『限界を超えて』:コンピュータを使っても、予言も、世界の設計もできないこと

1999.6.19

デニス・メドウズらが『成長の限界』で、環境問題を解決し人びとも各自の潜在能力を実現する公平な機会があるような世界全体の均衡状態を設計できるといっていたのは、ちょっといいすぎだったのかもしれない。だからあれから20年がたって、その分だけ人は賢くなったということか、こんどの本『限界を超えて』には、成長指向の工業世界から「持続可能」な世界への移行は、「リーダーシップ、倫理、ビジョン、勇気の問題で」あるというようになっている。

設計というよりは、勇気の問題だというのだ。「技術や市場、政府、企業、あるいはコンピュータ・モデルにそなわった特性ではなく、人間の心と魂がもつ特性なのである」と。

この思想変化はなかなか結構というべきかもしれない。20年まえの『成長の限界』では、資源の消費と汚染がある限界を超えて進行すれば破局しかないと論じていた。その資源の消耗と汚染の限界点がすでに突破されてしまった現時点では、「行き過ぎたけれども、まだ引き返せる」という可能性を選ぶのが、心をもった人間ならば当然だからだ。また、この「引き返し」、つまりはこれまでの成長主義でない経済システム(=持続可能な経済社会)への移行は、とてつもなく大規模な社会変革を意味するという認識もおおいに結構。

くりかえそう、設計とはもういわないのだ。ビジョンだ、勇気だというのだ。

そして、あっさりと「われわれ著者はコンピュータ・モデルの帽子と科学者の白衣を脱ぎ、一人の人間として再登場する必要がある」と宣言して、最終章を書いている。その第8章には、持続可能な社会の実現のために、ビジョンの創造をすすめ、また完成されたビジョンの人びとへの押しつけはだめだといっている。そして、ネットワークを作ろう、非公式ネットワークこそ新しいシステムの萌芽だという。そして極めつけは、「真実を語ること」「学ぶこと」「愛すること」の勧めだ。「真実を語ること」には、『成長の限界』での反省をこめて、こう書かれている。

「人類の経済とその地球との関わりについて明確な見解があるなら、こうした(以下のような)表現は....避けるべきである。

誤:未来に関する警告は、破滅の予言である。
正:未来に関する警告は、別な道を進めという勧告である。

誤:環境は贅沢品であり、他と競合する需要であり余裕がある人びとが買う商品である。
正:環境はすべての生命、あらゆる経済の源である。...

誤:成長を止めると、貧しい人びとが貧困から抜け出せなくなる。
正:貧しい人びとを貧困に閉じ込めているのは、現在の成長パターンである。貧しい人びとに必要なのは、彼らのニーズを満たすことを目的とした成長である。....

.........」

というわけで、多くのページを『成長の限界』同様、コンピュータシュミュレーションの説明に費やしているが、最後のオチはずいぶんまっとうな教訓になっている。

もちろん、人類は成長の速度を落としてはいない。この状況を人口やその他の指標で観測するのが、とりあえず先進工業国の人間の仕事となったといってよい。ちょうど、冷戦時代に核軍備膨張が臨界点に達して世界規模での核戦争へ突入してしまう時点を真夜中の十二時といい、それまで残された時間を時計の針で表したように、環境問題の臨界点(成長の限界)まであとどれくらいと表すのが仕事になっている人たち、研究機関がある。