第8回 「環境ジャーナリスト」の登場──石弘之『地球環境報告』

(学生諸君は石弘之『地球環境報告』を読み、その特徴や疑問点などを考えたうえで、講義に臨むはずだったが、読んできた人はごく少数でしかなったので、今回は声にだしてテキストを読むことに時間は費やされてしまった。これが、木野祭のせいだということならば、来年から学園祭は禁止したいという、なかば冗談とも憤懣ともつかないことをしゃべってから、始まった)

環境ジャーナリスト石弘之さんとはどういう人か

……持っていない人にはたいへん気の毒なことになるけれども、今日はこれ(石弘之『地球環境報告』)をやるんだよね。一生懸命ノートをとったりしないと追いつけないよ。たいじょうぶかな。あー、こまったもんだ。石弘之はどういう人かな? 『地球環境報告』の一番後ろに簡単な学歴というか仕事暦が書いてある。

1940年東京に生まれる
1965年東京大学卒業後、朝日新聞社に入社。東京本社科学部員、外報部員、科学部次長……

新聞記者になって、科学の担当になったんだね。

……85年より編集委員。1994年退社。

94年に朝日新聞社を辞めたんだね。1994年というと、1940年生まれだから、54歳。

96年より東京大学大学院総合文化研究科教授。99年より同新領域創成科学研究科の教授。

今でも東京大学の大学院で教授をしています。中身がちょっと変わったんだね。それとは別に、

国際日本文化研究センター客員教授、国際協力事業団(JICA)参与を兼務。持続可能な開発のための日本評議会(JCSD)議長。これまでに国連環境計画(UNEP)上級顧問、東欧環境センター常任理事(ブタペスト)などを歴任。

「持続可能な開発のための日本評議会」という長い名前の会がある。JCSD(Japan Council for Sustainable Development)といわれていますが、その議長をしている。それから、これまでに国連環境計画(UNEP/United Nations Environmental Program)の上級顧問をしたことがある。それから、東欧環境センター常任理事。ブタペストはハンガリーにある。そこに東欧環境センターがあります。……などを歴任したと書かれています。

それから1987年には、国連のボーマ賞を取っている。ボーマ賞って何だ? ボーマという人の名前でしょうね。それから。1989年には、国連グローバル500賞をとった。この1989年には、まだ朝日新聞社にいたみたいだね。ここには書いてありませんけど、1984年ぐらいまでだったと思いますけれども、ニューヨーク支局に石さんはいました。

それから著書。『酸性雨』『地球環境報告』──今読んでるやつですけど──岩波新書から。『蝕まれる地球』『蝕まれる森林』『地球破壊七つの現場から』『地球への警告』それから『インディオ居留地』。今あげた5つの本は朝日新聞社から。『地球生態系の危機』、これは筑摩書房から。それから、ごくごく最近『私の地球遍歴』という本を講談社からだしました。1,700円です。

それから訳書。ジョン・マコーミック『地球環境運動全史』。これは岩波書店からほかの人たちとの共訳で出てます。(実物をおもむろに取り出して)これは『地球環境運動全史』。これは見る価値はありますね。もうひとつは──みなさんもう見ているかもしれませんが──クライブ・ポンティング『緑の世界史』。朝日新聞社から出ています。他にもたくさんあります。

この人は、今は東京大学大学院の先生をしていますが、ず−っと前は新聞社で働いていて、自分のことを環境ジャーナリストと言うことができる、そういうふうに言っている人です。石弘之さんは今何歳でしょう? 62歳です。国連の環境関連の組織からは評価されていることがわかるね。そういう人が書いた本です。

あえて対照地点とするため、宇井純『公害原論』を振り返る

前回どこまでいったかというと、宇井純『公害原論』までだったね。振りかえってみましょう。あまり詳しいことは言わなかったですが、読んでみると非常によくわかる。彼の言葉──「プラグマティズム」と言ってますが──を借りると、「実践の立場からどれだけのことが言えるか」を、たいへんエネルギーをかけて整理した。そのことは、「合本前書」で宇井純さんは振り返っていろいろ語っている。ところで、前回、「環境」という言葉が使われるようになったのはどこからかな、ということをちょっと考えた。皆さんの持っているジャーナリズムのいろいろな事例の中でみれば、「環境問題」とか「環境破壊」という捉え方をしているのは実は最近であって、宇井純さんの段階でもそういう捉え方とはだいぶ違っているね。実際に宇井純さんが体験していたものには、今ならば「環境破壊」とか言われるものがあったかもしれない。けれども、宇井純さんのプラグマティズムは、「環境問題」あるいは「地球環境問題」というふうにはやはり捉えてはいなかった。たしかに、今の言葉で言うと「環境破壊」の現場から、その問題を捉えるという方法を彼はとった。そして、そこから大きな社会の問題を捉えるという方法をとった。大きな社会の構造に目を向けるということを彼はしてきたけれども、それはむしろ「社会の問題」として扱っていた。「環境問題」という言葉は使わなかった。繰り返して言うよ。現在は「環境問題」という言葉で捉えられているものを、宇井純さんは「環境問題」で捉えてはいなかった。彼の捉え方はやっぱりプラグマティズムなんだね。

「環境破壊の現場」、あるいはそこで起こっている人間の争い。それを捉えることはした。しかし、「環境問題」一般に解消することなく、その立場を堅持しています。もちろん「合本前書き」を見ると、少し「環境破壊」という言葉が出てる。ひとつかふたつくらいかな。それから「資源」という言葉も、「汚染」という言葉もでてくる。でてくるけれども、その「前書き」を読んでいると分かるように、彼の立場は常に……。問題の起こっている現場で、その問題をめぐっていろいろ葛藤が発生するわけです。例えば企業と住民との間に対立関係が起こったりしますね。そういうことを彼は捉えることができるし、その対立関係にどういう「手法」というか「やり口・手口」があるかについてもはっきりした見方をしています。繰り返して言いますが、その見方は彼が『公害原論』の仕事を通じて作り上げてきた見方だね。その見方は、これも繰り返して言いますが、最近「環境問題」という言葉で語られるようになった世界観とはやはり違うと思います。違っていたら良いとか悪いとかじゃなくて、違う。

ここで一番最初に言ったことに戻りますが、ジャーナリズムの世界が「環境」という言葉を使うようになったのは最近のことなんだね。それから、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の中でも、「環境問題」という言葉で問題を捉えてはいない。「生態系」という言葉は出てくる。しかし、いま流行っている「環境問題」という捉え方ではなかった。石牟礼さんの『苦海浄土』を見ても「環境問題」という言い方はされていない。当たり前だね。広島・長崎に戻ってみても、当然のことながら「環境問題」という言い方はされていない。

しかし、今われわれが言う「環境汚染」という問題がその当時無かったのかというと、そうではない。ずっとあった。ずっとあっただけではなくて、ますますそれは拡大をしているというのが現状だね。

『地球環境報告』の書かれ方

さあ、それで『地球環境報告』に戻りますが、あたりまえだけどタイトルは『地球環境報告』。前書きのところを見ると、「一九六九年」から書き始められています。月面にアポロが着陸したんだね。その同じ年に「米国の西海岸で始まった環境保護運動は」という書き方をしている。それから、その環境保護運動は、「やがて全世界を巻きこむ大きな運動へ発展していった」と彼は言っています。「環境保護運動」と言われるものがあるんですね。あった。それは──始めた人がいるからですが──地域に限定されることはなかった。石弘之さんが「全世界を巻き込む大きな運動へと発展していった」と言う「全世界」というのには、われわれも入る。

急速に芽生えてきた地球環境への関心は、七二年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議によっていっそう高まった。

ストックホルムで国連人間環境会議ってのがあったんだね。このときは水俣の人達も参加しました。その次のパラグラフを読むと、

その後、二度にわたる石油危機、さらに先進国ではまがりなりにも汚染対策が進んできたことも加わって、公害への危機感は急速に薄れていった。

と、彼は認めています。皆さんが生まれたの1982年前後だよね? だから、「公害への危機感は急速に薄れていった」後に君たちは生まれた、ということ。

ところが、地球の傷は思いもかけなかった所に広がっていたのである。

「思いもかけなかった所」とは、どういうところか?

破局的な自然破壊が発展途上国で広く深く進行している実態が次第に明らかになってきた。

つまり皆さんが生まれる前後から、日本のような工業先進国では公害の問題は影が薄くなり、これはたいへんだという感じを多くの人は持たなくなった。変な言い方ですが、みなさんは実感的によくわかると思います。ところがそうしているうちに、「発展途上国」では大変なことが起こっているということがわかってきた。

急激な緑の破壊とともに生態系が寸断され、水や他の物質をたゆまず循環させ大地を安定させる自然の機能が、各地で崩壊していたのだ。

それが石さんの問題の捉え方です。それで、その次のパラグラフ。これ、すぐに理解できるかどうか疑わしいんですが、こう書いています。

一九八七年、ついに五〇億人を突破した世界人口の重みは、その四分の三を占める発展途上国に大きくのしかかっている。

どういうことでしょう?

「環境破壊」と「人口問題」の連鎖?──先進国と発展途上国の連鎖?

アフリカ、インド亜大陸、東南アジア、中南米では、局地的に過重な人口を養うために耕地を無理に拡大し、あるいは酷使し、放牧地の許容頭数以上の家畜を飼う結果、想像をはるかに上回る速度で自然環境が悪化している。

なんだか分かったような分からないような文章かも知れませんが、石さんが捉えるように「発展途上国での環境破壊」というものがどうやらそういうことをしめしている。そういうことというのは、「人口の増加」がその地域で大きい。その過剰な人口を養うためには、農耕地を拡大せざるをえない。あるいは、土壌が十分に栄養を蓄えるサイクルを超えてどんどん作物を取ってしまうので土壌が劣化したということが発展途上国で起こっている。 最終的には、土地が荒廃して、飢餓や災害規模の拡大という形で地域住民にはね返ってくる。そのことが起こっているのは、「先進国ではなく」て「発展途上国である」と彼は捉えている。さらに、次のパラグラフで

近年繰り返しアフリカ大陸を襲っている危機も、毎年のようにインド亜大陸から伝えられる洪水と干ばつのニュースも、南米のアンデス地域で日常的になった地滑りも、地球の傷やほころびの具体的な姿に他ならない。

不思議だなあと思うかも知れませんが、もう一回言いますよ。「人口がものすごい勢いで増えたのは発展途上国である」と彼は言っている。それが一つ。それからもう一つは、アフリカ大陸──これは発展途上国──が危機に襲われている。危機は近年繰り返し襲ってきている。インド亜大陸でも毎年のように洪水と干ばつのニュースがある。毎年だったらいつもあることだと思うかもしれませんが、石さんは、地球の傷やほころびの具体的な姿だ、1980年代以降顕著に見られるようになった問題だ、と言う。「南米のアンデス地域で日常的になった地滑り」も、日常的なんだけども、かつてはこんなことはなかったと、彼は捉えている。次に行くよ。

同時に、汚染物質の測定技術や観測網の進展に伴って、……

「観測網」とは、汚染物質がどれぐらい大気中にあるか、海水中にあるかということを人工衛星を使ったり、いろんな方法で調べることができるようになったんですが、それで分かってきたことがある。

人工物質による化学汚染や重金属汚染は地球のすみずみにまで及んでいることが暴き出された。

「人工物質」とは人間が作ったものだね。次は、今までの彼の書き方よりはっきりしてきますが、

先進国が、豊かで便利な生活を維持するために浪費した資源、氾濫させた合成物質が、汚染物質に姿を変えてあふれ出してきたのだ。

しかも、困ったことに「北極のシロクマ」がでてくるんですね。つまり、京都のどっかで飼ってる猫じゃなくて、先進工業国の中にいる人間でもなくて、

今や北極のシロクマでさえ高濃度のPCBで汚染され、南極のペンギンからもDDTが検出される。

『沈黙の春』に出てくるのは、たとえばDDTを直接撒いたメーリーランド州の具体的地域ということになっておりましたが、1980年代以降ははっきりと分かった。南極のペンギンにDDTがたくさんたまっていることが分かった。それから、

深海底はストロンチウム90、……

ストロンチウム90は核実験からですね。核兵器の実験でたくさんこれをばら撒いた。他の放射性物質もばら撒いたんですが、ストロンチウム90は半減期が長いんで、いつまでもストロンチウム90で残っているのがたくさんあるんだね。それから、

成層圏はフロンガスで汚染されている。

成層圏はジェット旅客機が飛ぶようなところです。これはもうみなさん非常によく知っていると思います。フロンガスというのはどういうわけか、南極のあたりに集まるんだよね。汚染源というのは、石さんがここで書いている先進工業国です。

汚染源とは無縁の辺地に住む人々でさえ、本来のレベルをはるかに超えた水銀、鉛、カドミウムなどの重金属や放射性物質を体内に蓄積している。

それから、これはまた石さんの捉え方ですが、次のパラグラフ。

欧州や北米から世界に広がり始めた森林の大量枯死は、大気中に放出された汚染物質が酸性雨となって降り注いでいるのが主な原因であり、ガンやアレルギーの患者などが不気味に増えているのも「地球汚染」が大きく陰を落としている。

この文章も少し曖昧な文章だけれども、石さんはそう捉えている。それから、「自然破壊」と「環境汚染」。これを彼は別なものと捉えているようです。「環境汚染」という言葉で彼が指しているのは、「化学汚染」・「重金属汚染」あるいは「核物質汚染」だね。「酸性雨」っていうのもそれに入るでしょう。それから、「自然破壊」という言葉で彼が捉えているのは、「森林が消失」してしまうとか、あるいは「砂漠化が進む」とか、「地滑り」が起こるとか「農耕地の土壌が劣化」してしまう、というようなことを捉えているようです。

自然破壊と環境汚染という二重の責め苦にあって、地球はこれまで考えもしなかった気象破壊へと進み始めた。すでに地域的な雨量の激減などの局地気象の異常は、各地で表面化している。

それはどういうことか。たまたまある地域にたくさん雨が降るようになったり、あるいはまったく降らなくなったりするということは、二酸化炭素の増加による地球の温暖化、フロンガスの増大によるオゾン層の破壊などがおそらく関係しているんだろう、と彼が考えているように読めますね。ここは石さんの文章の曖昧なところで、問題はないとは言えないかもしれない。けれども、一応そういうふうに読める。最後のところですが、

私はこの十数年間、八〇を超える国々を歩き回って、人間と自然の関わりを目の当たりにしてきた。

そうか! 「八〇を超える国々を歩き回」らないと、「人間と自然の関わり」は「目の当たりに」できないのか。それはなぜか。石さんがいうように、先進工業国では目の当たりにできない。一つは、自然と人間の関わりの変化を捉えるのは難しい。本当はもうちょっと違う説明をしなければいけないかもしれませんが、少なくとも石さんにしてみたら……。ちょうどみなさんが1980年ぐらいに生まれて、公害についての危機感とまったく無縁で過ごしてきたことを考えてみたらすぐ分かる。つまり、本当に周りの環境が、人間が住めないところになりつつあるという地域が日本の外にはある。あるいは、先進工業国でない途上国にはある、ということを言っている。

そして、いたる所で、「生態系の崩壊地」に出会った。再び訪れたときに、あまりの破壊の進行に息を呑んだことも数知れない。

80を超える国を回ったからわかったというだけではなくて、同じ地域を少し時間をおいてもう一回訪ねると、まったく様相が変わっているということを彼は見ることができた。それで、「その都度」思い出した警句があるわけですが、

その都度「核戦争がなければ、人類を滅ぼすのは生息環境の破壊ではないか」という警句を思い出した。

核戦争がなくても人類は滅びることができる。

広域自然破壊も、地球汚染も、これだけ加速してきたのは、せいぜい過去三〇年ほどのことに過ぎない。

「過去三〇年」だったら、みなさんは20年ぐらい生きていますから、みなさんにも分かっていいはずだよね。だから、これが石さんの特異性っていうかな、つまり彼は日本を離れて、あるいは先進工業国を離れて地球環境破壊の現場に何回も行ってるんだね。そこから見て考えれば、これだけの勢いで環境破壊が加速したのは、結局のところほんとに短い時間であった。

人類四〇〇万年の歴史で、一瞬間にも満たないこの一世代の間に、自分たちの生息環境を危機的な状況まで悪化させてしまったのである。

さあ、この見方に引っかかってほしいんですが、……「一世代の間に」。24年で一世代かい? 要するに、非常に短い30年の間に「自分たちの生息環境を危機的な状況まで悪化させてしまった」の「自分たち」って誰や? 「自分たちの生息環境」。言いかえれば「人類」だね。人類が、人類の生息環境を危機的な状況に悪化させた。ここはものすごく難しい問題があります。難しいっていうか大切な問題。「人類の生息環境を危機的な状況に悪化させた」。「人類が」。「自分たちの生息環境を」。

ちょっと待てよ。石さん、さっき言ってたのは、「破局的な自然破壊が発展途上国で広く深く進行している」のであって、先進産業諸国では破局的な自然破壊は進行してないじゃない? ここの「自分たちの生息環境を」という主語は……、「自分たちの……」ではなくて「発展途上国の人々の生息環境を危機的な状況まで悪化させてしまった」と、どうしてそう書かないの? ……ということを考えてください。なぜ石弘之は、「これは人類の問題である」と言っているのか。いずれにしても、こういった文章が、前書きにあったことを確認しよう。

環境悪化の構図の中心に人口増加問題がある、という捉え方

さて、これはもう皆さんは、どっかでいろいろ勉強したことだと思いますが、農耕が開始されたのは、人類の歴史でいうとどれくらい前ですか。つまり、農耕が開始されたのはいつ頃か。石さんによるとね、紀元前8000年ぐらいには、もう農耕っていうのに入るんだね。そこからキリストさんが生まれるまでは、人類は少しずつは増えてるけど、たいしたことはない。ぜんぜん増えてない。それから、キリストさんが生まれてから、1200、1300年たってヨーロッパでペストが流行します。その時にヨーロッパの人口がたくさん死ぬんだよね。ものすごいたくさん死にます。ペストの時点で世界の人口はどれくらいだったのか。5億もいかなかった。というわけで、石さんは「環境問題」という言い方をもちろんしていますが、その捉え方は、「人類の問題」。ただ人類といっても「先進国」と「発展途上国」という区分けが、彼の頭の中にはあります。その区分けはあるのですが、しかし「人類の問題」と彼は言っている。人類の問題っていうときには、やはり紀元前8000年くらいまでさかのぼっても全くおかしくない。というか、むしろそういう長いものさしを持たないと、「地球環境問題」は捉えられないんだね。

ペストがはやったころ、おそらく中世の末期に近いわけですけれども、地球の人口は全部合わせても3億を超えるか超えないかぐらいだったと思います。さて1650年……、これは石さんが引用していますが、国連人口活動基金という組織の推計データによれば、1650年には5億人がいた。それから、例えば1918年から1927年、つまり第二次世界大戦が始まる前ですが、世界の人口は20億だった。石さんがこの本を書いてるのは1988年。88年に一番近いところ1987年の世界人口は50億だった。1650年からだいたい1930年までの間に増えた人口は15億だよね。それからさらに1947年──めんどくさいから1950年といってしまおう──その後の50年間で増えた人口は30億だよね。増え方が違う。今は2002年ですから、世界人口は60億を超えています。

こういうふうにずーっと、農業を開始したことによって確かに人口は少しずつ増えて来たけれども、これはわずかしか増えなかった。爆発的に増えるようになったのは中世以降、というふうに石さんは捉えています。特に1950年からの増加率はものすごい勢い。こういうように「人口問題」という捉え方を、石さんはしています。そこにつけられているタイトルは、17ページですが、「環境悪化の構図」。その構図の中心にあるのは──単純ではないんですが──人口問題であると彼は考えています。それで再び、彼が一番最初に宣言をしたというか、自分の捉え方はこうであると言ったところ、つまり「破局的な自然破壊」を目の当たりにできるのは先進国ではなくて発展途上国であるということを見てください。彼が目の当たりにしている自然破壊の問題を考えるのは、まさしく彼が目の当たりにしている人口増加率の問題に向かうほかない。……というのが彼が言うところの環境悪化の構図なんですね。

この捉え方は大変微妙な問題をはらんでいます。センシティヴ。どういうことかと言うとね、例えば彼こういう表現をしています。

今発展途上国で生まれて、乳幼児死亡を免れた子供の大部分は、満足に学校に通えず、耕すべき土地も持てず、生産者としての積極的な役割を果たせないままに、一生を終えることになるのに違いないからだ。(P19L12)

みなさんは発展途上国に存在していないから、そんなことは目の当たりにしないし、責任ないよね。関係ないよね。今は非常に微妙なことを言っていますよ。僕も微妙なこと言ったし、石さんも微妙なことを言うわけですが、その次に、

むしろ、過剰人口の一員として、生態系の破壊者となる可能性の方が高いかもしれない。(P19L14)

「今発展途上国で生まれて、乳幼児死亡を免れた子どもの大部分は、満足に学校に通えず、耕すべき土地も持てず積極的な役割も果たせないままに」、「生態系の破壊者となる可能性のほうが高い」……そうか、生態系を破壊しているのは発展途上国の人達か、というふうに読めてしまうんだよね。それは石さんの本意ではない。ないんですが、彼が問題を捉えたその捉え方が、どうしても「自然破壊が起こっている現場というのは発展途上国」である。しかもそこで自然破壊を起こしている直接的というか一番近い原因として理解することができるのは人口の増加である、と彼は言います。

どうして発展途上国で人口が増加するのかという問題については、彼はここでは語っていない。が、「過剰人口の一員として生態系の破壊者となる可能性が高いかもしれない」と彼は言っている。「だれ」が? これは主語がはっきりしているんですね──今「発展途上国で生まれて育っていく人達」。石さんは、さっき、もう一つ問題を言ったよね。「地球環境破壊」の「現場」はどこか?──「発展途上国である」。しかし、例えば汚染物質を今までせっせせっせと出したのはどこか?──これは「先進工業国である」ということをはっきり言っている。

その次に彼が言っているところをもう一回言うと──発展途上国の人口増加によって、農地にかかる負担が大きくなり、結局は砂漠化が進んだり、土壌が侵食されたり、耕地の荒廃が起こる。そしてその結果、もう一つのサイクルがそこで起こる。どういうサイクルかっていうと、結局はその破壊によって土地を失う、相続ができなくなる。これはいろいろ社会的制度の背景があるわけですが、そのことは彼はここでは説明しない。

そして、土地を失い、あるいは相続できずに農村からはみ出した人たちは、砂漠周辺の乾燥地、耕地の山麓、熱帯林、海岸際の湿地帯などの未開拓地に進出を余儀なくされた。(P20L4)

別な言葉で言うと、今までそこは開拓されていなかったけれども、開拓せざるをえなくなる。そこを農地にしたり、放牧地にしたりして、食料を確保しないわけにはいかない。しかし、砂漠周辺の乾燥地とか、山麓、熱帯林、海岸際の湿地帯など、今まで開拓されていなかったところというのは、

いずれも生態学的に脆弱であり、一度破壊したら回復のきわめて困難な地域である。(P20L5)

そういうところだから、「地球環境破壊の現場」なんですね。これが石さんの捉え方です。もちろんそういうところに向かわない人口は都市に向かうわけですが、その問題はまた別なところで彼は論じています。それから、その次に彼はそういう発展途上国での環境破壊の背後にある問題として、土地を誰が持っているか、ということを紹介しています。その言い方は、いささか分かりにくいかもしれませんが、

自然環境の悪化を人口増加のみに帰するのは、発展途上国の現状を見ると、確かにバランスを欠いた議論である。(P21L4)

なんで、さっきそう言ってたじゃないと思いますが……なんか、こういうふうに石さんの文章って曖昧になるところがある。ぱーっと読んじゃおうと思えば読めちゃうけども、もうちょっと精密に書いてほしいって気がしなくもないですが……。もう一回読みますよ、

発展途上国の現状を見ると、確かにバランスを欠いた議論である。

なんのバランスを欠いてるのかなあ、と考えながら、その次を読む。

これまでの人口圧と環境破壊の議論の中で、もっとも欠落していたのは、発展途上国で急速に進行している特権階級や大地主への土地の集中であろう。(P21L5)

土地を一部の人達が所有することになったことも無関係ではない、と彼は言っているんですが、どういう関係があるのかまだ明らかにならない。それで、その次に書いてあることが、また曖昧な読み方をまねくんだよね。

単位面積にかかる人口圧としては、世界でも最大の国のひとつ、バングラデシュで最近起きた事件は典型的なものだ。ヒマラヤ山脈に発するガンジス川は、大量の土砂をベンガル湾に運び込む。(P21L7)

これは昔からそうですね。ところが、彼はここでまた、曖昧になりそうなことを言うんです。

もとはといえば、この土砂はヒマラヤ山脈の水源林が破壊され、崩壊を起こして谷になだれ込みはるばる運ばれてきたもので、河口に巨大な島を誕生させている。(P21L9)

ヒマラヤ山脈の水源林が破壊されたんだ。つまり環境破壊があるんだ。でも、それと特権階級や大地主とがどういう関係があるのかな。怪しいね。石さんの頭の中にはおそらく何かあるんですけれども、ときどき、こういう文章に出会って少し困ります。ところがその次のパラグラフを読むと、あぁ、そのことが言いたかったんじゃなかったんだということが分かる。

その河口の町チッタゴン近くの土砂堆積でできたチャラン島に、土地の無い農民が入り込んで開墾、肥沃な農地を切り開いた。(P21L11)

つまり、水源林が破壊されたということは、ここで言わないほうが分かりやすかった。ガンジス川河口は、ものすごい肥沃なデルタがあるんですね。そして島ができるもんだから、そこに土地のない人達が入り込んで農地にするんですね。

だが、堆積島は本来国有地。ここに目をつけた地元の有力者や大地主が、農民を追い立てようと、合法、非合法の圧力をかけた。それでも立ち退かない農民を、警察や軍隊を使って腕づくで追い出し、抵抗する農民多数が殺される事件となった。(P21L12)

そうか、彼が言いたかったことは──人口の増加という問題を解決することに直接には結びつかないし、これからどういうふうに議論を展開するのかまだ分かりませんけども──大地主・特権階級っていうのがいて、たくさんの人達を弾圧しているということなんですね。それの一例が上げられて……それからもう少し読むと、

バングラデシュの人口の八三%は、農業に従事している。といっても、一〇%の人口が、全農地の六〇%を所有、半数以上の農民は全く土地を持たない小作人か、わずかな土地にしがみついている零細農民だ。小作人は、生産コストは自分持ちの上、条件の悪い農地を与えられ、しかも平均して収穫物の半分を地主に召し上げられる。かつて、バングラデシュにも熱帯林の茂っている一帯があったが、土地の囲い込み、人口増加で、あふれ出した農民が入り込んで焼き畑を行い、ほとんど消えてしまった。(P22L2)

相変わらず曖昧かな(笑)。土地集中ということを彼は言っている。土地集中の意味は、少数の人が、多くの土地を支配している。しかし、それと「人口増加」とどういう関係があるのか、まだ分からない。人口増加の状況と、土地集中の状況が一緒にあることは分かる。しかし、それが一緒にあるということだけでは、生態系の崩壊を説明することにはならないですね。つまり、人口増加が生態系を崩壊させているのはなんとなく分かる話ではある。それだけでいいじゃない。なんで、土地集中の問題を論じなければならないのかということが分かりにくい。しかし、こういうふうにして、だんだん読めてきたね。もっとはっきり言えよって気がしますが……。

土地集中は中南米ではさらに進んでいる。国連食糧農業機関(FAO)の報告によると、七%の人口が九三%の農地を独占している。(P24L2)

中南米ってひどいんだね。その先読むと、あーっとわかる。

米国のフロリダなどに住んで、自家用機で自国と行き来する不在地主と、家族さえ養えない零細農民とに、両極化した国々だ。(P24L3)

というふうに書かれている。やっぱりアメリカは悪いんじゃないかなあ(笑)。ちょっとなんか見えてくるね。その次は、アフリカについて書かれています。アフリカはね、

(前略)土地の所有権が部族から個人に移りつつある。とくに、この傾向は西アフリカのココア地帯、東アフリカのコーヒー地帯など、輸出用商品作物への依存の高い地域ほど顕著だ。(P24L7)

ああそうか。でも、輸出用ってどういうことだ? つまり、われわれが飲み食いしているココアとかコーヒーで、それに依存しなければならない地域ほど、土地所有がいわゆる「私有制」──個人、私の財産──になりつつある。

この傾向の目立つケニアでは、一〇〇ヘクタール以上の大農地が全耕地の二割を占める一方で、農民の半数以上は二ヘクタール以下の土地しか持てず、それを合計しても、全耕地の15%に満たない。(P24L8)外国資本によるプランテーション、国内の特権階級と結びついた大企業などが背後にあるのは、アジアと変わらない。(P24L11)

ああそういうことですか。少し先進国と発展途上国の関係が見えてきて、発展途上国の中にいる大地主あるいは特権階級は外国資本に結びついている、ということが分かってきます。しかし、まだ分からないのは、人口圧力とどういう関係があるのか? ……まだ分からないね。ここには書いてない。

石さんのどの本でもそうですが、彼はあまり緻密な議論の進め方はしません。だから悪いというわけではありませんよ。それで、みなさんはこれを読まなければならない。読まないと単位を出さないよ。やはり、こんなに薄い本ですけど、丁寧に読んで問題点を捉えてほしい。問題点ていうのは、石さんの書き方の問題だったり、あるいは石さんが捉えている問題ということだったりしますが。

こういう石弘之さんは、日本の環境ジャーナリズムのひとつの標準を示していること

「環境ジャーナリズム」とよばれるものは数少ない。実際には環境ジャーナリズム的なものがないわけではないんですよね。だけど、いささか専門化して──かならずしも良いこととはかぎりませんけども──「私は環境ジャーナリストだ」と言っているのは、そんなにたくさんいない。石さんはそこで代表的な人です。『地球環境報告』はたぶん日本の環境ジャーナリズムのある種の標準だと思います。ある水準まではいっているということだと思うので、みなさんはこれをまず読まなければならない。読んだ上で、さらにそこから問題も発見されるだろうし、いろんなことがあるでしょう。とにかく読むこと。

というわけで次週は、ポール・ハリソンの『破滅か第三革命か』というふうになっています。ただし、これは翻訳が悪い。そのことで、みなさんは少し読むのに苦労するかもしれませ。特にやってほしいことは、石弘之とポール・ハリソンの違い──方法の違いというべきか、あるいは捉え方の違いということかもしれませんけども、それをみなさんは掴んでほしい。たぶん気にしないで読むと読めちゃうかもしれませんが、読んだ後で確かなものがどれぐらい残るか。残らなかったら、翻訳が悪いと思ってください。翻訳がよろしくない。どこが悪いか、これは見当をつけながら、ここがおかしいんじゃないのかなと思いながら読んで下さい。

次回は、石弘之の『地球環境報告』とポール・ハリソンの『破滅か第三革命か』──これの違いに注目をして話を進めたいと思いますから、読んでね。大学っていうのはね勉強するとこだよ。つまんないだろ、ただ座ってても? 読んできてくださいよ。

授業日: 2002年11月5日; 編集:寺町歩
テープ起こしをした学生: 小南真利