお、たいへん結構。みなさん読んできたようですね。で、83ページを見てください。「典型的企業城下町」という中見出しがありますね。それから86ページに行くと、「水俣病の発見──細川博士の役割」というのがあります。「水俣病病因追求の奇妙な内幕」。94ページは「困窮する農民」。96ページ「有機水銀説の最初の示唆」

さて、水俣で何かおかしなことが起こっているということを意識したのは誰でしょう。

長澤智行:漁民。

中尾ハジメ:それはいつ頃のことだと書いてある?

寺町歩:53年。

中尾ハジメ:それで、「有機水銀説の最初の示唆」の部分は何年のことですか? 有機水銀を最初に示唆したとおぼしき人として出てくるのは、イギリスの人です。それが1958年なんです。それから、原因は水銀だということが突きとめられたのは、いつ? しかもそれが、チッソの工場排水の中にあるということを突きとめたのはいつですか? ……こういうこともちゃんと調べていこうね。

ついでに考えてほしいのは、53年に、とにかく何かあった。僕はこれについて断言をしてもいいんですが、たぶん多くの人が、そのおかしな現象の原因はチッソである、というふうに考えたと思うんです。しかし、もう少し考えてみてください。なぜそこからこんなに時間がかかってしまったのでしょうか? これは問題ですよね。思い出してみてください。レイチェル・カーソンの本が出たのが1962年。そのころにはすでにいろいろなところで、DDT には問題があると言われていたはずです。宇井さん自身が言っているように、こういうことは科学者が発見するんじゃないんです。最初に被害者がいるんです。そしてこれは難しい問題ですが、そういう最初の被害者には、そのおかしな現象の原因が「チッソ」であるとか、DDTであることを科学的に実証できないんです。こういう構図は、現代になっても変わっていません。いささか「被害者」「加害者」の関係が見えにくくなっているといわれていますが、現代の「環境問題」もたいへん似た構図を持っています。ほとんど変わっていない。これについては各自しっかりと読んでおいてください。

「聴衆」あるいは「受け手」という問題

ジャーナリスト──たとえば、石牟礼道子、レイチェル・カーソン、あるいはそれらを材料にして書いたリンダ・リアという人もいますね。そして宇井純。そして聴衆──オーディエンス──という人たちもおります。「ジャーナリスト」がいて、その「受け手」がいる。この「受け手」というのは、文字通り「受け取るのみ」だと言いたくなりますが、本当にそうでしょうか? 本当にそうなんでしょうか? そうかどうか考える手がかりは、みなさん自身がすでに持っています。

『苦海浄土』という本をみなさんはすでに読みました。そしてそれを、ある「読み方」で読んでいますよね? それを「石牟礼道子の方法」というタイトルでレポートに書いていただきました──石牟礼道子はこういう方法で書いていると、みなさんが受け取って、まとめたもの。……当たり前のようですが、そこで表明されているのは、みなさんの「読み方」です。それぞれに違う読み方をしたんですね。竹内君と溝脇さんとはそれぞれに違う「読み方」をした。

さらに、これも当り前ですが、Aというものを発信したからといって、かならずAというふうに受け取られるとは限らないですね。みんなが違うように読む。はたしてジャーナリストは、あらかじめこういうことを想定しているだろうか? なんにせよ、「受け手」というのは、受動的に決まったことを受け取っているわけではなくて、一人ひとりそれぞれの「読み方」をしているんです。それらはもちろん重なり合うこともあるでしょう。振り返ってみてください。

前期の最初に、レイチェル・カーソンの本を、みなさんは読みました。あるいは、読んでいなくても構いません。とにかく手に取ったということがある。そして手に取った際、これはこういう内容の本であるという、何らかの了解はあった。それから何か月かたって、みなさんは再び読みました。あるいは、中尾ハジメがそれについて語るのを聞いた。ですからみなさんは今の段階で、レイチェル・カーソンのSilent Springをどう読んだか書きなさいと言われたら、前期に書いたことと違うことを書くのではないだろうか? もちろん同じかもしれません。しかし、もし変化があるとすると、そこには見出されるのは、その変化とともに、自分は確かに読んだ──自分の考えによって読んだ、あるいは自分は読んで考えたという主体的な体験であるはずです。

「受け手」という言葉で表現される人は、「主体的に読む人である」ということがわかるはずです。何度もいいますが、当たり前のことなんですが、ジャーナリズムは、そういう主体的な読み手がいないと成立しないんです。で、今度は、「ジャーナリズム」という言葉でなく、「言論」という言葉に置き換えたときに、それはどうなるのか? そのとき「みんな」という言葉はどういう意味を持つのか?

これは簡単なようでいて、実はなかなかややこしい問題があります。その問題の難しさを端的にあらわす例には、この「みんな」というのが、ときとして「ジャーナリズム」の敵になることがあるということです。「民衆の敵」なんていったりしてね。しかし「ジャーナリスト」は、その「みんな」にむかってしか、ものを言ったり、書いたりすることができないんです。常にそこに向かうしかないんです。さらに今度は「みんな」のほうに焦点を合わせたときに、みなさん一人ひとりは、「私はレイチェル・カーソンをこう読んだ」とか、「宇井純はこういうことを言っている」という自分の「読み」を持っているはずなんです。今日は課題はだしませんが、そういうことを考えて課題をだしたいと思います。つまり読みの問題──ジャーナリストの問題ではなく、読む人の問題。

ジャーナリズムは現実から私たちを遮断するカプセルか

「ジャーナリスト」がいて、「オーディエンス」がいる。そして、「ジャーナリスト」の向こう側に「事実」がある、……という世界像はそれだけでは、困ったことに、ちょっと閉塞的な世界像であるな、ということです。まるで「カプセル」です。「視聴者」でも「受け手」でも……これらは、「消費者」としてジャーナリズムを──書店で5,000円払ってリンダ・リアの本を買う中尾ハジメのように──「消費」するだけのようです。とらえにくいかもしれないけど、「カプセル」の中なんですね。

いわゆる「メディア」とよばれるものや「ジャーナリズム」とよばれるものが、非常にしっかりとした「カプセル」を作っていて、「消費者」は気軽に、「やっぱりレイチェル・カーソンはすごいんだ」とか、「いやたいしたことはない」とか言って過ごすことができるんです。その「カプセル」の外側には、しかし現実の世界がある。そこには「産業の拡大」とか、みなさんが一番よく知っているはずの「環境問題」というものがある。その「環境破壊」を、わたしたちは「メディア」や「ジャーナリズム」と呼ばれる「カプセルの膜」を通してしか関わることができない。……これは困るよね。もしそうだとしたら、「受け手」は、考えなければなりませんね。「こんな読み方をしていていいんだろうか?」と。「こんな読み方をしていたら、カプセルの外側にふれることができないんじゃないだろうか」と。みなさんが、そういうような考え方に至ることができるのか、できないのか、課題の一つとしてとらえていただきたいと思います。ですから、レポートをいったんお返ししますが、これはかならず僕にまた返してください。今回は以上です。

授業日: 2002年10月22日; 編集:寺町歩、中尾ハジメ
テープ起こしをした学生: 竹内一信
htmlコーディング:深尾知香テープ起こしをした有志: 川畑望美