ルース・ソックス(1)

京都新聞1998年02月12日夕刊「まいとーく」掲載 いまどきの若者<2>

禁止令がなかったワケ

服装には自分というものの延長のようなところがある。髪の毛や皮膚とは明らかに一線を画しているけれども、ときにはまるで自分そのもののようになる。また、服装は社会的な「しるし」だ。社会的なというのは、わざわざややこしくいえば、本人のとらえている社会のなかでその服装の意味と、さまざまな他人が読みとる意味とがある、ということだ。

すこし前に、どこの地域だったか、中学だか高校だかの先生たちの制服着用をきめたところ、先生たちのなかには反発、抵抗があった。それをみた生徒たちのなかには、先生たちは私たちに制服をおしつけているのだから、先生たちはわがままだという意見がうまれたという。いわば、「先生」の社会的な意味が分からなくなりつつあるということだろう。ひょっとするとその地域の大人たちには、先生を、たとえば見苦しくなく振まわせたい事情があったのかもしれない。生徒の側は、先生だからといって偉そうにするなといっているようなのだが、これもちょっと甘いのではないか。意味もなく偉そうにする手合いは制服をきて、ますます意味もなく偉そうにするだろうから。

しかし、先生たちはわがままだというのは、スカートの長さを物差しではかったりする超几帳面でなかば暴力的な管理にたいする不満を、反語的に表現しているのかもしれない。だとすれば、耳をかしたほうがいい。数字や歴史を教えることに熱中しているはずの先生が、どういうわけか服装管理に熱中してしまう、またはせざるをえないというのが現状ならば、「先生」の意味はそれほどに崩壊しつつあるのだろう。自分の社会的な意味をつくりなおすには、どうしたって相手が必要だ。その相手にむかって最初の言葉が、お前の服装は気に入らないというようなことだったら、ことは入り口でパーになったも同然だろう。

このあたりの事情を、傍目にではあれ、たぶんよく理解できる立場にあるのは、この数年で日本のほとんどの地域を制圧したかにみえる女子高校生のルース・ソックスを、売る側の人たちだ。もちろん、彼らの鋭敏な感覚が向けられている中心は、先生というよりは校則であり、なによりも女子高校生ではある。ルース・ソックス禁止令をだした公立の学校はほんとうに少なかった。これを女子高校生パワーとかいって、おだてる人もいる。学校の側というか先生たちも経験ゆえに賢くなっていて、教える相手を求めているがゆえに、彼女らの不思議な流行を受けいれたのだという仮説だってなりたつ。ほんとうのところは、流行のおそるべきスピードにソックス・チェックの体制づくりが間にあわなかったということかもしれない。いずれにしても、ソックス・チェックの消耗戦が全国的にひろがるような、ことはなかった。これは、一応よかった、とするべきだろう。

しかし、たとえば京都の繁華街で修学旅行の女子高校生の集団同士(もちろんルース・ソックス同士)がすれちがうとき、流行仲間に出会ったというような、愉快な相互関心の表情をみせてくれたらいいのに、という私はやはりあまりにも夢想的である。