第8回 原爆をめぐるジャーナリズム3──長崎の証言の会


  • 廃墟と化した長崎医科大学

地球ガ裸ニナッタ

市民ハ先ズ異様ナ爆音ヲ聞キ、スグツイデ非常ニ明ルイ白色ノ閃光ヲ見タ。地表ハ美シク紅色ニ光ッタト云フ人モアル。之ヲ市民ハ『ピカリ』ト名付ケタガ、全ク晴天ノ霹靂ノ如クピカリト眼ヲ射タ。‥‥‥爆心近クノモノハ同時二熱ヲ皮膚ニ感ジタ。次デ爆風ノ如キ爆圧ガ襲来シタ。地上一切ノモノハ瞬時ニ粉砕セラレ、地球ガ裸ニナッタ。

‥‥‥タダ『アッ』ト叫ンダ間ニ浦上一帯ハカク変相シテイタノデアル。唯一瞬間ニ。‥‥‥

永井 隆『原子爆弾救護報告』より
挿画:廃墟と化した長崎医科大学(米軍撮影:爆心より東約600メートル)
参考:長崎の証言の会ウェブサイト


「忘れられた原爆」……この奇妙な呼び名は、いったいどういう背景を持って生まれたのか。確かに起こった恐るべき事態であり、その被害者も厳然として存在するにもかかわらず、ナガサキの原爆は、第一号であるヒロシマの陰に隠れてしまった。「長崎の証言の会」の活動をはじめとする書籍から、「ナガサキの原爆」について語ることを意義を考える。


第8回 原爆をめぐるジャーナリズム3──長崎の証言の会:もくじ

放射能、ウラン、プルトニウム──言葉を知らなければ人に伝えることは難しい

みなさんが書いてくれたものをみていると、原子爆弾というものがそもそもどういうものであるか、まったくご存知ないというかんじの人がだいぶいるんですが…。

「放射能」っていう言葉、知ってる? 「ウラン」っていう言葉、知ってる? 知らない人いる? みんな知ってるかな。「プルトニウム」という言葉、知ってるよね? 知らない人、ちょっと手を挙げてくれる? (誰も手を挙げないのを見て)知ってるのか…。

「ガンマ線」とか「アルファ線」とか「ベータ線」とかいう言葉を知っている人は? 知らない人は?(たくさん手が挙がったのを見て)でも放射能っていう言葉は知っているの?

学生:なんとなく…。中身がわからない…。

中尾:劣化ウラン弾、っていう言葉聞いたことある人いる? 聞いたことない人は? (誰も手が挙がっていないようなので)みんな聞いたことあるのか…。(手を挙げている人に気づいて)あっ、聞いたことのない人もいるね。君らは環境社会学科の学生か? 広島に落された原爆は何からつくられたの?

寺町:ウラン235

中尾:劣化ウランはどういうものだ? ウラン238とかですね。プルトニウムって知ってる? 知ってるよね。長崎に落された原爆は何を使っていたんだ?

佐々木:プルトニウム239

中尾:さあ、「核分裂」っていう言葉聞いたことある? みんな聞いたことあるよね。「核分裂連鎖反応」、こういう言葉を聞いたことのある人? 意味のわかる人は? (ぱらぱらと挙がった手をみて)意味ぐらい調べておいてね。

核分裂連鎖反応が、原子爆弾であるとか原子力発電所で起こっていることですね。東海村の臨界事故という言葉を覚えている人は? 「臨界」っていうのは、核分裂連鎖反応が起こるようになった状態のことを言うんだよね。いま言っているようなことは、言葉の問題だというふうにお思いになるかもしれませんが、そういうわけではありません。

「核分裂生成物質」っていうの聞いたことある? 聞いたことのない人? これはちゃんと調べておいてね。例えば、ウラン235とかプルトニウム239が核分裂すると、そのあと核分裂生成物質ができますが、有名なものはなに? 骨のなかに入っちゃうカルシウムに非常によく似たのはなんだ?

佐々木:ストロンチウム90

中尾:ストロンチウム90の半減期はどれくらいですか? 「半減期」という言葉を聞いたことがある人?

竹内:放射線が出る量が半分になる時間です。

中尾:ストロンチウムはどれくらいで半分になるの? 恐ろしく長いね。何十年かだね。「ヨウ素」っていうのを聞いたことある? 問題になるのはヨウ素のなんていうやつだ?

こういう言葉を暗記することはほとんど意味がないかもしれませんが、でもものすごく重要なんですね。こういうこと──例えば、核分裂生成物質──が重要なんです。チェルノブイリで原発が爆発しちゃったでしょ。そこから出てくるのは何だと思う? そこから出てくるのは、核分裂生成物質だね。原子炉のなかで、プルトニウムとかウランが核分裂の連鎖反応を起こして、その結果、原子炉のなかで貯まっていた核分裂生成物質が出てきちゃうんだよね。それが問題なんだよね。もちろんウラン235とかプルトニウムの恐ろしいものとかが当然吹き飛ばされて出てくるよね。だけれども、核分裂生成物質がとても怖いのです。

100万キロワットの発電をする能力がある原子力発電所があるでしょ。日本にある原子力発電所はほとんどこのタイプです。100万キロワットくらいの発電能力を持っています。1年間ずっと100万キロワット発電して、原子炉を運転し続けると、広島原爆に換算して、1,000発分の核分裂生成物質ができると言われています。だから、もしこれが大気中に出てくれば、とんでもないことになるよね。

原子爆弾とは?──どんなものがどんなことを起こすのか

『黒い雨』さあ、原子爆弾に戻りますが、原子爆弾のことをみなさんはほとんど何も知らないんじゃないかという気がしてきました。ちょっと悪いけど、読ませてもらうね。『黒い雨』(井伏 鱒二、新潮社、新潮文庫、1985年改版)というのを、みなさん読みましたね。それから『重松日記』(重松 静馬、筑摩書房、2001年)を、みなさん読んだんでしょうけれども、そのどちらでも、横川駅というところで、重松が電車に乗った直後の描写がありましたね(『黒い雨』p.35、『重松日記』p.12)。

広島に落された原子爆弾も、長崎に落された原子爆弾も、それぞれウラン235であったり、プルトニウム239であったり、ということで違います。違いはあるけれども、どちらも初めて使われたんだよね。初めて使われたというのは、人間に向かって初めて使われたということだね。そのまえに、アラモゴルドというところで1発実験をしていますが、規模的にはほとんど一緒です。それがどれくらいのものであったかということを、みなさんはてっきり知っていると思っていた。知らないよね。まったく知らない。

原子爆弾というのは、その当時はやっぱり重かったんですよ。いまは広島に落されたくらいの破壊力を持っている原子爆弾は、もっと軽くつくることができます。しかし、その当時は、その当時一番大きな爆撃機がようやく1つだけ積むことができるくらいの重いものでした。重いものですが、例えばクラスター爆弾のようにたくさんに分かれて落っこってくるわけじゃなくて、ひとつ、一個のかたまりです。核分裂連鎖反応が起きると、それを爆弾が爆発した、という言いかたをするんだよね。でも、この「爆発」という言葉は、通常の爆弾だったら、「爆発か」と思うかもしれませんが、核分裂連鎖反応による爆発と言うべきか、爆弾と言うべきかよくわかりませんが、それまで人間が体験しなかったことが起きるんだよね。こういうことをみなさんは知っていましたよね。原子爆弾というのは、とてつもないものだというのを知っていましたよね。

ロベルト・ユンクという人に『千の太陽よりも明るく』(Robert Jungk、菊盛 英夫 訳、現代世界ノンフィクション全集、筑摩書房、1967年)という本があるんですが、これは原子爆弾のことを書いた本です。その閃光は太陽の光で測ると1,000倍以上だというんだよね。

まったく人間がいままで体験しなかったことを、突然広島と長崎が体験してしまった、ということは知っていたよね。いまから読むものは、この人をけなすために読むんじゃないんですが、でもちょっと考えてほしいから読みます。こういうふうに書いてあります。「『黒い雨』で35ページあたりに、左側3メートルくらいのところに光の玉が見えたと書いてある。…」この左側というのは、電車の進行方向左側のことです。横川駅で彼が電車に乗り込んだあとのことだよね。それでちょっと変だなと、この人はおそらく思ったんでしょう。「この光の玉は爆弾なのに、なんで重松は死ななかったのか。」3メートルのところに原子爆弾が落ちたら死ぬだろう、というふうに、この人は考えた。もし本当に3メートルのところだったら、それはそうですよ。3メートルだったら、見えるわけもないじゃない。もうなんにもない。一瞬にして、とけてなくなっちゃったということだよ。とけるというより、蒸発しちゃったんじゃないかな。

この原子爆弾の核分裂連鎖反応が瞬時にして起こるわけですが、そのときには1万度を超える温度になります。1万度だよ。もっとかもしれない。わからない。それで、例えば3キロくらい離れていても、もしその熱線が直接肌に触れれば、火傷、水ぶくれができて、皮膚がはがれる程度のことは起こってしまう、というたぐいのものなんです。だから、そのときのことを振り返って、日記などが書けるという人は、爆心からある程度離れたところにいて、生き残った人だよ。あたりまえだよね。生き残ったから書いているんだよね。

爆心から1キロ以内にいた人は、9割方は死んでいます。生き残っていない。2キロ離れても、5割方は死んでいます。広島市の当時の人口は、おそらく25万人くらいだったと思われます。広島の原爆が落ちて、そのことが原因でその年の内に死んでしまった人は、数えられるだけでも、17万人です。25から17引いたら8でしょう。生き残りは8万人ですよ。これぐらい知っていたよね。

さあ、今度は少し遡って、みなさんにもう少し丁寧に読んでもらおうと思う。横川駅という駅で、その光を見たわけですね。「三メートルぐらい」と書いてあった。なんか変だよね。だけど、そういうふうに感じたんだよね。そういうふうに見えた。電車の左側3メートルくらいのところにものすごいフラッシュのような光の玉が見えた。直接見たんじゃないかもしれませんね。爆心のほうを直接見ていたのではなくて、電車の左側3メートルくらいのところに光の玉が見えた。見えたに違いないけれども、それは何かに反射したものを見たのかもしれないですね。わからない。

中尾:さて、光というのはどういうスピードで走るの? 1秒間にどれくらい走るの?

笠川:地球を7周半するくらい。

中尾:音っていうのは、どのくらいの速さで伝わるの? 1秒間で三百数十メートルだよね。

それから、原子力爆弾のような恐ろしいものが爆発すると、光でもない、音でもないものが発生するんだよね。衝撃波というものが発生します。でも衝撃波というのは、空気に起こる現象です。衝撃波は音よりもはるかに速いスピードで移動します、というようなことを考えてみてください。重松さんは、まず閃光、ものすごい光が感じられて、そのあとは真っ暗になったと書いていますね。なんで真っ暗になるの? これはいろんな考えかたがありうるでしょうね。一瞬、ものすごい明るい光を浴びたあと、眼はどうなっちゃうかと言うと、見えなくなっちゃうね。真っ暗になっちゃう。でもそれだけじゃないね。その次に起こったことはなにか。閃光を見なかった人でも、おそらく真っ暗になったでしょうね。チリ、埃で真っ暗になって見えなくなった。

『ヒロシマ』ジョン・ハーシー(John Hersey、1914-1993)の『ヒロシマ』(John Hersey、石川 欣一・谷本 清 共訳、法政大学出版局、1977年新装版<初版は1949年>)を見てください。ここには6人の人が出てくるよね。まず7ページを見てください。谷本さんの体験が書いてあるわけですが、7ページの5行目。

そのとき、物凄い閃光が空を切った。谷本氏は、その閃光が東から西へ、すなわち市街から山へむかって走ったと明瞭に記憶している。…(『ヒロシマ』p.7)

谷本さんは市の中心部から離れて山のほうに向かっていたんですね。広島の地図を想像してみてください。東から西へということは、広島の地図でみなさんから向かって左手のほうに向かって光が走ったというふうに記憶している。でも光っていうのは、さっき言ったように、1秒間に地球を7周半しちゃうんだから、なんで走っているのが見えるんだろう、と思うよね。だけで人間はそういうふうに感じますね。あっちのほうが光源であれば、光は向こうからこっちへ来ていると感じるものね。

さらに続きを読んでみましょう。

…まるで太陽を引き伸ばしたようであった。彼も松尾さんも、恐怖のあまりに反射運動的に動いた──そうするだけの時間があったのだ。(同 p.7)

「そうするたけの時間があったのだ」というのは、これはジョン・ハーシーがそういうふうに書いたんです。そんな余計なことを書くな、と思う人がいるかもしれませんが…。さらに続きを読みます。カッコのなかです。

(なぜなら、ここは爆心地から三、五〇〇ヤード、すなわち二マイル離れていたからである)(同 p.7)

さあ、ちょっと掛け算をしてください。1ヤードというのは約90 cmです。正確には91.44 cmです。面倒くさいから、90 cmとして計算してごらん。3,500ヤードっていうのは? 3,500の0.9倍はいくつ? 3,150メートルくらいになるね。

中尾:1マイルは何メートルだ?

笠川:1.6キロメートル。

中尾:じゃあ、1.6キロメートルで、2マイルって書いてあるから、1.6に2掛けたら3.2キロになるよね。だいたい爆心からこういう距離、谷本さんは離れていた。

そうすると、さっき言ったショック・ウェーブ(shock wave)、衝撃波は、仮に秒速500メートルだとしたら、爆心からの距離が3キロだとしたら、6秒ぐらいかかるわけだね。だから、ここに書かれている「そうするだけの時間」というのは、6秒くらいのことかなということだね。

さあ、そのつぎは11ページを見てください。今度は中村さんのことです。

中村さんが隣りの人を眺めて立っていたとき、あたり一面が、まだ見たこともないほどの白さで、一瞬光った。(同 pp.11-12)

こういう表現をしているんだね。これはもちろん、ジョン・ハーシーがそういうふうに聞いて書いたんですけれども。いいですか。

…さすがは母親、反射的に子供たちのいるほうに動いていた。たったひと足ふみ出したとたん(この家は爆心から一、三五〇ヤード、すなわち四分の三マイルのところにある)(同 p.12)

中尾:はい、また計算して。0.9メートル掛けてみて。どうなった?

学生:1,215メートルです。

中尾:ほとんど1キロだよね。衝撃波がくるまで、ひょっとしたら1秒なかったかもしれない。というのは、近いから衝撃波の伝わりかたは、秒速500メートルというようなものではなくて、もっと速かったかもしれない。

さあ、その次、今度は15ページを見てごらん。15ページの真ん中あたり、今度は藤井さんです。

彼の目にうつったのはまぶしい黄色の光であった。びっくりして立ちあがろうとしたその瞬間(場所は中心から一、五五〇ヤード離れていた)(同 p.15)

「立ちあがろうとしたその瞬間」と言うんですから、まだ立ちあがってはいないんですね。藤井さんがいた場所は爆心からどのくらいかというと、1,550ヤードですね。また0.9掛けてごらん。ある人は「まぶしい黄色」だって言うし、ある人は「いままで見たこともないほどの白さ」だと言ったりする。ある人は「フラッシュの様の、…光球」を見たりする。いろいろだよね。

次に18ページを見てください。これはちょっと違う書きかたをしてあります。

あのすさまじい閃光…の直後、これは直撃弾を喰ったな、と、ちらりと考えるだけの余裕があった(中心から一、四〇〇ヤード離れていたからである)(同 p.18)

だいたいみんな──谷本さんを以外は──かなり近いところにいましたね。この距離で生き残った人というのは、本当に少ないです。つぎは20ページをみてごらん。今度は佐々木さんですね。佐々木さんは廊下を歩いていたんですが、

…爆弾の閃光が廊下に反射した。巨大な写真用のフラッシュをたいたような光であった。…(病院は爆心から一、六五〇ヤードある)(同 pp.20-21)

つぎに、23ページの後ろから8行目くらい。段落のちょっと前ですが、今度は佐々木とし子さんですけれども、右手にいる同僚とおしゃべりしようと思って、窓のほうから右に振り向いたんですね。

…窓の方角からふりむいたちょうどそのとき、部屋中、目も眩む光でいっぱいになった。…(工場は爆心から一、六〇〇ヤードの所にある。)(同 p.23)

部屋中が光でいっぱいになった、というふうに表現されています。爆心からの距離は1,600ヤードです。この距離で生き延びているこの人たちは、どちらかと言えば、少数派だと思ってください。おおざっぱな数字を言いますが、この距離なら3分の1くらいの人が生き残ったかな。3分の2は生き残れなかった。というふうに、考えていただきたい。

もう一回、みなさんに注文をつけておきたいんですが、原子爆弾はどういうものかということを、みなさんは知らなければならない。そこに使われている物質がどういうものであるか。それはおそろしいものだということを知る必要がある。原子爆弾だけではなくて、核分裂の連鎖反応が起こったあとに生まれる物質はどういうものがあるか。そして、それがいままで、環境中にどういうふうにしてばらまかれてきたか、これからばらまかれる可能性がある、ということを知らなければならない。いいよね。

今日の本題──長崎の証言の会

さて、今日のテーマにもどりましょう。今日のテーマというのは、もうずっと続いてきていますが、原爆をめぐるジャーナリズムの3回目になるよね。第1回目はジョン・ハーシーでした。第2回目は『黒い雨』と『重松日記』だったよね。今日は第3回目です。

ジョン・ハーシーという人は、自分自身は被曝者ではありませんね。それから、言ってみれば、日本語を共通言語にしていない。その人が広島に来て、取材をして書いたものが『ヒロシマ』ですね。「重松日記」というのは、被曝をした人が書いたんですね。『黒い雨』というのは、その「重松日記」にもとづいて、井伏鱒二という小説家と呼ばれている人が書いたものだね。

さて「長崎の証言の会」という会があります。「長崎の証言の会」の目的はなにか。証言には、いろいろなかたちがあります。証言というのは、被曝者あるいは被曝者を身近に知っていた人によるもののことだよね。『ナガサキの証言』(鎌田 定夫 編、青木書店、1979年)の230ページと231ページにある「長崎原爆関係主要文献」をちょっとみてください。

前回すでに説明をしてあったと思いますが、この本を編集した人は鎌田定夫という人です。目次をみてください。序章は「ナガサキは証言する」です。編者である鎌田定夫の名前が、序章の2番目「ナガサキ三十五年目の証言」というタイトルの下に書かれているのがわかるよね。その前の「ナガサキは証言する」というタイトルの文章を書いた秋月辰一郎さんは、「長崎の証言の会」の代表委員です。

「長崎の証言の会」というのは運動だよ。証言を残す、ということは、実は(証言を)集めないといけない。(証言を)集めて残すんだよね。ということを、秋月さん、鎌田さんが生涯をかけてやったわけですね。みなさんにみてもらっている230ページの「長崎原爆関係主要文献」の上の段、後から3つ目に「『長崎の証言』全10集(鎌田定夫編)」と書かれていますね。これを編集して出版したのは、「長崎の証言刊行委員会」というふうに書かれています。まず、これが──これだけではありませんけれども──「長崎の証言の会」の第一段階でした。

『長崎の証言』第1集が出版されたのが、1969年です。このときは、タイプ印刷でした。活版印刷ではなかった。1969年ですよ。それから第10集が刊行されたのが、おそらく1977年ではないかと思います。つまり8年間かかって、第10集までできたというふうに思ってください。

それから、今度は同じく「長崎原爆関係主要文献」231ページの下の段の後ろからふたつめに「『季刊・長崎の証言』」と書かれていますね。続いてその下に「(一九七八年秋より刊行中)」と書かれています。その下に「長崎の証言の会」と書いてありますが、つまりここが発行したという意味だね。そこが編集をして発行をしたという意味です。<季刊>というのは、1年に4回出るという意味です。この『季刊・長崎の証言』もずっと続きます。さあ、いつまで続いたでしょう。レポート代わりにこういうことを調べてもらおうかな、と思いますが…。

そのあとさらに違う展開のしかたをします。現在でも「ナガサキの証言の会」というのは、存在しています。昨年、2002年には『証言──ヒロシマ・ナガサキの声』で、第16集まで出ています。「ヒロシマ・ナガサキ」に変わったんだよね。「ヒロシマ」というのが加わった。編集をして発行しているのは、「長崎の証言の会」です。

それで、こういう証言を集める過程で、いろいろなことが発掘されたんだね。まだ生存している人に記憶を書き残してもらったり、しゃべってもらったりするというのが「長崎の証言の会」の運動の中身ですが、その過程で発見されたいろいろなことがありました。

46ページを開けてごらん。『地球ガ裸ニナッタ』(『ナガサキの証言 p.46』)というタイトルがついていますが、「原子爆弾救護報告 昭和二十年八月−十月」というサブタイトルがついています。この報告書を書いたのは誰か。個人名は書かれていませんでした。「長崎医科大学物理的療法科」が記録したことになっています。そのとなりにちょっと注というか、コメントが書かれています。

一九七〇年六月二十五日、長崎市若草町の田川福松さん宅で、被爆直後の永井隆博士らの救護報告が発見され、大きな反響をよんだ。…(同 p.46)

つまり、この救護報告は1970年に発見されたものですよ、ということですね。

…『長崎の証言』を編集していたわたしは、発見者のNBC報道部よりこの資料を見せてもらい、その抜粋の一部を第二集に収録、発表した。…(同 p.46)

「わたし」はつまり鎌田定夫さん、「第二集」っていうのは、『長崎の証言』の第二集のことだね。それをもう一回、『ナガサキの証言』という本に採録をしているということです。

…なお、本報告の全文は、その後、朝日新聞社より刊行されている。(編者)(同 p.47)

これは230ページの「長崎原爆関係主要文献」をもう一回振り返ってみてください。一番最初に『長崎医科大学原子爆弾救護報告』というのがあって、これは永井隆が書いたもので、朝日新聞社から刊行されたということがわかりますね(1945年刊行)。

それから、その次に、『ナガサキの証言』の55ページをみてください。「鎮西学院受難記」というタイトルがついています。この日記のようなものを書いたのは、千葉胤雄という人です。さらに62ページの「編者注」というところをみてください。「昭和二十五年五月十三日、再生不良性貧血のため逝去された。」(同 p.62)というふうに書かれていますね。昭和25年というのは、西暦何年ですか? 1950年だね。いまみなさんが読んでいるこの印刷物が出版されたのは、1979年です。おそらく、この日記のようなものも、1970年前後かあるいはもっと遅くになってから、発見されたんだね。発見されたか、あるいはこれを使ってくださいというふうに、遺族が証言の会に手渡したものだと考えることができますね。

そのつぎ、「長崎師範学校被爆日記」(同 p.62)は石畑真一という人が書いたものですが、一番最後の66ページをみてください。これもまた同じように、この石畑さんという人は、「昭和四十年十二月十日、永眠された」というふうに書いてありますね。昭和四十年というのは、西暦何年? 1965年だね。このようになっていることを、よく考えてみてください。

少なくともわかることは、みなさんがみてくれた3つの日記のようなものは、いずれも何月何日と書かれているよね。これはいつごろ書かれたものかということを、まず考えてほしい。これは大事です。それからご本人が死んでから、何年も経ってから本のかたちになって紹介をされていることになる、ということをよくみておいてね。

ちょっと話をもどしましょう。鎌田定夫という人が書いている「ナガサキ三十五年目の証言」(同 p.6)という序章の部分がありましたね。ものすごい奇妙なことを言っているように聞こえているかもしれません。なんでそんなにそれが重要かというのをなかなかうまいこと表現できていないかもしれませんが、注目していただきたいことがあります。鎌田定夫さんの文章の前に秋月辰一郎さんの短い序文がありますね。4ページの後ろから6行目。

「そんなことは忘れてしまえ」「いまさら同じことをなぜ繰り返すのか」そういう声を、つぎつぎに押しのけて、これらの人びとは、今日もまた長崎のかつての夏を証言する。証言して、世の人びとに広めようとする。(同 p.4)

全体もたいへん短い文章ですが、なんで広げようとするんだろう。実はこれ以上言いようがないなにかあるんだよね。いま起こっていることじゃない。もう大昔のことですよね。その本が出版されたのが1979年だね。34年経っている。なんで同じことを繰り返し言うんだろうか。なぜ誰に聞いてもそんなに違いはないような話を集めて、しかも2002年のいまでも──いまは2003年ですが──そういう運動が続いているのはなぜか。なぜかと言われても、「世の人びとに広めようとする」んだと秋月さんは書いている。5ページの一番最後のところ「長崎の人びとはこれを証言する。今年もまた、今日もまた、繰り返し証言する。」と書いてありますね。

鎌田さんの序文をちょっとみてください。7ページの3行目から4行目。「それは、いかなる科学的調査も文学的虚構も、とってかわることのできない現実である。」という言いかたを、鎌田定夫はしています。これは、鎌田さんたちが集めて、これを残してみなさんに、世間に伝えようとしている「ナガサキの証言」は「いかなる科学的調査も文学的虚構も、とってかわることのできない現実である」と言っています。

さて、ちょっと違うトーンになりますが、同じく7ページの後ろから7行目。「ところで、なぜ『ナガサキの証言』なのか。なぜ『ヒロシマの証言』だけでは十分でないのか。」この問いかけ自体が奇妙なかんじが、僕にはしますが、こういうふうに書くのには理由があったということがすぐにわかります。「それは、いうまでもない。『ヒロシマ原爆』の証言と文献は、まだ十分といえないにしてもすでに相当な数に達している。しかし、『ナガサキ原爆』の証言と文献はその数分の一、いや数十分の一も店頭や図書館には並んでいない。W・H・チンノックはその著書を『ナガサキ──忘れられた原爆』と名づけた。たしかに、ナガサキはヒロシマの陰にかくれ、つねに第二号であり、付録としてしか扱われなかった。」だから「ナガサキの証言」なんだ、と彼は言っているわけだね(以下録音消失)。

授業日:2003.06.03;ウェブ公開:2003.07.30:更新:2003.07.30;
協力:川畑望美