大学教育とリテラシー

『木野通信』No.37 巻頭言, 2003年3月

支配階級の人間だけでなく、多くの人びとが文字を使い、読み書きができること、つまりリテラシーは、近代社会の条件だったはずです。しかし最近よく耳にするようになった「情報リテラシー」という言葉には、こまったことに、もともとの「読み書き」に含まれていたはずの大事な意味が抜け落ちているように思われることがあります。情報機器が操作できるかどうかにばかり焦点があたり、人びとが読み書きをすることによって、深く考えたり、自立した個人として問題を提起することができるというリテラシーの意味合いがどこかへ消えてしまったようです。自立した個人とは、言うまでもなく、意識的かつ批判的に考える人間のことです。

情報機器の発達だけではなく、テレビのようなメディアの発達も、もともとのリテラシーつまり読み書きの、この重要性を忘れることに無関係ではないでしょう。市民が意識的かつ批判的にメディアを読み解かなければならない状況になっているので、「メディア・リテラシー」の必要性が語られている時代です。

一方で、若者の半数近くが大学で学ぶ時代とは、かつては一部のエリートに独占されていた知の世界に、さらに多くの人びとが加わるようになったことを意味しています。知とは、過去から受け継がれてきた知識を扱うばかりではなく、現在を生きる私たちの問題を明らかにし表現するという主体的な働きのことです。本来のリテラシー、つまり本を読み新聞を読み、自分の見聞きしたこと、考えたことを文章に書き人に伝えるということが、なによりも大切なことは言うまでもありません。

京都精華大学は、このような重要性を、あらためて強く意識し、今年から人文学部のカリキュラムのなかに日本語のリテラシーを伸ばすための科目を置くことにしました。日本語を母語とする若者にとって、なによりも日本語で書かれたさまざまな学問・芸術の文章あるいは作品が読みこなせるようになること、そしてまた、一人ひとりが日々とらえている重要な主題を文章に表現できるようになること。これが、日本語リテラシー科目の目標です。この科目は年度ごとに充実し、より多くの学生が履修できるようにしていく計画です。

○×式のテストで点を取ることが目標でもなければ、日本語の「正しい」文法をただ学習することが目標でもありません。あくまでも、考えるため、表現して伝えるための読み書きの力を解き放し、さらに向上させることが目標です。これまでも、この大学の学生諸君は、卒業するまでには自ずとこのリテラシーを発揮するようになり、他大学の人たちが羨ましがる成果が示されることも少なくありませんでした。この特徴をさらに押しひろげ、京都精華大学の教育の大きな基軸であるようにしていきたいと思います。これはまた、芸術学部の学外実習や人文学部のフィールドワークがそうであったように、日本の大学教育のひとつの新しい模範となるにちがいありません。