第1回 環境ジャーナリズムとは…

荒畑寒村(本名・勝三)1887〜1981あゝ我が筆よくこの滔々天に漲る権力者の大罪悪を、永劫に滅びざる宇宙の歴史に刻むべき、正義の鉄筆たるに適すべき乎。

荒畑寒村『谷中村滅亡史』緒言より
写真:荒畑寒村(本名・勝三)1887〜1981


20歳の荒畑寒村の義憤に満ちた記述は、ジャーナリズムか、それともただのアジテーションか? 「現実」と「私たち」のあいだをつなぐ装置、ジャーナリズム。それなしで社会は環境問題に取り組むことはできない。社会と環境との新しい関係を模索する中尾ハジメと学生が、この問題に挑む!


■環境ジャーナリズムとは?

中尾ハジメ:この授業は、「環境ジャーナリズム」の授業です。さて、「環境ジャーナリズム」ってなんだろうね? ん? よくわからない? さて、じゃあ、「ジャーナリズム」っていうのは、いったいなんだろうね?

清水千絵:ジャーナリズムのすべきことは、出来事についての情報を収集して、自分の意見を出すことだと思う。

佐々木良太: 主体性あるいは自分の主張との兼ねあいは問題だが、事実を公正に、あるがままに報道するべきだと思う。

中尾ハジメ:佐々木君の意見は、「意見をまじえない事実の報道」というわけかな?

■ニュース

中尾ハジメ:ニュースというものがあります。つまり、出来事が、もうちょっというなら、「報道するに足る出来事」が、ニュースとして我々に伝えられています。例をあげて考えてみましょう。最近のニュースでは、どんなのがありましたか?

高橋栄策:この間、自民党がマスコミに対して自民党叩きを自重するように求めたというニュースを見ました。

中尾ハジメ:さっきの清水さん・佐々木君の議論の線上でこれを考えると、自民党は、マスコミの主張あるいは意見にたいして、もっと公正にやれ、事実だけを報道しろと言っているかのようだし、あるいは逆に、自民党が言っていることが、事実と無関係の自分かわいさの主張あるいは願望のようでもある。主張とか、あるがままとか、そう単純にいえない──高橋さんの言いたいことはそういうことかな?

高橋栄策:そう言えなくもないですね。

授業の様子中尾ハジメ:たしかに、たとえば新聞には、社説というもっぱら意見や主張を打ちだす働きがありますね。しかし、「あるがまま」伝えなければならないという問題はどうなるんでしょう? ちがう例をあげてみましょう。アメリカの潜水艦と日本の練習船がぶつかった。中国の戦闘機とアメリカの偵察機の衝突で、中国のパイロットは行方不明になり、偵察機の乗務員は中国側に拘束された。これらはやはり「出来事」です。しかもある種の重大な「報道する価値のある出来事」です。しかし、なんでこの出来事が「価値がある(=注意して聞かなければならない)」と私たちは、またジャーナリストは、判断するのでしょうか? なんでこのニュースは、「重要なニュース」なのでしょうか?

学生:・・・沈黙・・ ・

中尾ハジメ:たぶんひとつ、たとえばこういうことが言えませんか? 記者、ジャーナリストは、この情報をキャッチした瞬間に、重大さを感じ、またそのニュースを知った私たちの多くも重大だと判断した。えひめ丸に衝突したのが、もしアメリカの軍の艦船でなければどうだったろう。しかし、実際は軍の潜水艦だったことから、さらに別の重大さを感じないわけにはいかなかった。これは、出来事についての判断、重大だという私たちの主張です。ニュースを聞いた瞬間に重大だと感じるわけですが、なぜそう判断するのかということを時間をかけて丁寧に説明することももちろんできます。この判断が清水さんのいう「主張」であるということは、たとえば森首相の判断が「交通事故にすぎない」かのようなものでゴルフを続けていたことを考えると、はっきりするでしょう。中国軍戦闘機とアメリカ軍偵察機の衝突についてはどうでしょう? たぶん、事件を聞いた人はこう思ったでしょう。「中国とアメリカは、難しい関係になるのではないだろうか」と。これは、主体的な判断、価値観の主張なんだよね。ある出来事に報道するべき価値があり、重要だと判断される要件のひとつは、その出来事が、あるいはそれへの対処が「将来・未来に重大な影響を与えるだろう」ということを感じさせるということです。その意味で、実際に起こった過去の出来事の、その事実をただ記録するということだけでは、ジャーナリズムは出来あがっていないよね。しかし、森総理にはそういう想像力がなかったんだね。将来を見ないために、不適切な対応をしたと周囲に言われてしまった。

■もういちど、ジャーナリズムとは?

中尾ハジメ:清水さんによると、ジャーナリズムは「自分の意見を伝えることだ」、佐々木君によれば、「あるがままを報道するということだ」ということでした。それぞれが、間違いとはいえないと思います。ある事件、出来事は、起こった瞬間、だれかがそれを知った瞬間、「あ! これは大変なことが起こった!」とか、思われたりしてから、その人によって報道されます。だれかが、「大変なことが起こった!」と思うわけです。この点においては、ニュースは意見としての要素を多分に含むといえるでしょう。 (含むというより、これがなかったらニュースなんて存在しない!) しかし、その報道は、嘘をついてはいけません。ありもしなかった余計なことを言ったり、誇張してもいけません。だから、佐々木君の言う「公正に」とか「あるがままに」ということがどうしても必要なんじゃないかな。

■ルポルタージュ

中尾ハジメ:では、「環境ジャーナリズム」などと、いつ頃から言われるようになったのか? それから、「環境ジャーナリズム」がでてきたのは、いつ頃からだと思いますか?

岸本智史:水俣病の頃からだと思います。

中尾ハジメ:君は、日本のことを言っているようだね。じゃあ、水俣病はいつの話だったでしょうか。

岸本智史:1900年以降です。

中尾ハジメ:そりゃそうだ。もうちょっというと、戦後という言い方ができますね。う〜ん、ちょっと角度を変えて、みなさんはルポルタージュという言葉を知っていますか? 知ってる? うん。ルポルタージュという言葉を聞いて、誰を思い出しますか?

田上奈緒:沢木耕太郎・・・かな?

中尾ハジメ:たとえば『深夜特急』のことだね。ノンフィクションという言葉もあるけど、こっちはどんなイメージですか?

田上奈緒:作ったものでないということかな?

中尾ハジメ:う〜ん。一応そうなんだ。けど、ノンフィクション作家っていうね。作家って、作る人ということでしょ? さて、みんな、田中正造って知ってる?

南信之介:ひげを生やしていて、だれかに何かを訴えた人です。(笑い)

中尾ハジメ:う〜ん、そうなんだけどさ。足尾銅山事件は? みんな「公害史」の授業は受けたんだろう? あ、聞いたことはあるみたいだね。田中正造は有名だね。この人も、たくさん書いて、重大な事を世の中に伝えようとした人で、ジャーナリズムというのは、すでにその大切な手段だった。ここの情報館にも『田中正造全集』があるから見ておいてください。

■荒畑寒村の『谷中村滅亡史』

中尾ハジメ:田中正造の話はおいておいて、さて、みなさんは何歳ですか? だいたい20歳くらいでしょう? 今からプリントを配ります。10分ぐらい、目を通してください。

緒言

明治十四年、時の栃木県知事藤川為親氏が、渡良瀬川の魚類を食ふことを禁じて、鉱毒問題の先鋒に叫んで、不幸島根県に追われてより、年を閲すること爰に二十有余年、鉱毒の被害の激甚地として、将また瀦水地問題の紛争地として、多年紛糾錯綜の渦中に投ぜられ、何時解決せらるべしとも見えざりし、栃木県下都賀郡谷中村は、明治四十年七月五日、遂に政府の兇暴無残なる毒手に破壊せられ終んぬ。

あゝ谷中村は遂に滅亡したる乎・・・

岩波文庫『谷中村滅亡史』緒言 p.23〜p.27

『谷中村滅亡史』中尾ハジメ:これは荒畑寒村という人が、ちょうどみんなぐらいの20歳のときに書いたルポルタージュ、『谷中村滅亡史(やなかむらめつぼうし)』の序文にあたるところです。1907年(明治40年)に出されました。書いたひとは、アラハタ・カンソン(荒畑寒村)。たぶんペンネームなんだろうけどね。いい名前ですねえ。読んでみて、どうですか? すごいでしょう? さて、宿題なのですが、これを読んで、来週までに、思ったことをレポートしてください。たとえば、みなさんがジャーナリストだったとして、こんな文書をたまたま発見したとして、どんな価値判断をもつだろうか? 判断基準は人によって違うかもしれない。その、ある具体的な基準で判断すれば、そのつぎに、ジャーナリストであるあなたは何を調べようとするだろうか、どのように書き表して世間に伝えようとするだろうか? さっきの清水さんと佐々木君の見解を基準にしてこれを読んで、言えることはなんだろうか。この序文だけじゃだめだよ。岩波文庫一冊買って読むように。コーヒー、一杯分くらいで買えるから。

宮川真理子:どういうことを書いたらいいんですか?

中尾ハジメ:この授業の目的は、「環境問題を様々な角度から追うジャーナリズムを検討するが、一方で社会理論的なジャーナリズムの位置づけを、また他方で取材方法から編集方法までの実践的な問題を論じる。できるだけ多数のジャーナリズムの実例を知り、環境ジャーナリズムの可能性を明らかにしたい」ということになっている。そこで、「過去から現在までの文芸作品、報道記事などを広く概観する」んだよね。『谷中村滅亡史』の荒畑寒村は、彼の角度をもって追っているにちがいない。様々な角度のひとつでしょ。それが、どんな角度だといえるか、みなさんの基準から評価するということだよ。たとえば、僕なんか思うんですが、この文中には「環境」なんて言葉は、まったくでてきません。どういうことでしょうね? つまり、そんな言葉はなかった。そして荒畑寒村には、この問題を表現するために、環境という言葉はいらないんですね。最近なら、大気中だとか水のなかの化学物質の濃度を ppm だとかいったりし表現しますが、そういうこともありません。タイトルにあるように、ひとつの村がなくなったことが、問題なんですよ。鉱毒におかされた村があり、それでもなお住もうとする人たちがいたということ、そしてその村を強制収用した政府があったということなのです。社会理論ということからすれば、田中正造が直訴しようとしたのは天皇だったでしょ。ということは、そういう政治社会の組織を背景にした出来事だったし、荒畑寒村のジャーナリズムはそのなかでどう位置づけることができるのかな? あるいは、たとえば「情報社会」という言葉があるでしょ。「情報社会」ってなにかな?(このあと、『共感する環境学』のなかの「環境ジャーナリズムの可能性」を読んだだろと言いながら進める中尾ハジメの話は筋がとらえがたくなり、本人も途中で、それ以上つづけることを断念した模様)さて、じゃあ、しっかりと宿題をやっくるように。あ、でも、僕と同じことは言っちゃダメだよ。「環境という言葉が出てこない」ってのは、もう言っちゃったからね。

授業日: 2001年4月17日;