第4回 レポート・フィードバック

学生の提出したレポートについて

なかなかしっかり考えられたレポート、あるいは考えることには難渋したが周辺の事柄をいろいろ調べて──なにしろ、これまでしっかりした歴史勉強などする機会がなかった人が多いのだ──徹夜して書いたなと思われるレポートなどが、ほぼ半数あった。あとの半数は、とにかく何か書き、意地悪な中尾から被害を受けぬよう、やり過ごせばよいという感じ。もちろん、書かないよりマシ。そこから、また問題意識がひろがっていくことが、ありありと想像できるようなものも少なくなかった。中尾がレポートをどのように読んだかがわかるよう、数例だけでも拾いあげて、紹介しておこう。

◆劉は、明治10年頃からはじまる足尾銅山の鉱毒による被害、田中正造らによる住民の運動、政府の対応の歴史を簡潔にまとめるなど、かなり効率的に勉強したことがうかがわれる。歴史意識はジャーナリズムになくてはならないので、これはこれで結構。

◆馮も、劉さんとは違う資料をいかして、鉱毒被害の発見から谷中村滅亡までの29年間を、足尾銅山や渡良瀬川の地理的な具体性、あるいは銅需要の伸びなどの社会的具体性、さらには古河市兵衛や田中正造という人物のプロフィルなどを、うまく織り込みながらコンパクトにまとめている。中国語的表現の培った簡潔性なのかな、と感心させられた。

◆李云瑛も、また違う資料から歴史をまとめたが、田中正造の国会での発言などを引用するなど、被害農民の運動に少し力点をおく。ついでに、もう少し田中正造の周辺をしらべてみようか。

*初回のレポートとしては、この3人ともまずまずの出来です。しかし、「インバネス物語」「舞ひ姫」などはあまり消化できなかったかな。あの日本語は難しすぎたかな──ごめんなさい。留学生諸君にぜひしてほしいことは、それぞれの国でも類似の激しい環境汚染が起こったという事例、あるいは起こりつつあるという事例をさがすことです。少し考えてみてください。

◆岡本恵一が、田中正造と荒畑寒村の政治戦略の違いに着眼したのは悪くない。「ジャーナリズム」「ルポルタージュ」「記録文学」を同一平面上の分類だと錯覚しているふしがあって、ちょっとかわいそうだが、以下の新たな問題意識はなかなかの難問に結びつく。

・・・そうなると、公正な報道という観点がわからなくなる。・・・この『谷中村滅亡史』は、田中正造や谷中村の人々を主人公として描いており、政府は悪人である。と、そういう観点で書いている。しかし、歴史を見てみると日露戦争があり、その準備のため工業化が大急ぎで進められなければならなかったことなどを考えると、いったい何が公正で、何が公正でないのかわからなくなる。・・・公正な視点というものは、政府側の言い分を書いた資料と、この『谷中村滅亡史』のような民衆の側にたった資料を、読者が数多く読み、自分で培っていくしかないのではないか。

一見能率の悪そうな、この生真面目さを笑ってはいけない。実際、古河市兵衛も思想をもった人間であったに違いないし、まったく馬鹿にはできない。そして戦争という国家的な現実の圧力を奇麗ごとで片づけることもできない。この問題に時間を割くことができる学生諸君がいれば、さらに突っこんだ勉強と議論をしたいところだ。とりあえずは、少なくとも、当時の主戦論と非戦論には目を通しておきたい。
感情と理性という二分法問題について、「人間は、理性だけで物を考えることはできない。・・・感情抜きで物を考えることは出来ないはずである。・・・感情は人間の行動原理である」という結論部分も悪くない。

◆鷲見幸子も、「一人の人間が他の人々に伝えたいという感情を抱いて情報発信していく・・・ことは否定されるべきものではない」と考える。後年の荒畑寒村自身が「無暗に悲憤慷慨の形容詞が多く」などとしているとしても、この『谷中村…』は報道の原点と見ることができると主張する。

◆大場明広は、また違った収拾策。足尾鉱毒問題を簡潔に紹介し、さらに荒畑寒村の人物描写のためのエピソードを紹介した──ここまでが長い──後で、『谷中村滅亡史』が我々に伝える教訓は、悪政に立ち向かう勇気をもてということか、あるいはダイオキシンなどの化学物質に対処せよという警告だろうかと問い、自分が得た教訓は「自分の信じた道を後悔のないよう精一杯歩み、そのなかで自分の哲学を探求すること」だと言う。そして、作者の主張か事実の報道かという二分法問題については、あっさりと次のように結論する。

・・・結局のところジャーナリズムとはなんなのだろうかという疑問はわからないままである。しかし、『谷中村滅亡史』にふれたことで、事実の報道と作者の主張は同居することができるものであり、対立的なものではないということが理解できた気がする。

◆大島昌行は、上の山3人とはちがう論法で、

・・・別にルポルタージュだからといって自分の意見を排除しろというわけではない。自分の考えをもち、それを礎としてこをあるがままの事実の報道へとつながるからである。しかし、十六章で「・・・あゝ、かく筆を執れる間にも、わか心は悲憤の炎ほに燃ゆ。・・・」と寒村が書いているように、『谷中村滅亡史』では寒村自身が感情に流されてしまっている部分が多く・・・。

・・・

しかし、田中正造とともに足尾鉱毒事件を世に訴える役割を果たし、日本の環境ジャーナリズムの基礎を作ったという点において、前記のマイナス面を差し引いたとしても有り余るほど、この『谷中村滅亡史』には価値があるように思える。

と、まとめている。 面白いのは、大島君の追記。

追記
『谷中村滅亡史』では足尾鉱毒事件について「鉱毒問題」と荒畑寒村は書いている。三省堂の辞林21によると、「事件」とは1.争い・犯罪・騒ぎなど、人々の関心をひく出来事。2.訴訟問題。と記されている。寒村は2の意味である、訴訟問題(鉱毒被害農民たちへの不当な裁判が行われていた)という言葉を使いたくなかったから、「鉱毒事件」とは書かずに「鉱毒問題」と書いたとも考えられるのではないだろうか。

「事件」と「問題」の使い分けについて、田村紀雄『田中正造をめぐる言論思想』(社会思想社 1998)が参考になる。少し引用し紹介しておこう。

田中正造は、明治三〇年頃まで「鉱毒ノ儀」「鉱毒ノ件」「鉱毒ノ事件」「鉱毒ノ問題」というように議会で発言している。斜木問題としての鉱毒問題として実際上とらえていたことは、これまでの演説内容の分析でも明らかである。 ・・・しだいに「鉱毒問題」という用語を使うことが多くなってきている。 それは、田中正造と、その周辺の農民、支援する知識人のはっきりした意識の変化の読みとれる明治三〇年前後である。 ・・・

「事件」と呼ぶにはあまりに深刻で深い根をもっていることを理解するようになったのである。たんに古河市兵衛対被害農民という図式での民事や刑事の「事件」ではなく、工業の優先と自然、国家権力対民衆、資本主義体制と民衆生活との対立、矛盾という根深い問題をもっていることがしだいに認識されてきた。・・・

◆西村一恵は、辞書的な定義によっても、『谷中村滅亡史』はジャーナリズムであることは間ちがいないが、あまりに著者の感情が前面にでているので、自分の考える「報道」とはズレがあると言う。しかし、「対象が何であれ、・・・自分の主義や主張がないと筋の通った批判というものができない。そういったことも含めて、ジャーナリズムにおいて事実と感情の使い分けは可能なものであろうかと考えてみる」と、問題意識を分節化する仕方(作業仮説の作り方)を導入部においている。一応の結論は、

 ・・・『谷中村滅亡史』は事実だけで書き綴られたものではない。荒畑寒村の政府・資本家を批判する彼自身の感情がしっかりと組み込まれているではないか。ジャーナリズムにおいて事実と感情の使い分けがなされることは不可能なこと、むしろ使い分ける必要性がないのではないかとさえ感じられる。

ここに至る議論は必ずしも作業仮説とぴったりと対応するようではなかったが、とりあえずはこう結論した。その後で、「・・・ かといって、感情のみが先行してしまうのもいかがなものかという気もしないわけではない。だからと言って、実際に感情をまじえずに事実のみを伝えるということか簡単に行えることではなさそうだし、なかなか難しいのではないかという気もしたりする」とつけくわえ、歯切れはよくない。そもそも二分法的な問題設定に問題があったのかもしれないというところに辿りつかないのは、ほかの多くの人たちと同じだが、むりやり言いきってしまわないところが、なかなかいいではないか。

◆姉崎晋悟は、どうやらいろいろ調べて、直接読んだかどうかは疑わしいが福地源一郎の名前などをだし、『谷中村滅亡史』はそれと対照的に住民を歴史の表舞台にだそうとするジャーナリズムだと言う。被害状況を数値を使って表すことのほとんどない『谷中村・・・』については、それゆえ具体的に伝わってくるものがないと言いながら、同時に、そういう我々の側が問題なのかもしれないという。この点は、もっと突っこんで考えていってほしい。いずれにしても、鉱毒による環境破壊を充分に描いているとはいえない点に、大いに不満があるようだ。大島君のところですでに触れた、田村紀雄『田中正造をめぐる言論思想』(社会評論社 1998)には、たとえば、

さて翌五月四日、青山の案内で勢多郡東村大旗山の山林を視察するが、これが大変である。
「大旗山ノ山林ニ姻毒ノ被害ヲ及スヲ見ル比ノ山ハ銅山ヲ離ル六里ノ山ニシテ、銅山ノ南方ニ位スル故ノ山ノ北西ヨリ頂上ハ皆樹木枯死ス、南面ハ青々トシテ雑草雑木ノ繁茂スルヲ見ル、・・・」
日誌はここで終わっていないが、精錬所の大煙突の北側・上方の山肌が一草もなく焼けただれたままであることはすでに知られているが、はるか下流の山中で「頂上ハ皆樹木枯死ス」とはいったいどういうことなのであろうか。室田も疑問を表明しているが不気味な新発見である。日誌はつづく。
・・・

というように、室田忠七という農民の日誌が紹介されている。室田忠七は川俣事件で逮捕された百人近い農民のなかにいた人だが、克明な運動記録を書き記していた人物の一人だ。田村紀雄さんはコミュニケーションを研究してきた社会学の人と紹介しておいたらいいと思うが、この室田日記の発掘者でもある。姉崎君が荒畑寒村の著作に不足を感じる生態学的な記述は、3回目の授業で紹介した広田源八郎「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」(東海林吉郎・布川了編『足尾鉱毒亡国の惨状』伝統と現代社 1977)や、この室田日誌などによって補うことができると思う。室田日誌については、とりあえず『季刊田中正造研究』第1号(伝統と現代社 1976年5月)などにあたってみるといい。
また、いわゆる客観的な数値データをもって鉱毒問題に向かいあった人物には、現代農業ジャーナリズムの草分け『農業雑誌』を発行した津田仙をはじめとする農学者たちがいる。さらに、川俣事件の裁判の過程で現地調査を行った横井時敬らの鑑定書もある。被害地の水稲、陸稲、桑などをサンプリングし、銅分の検出をしたものだ。姉崎君の検索技術をもってすれば、たどり着けるはず。
フィクション・ノンフィクションの分類問題についての姉崎君の結論:当時の社会主義者がおかれている状況を考えれば、体裁はどうあれ、あるいはカモフラージュしても、書き著したいこと、書かねばならないことがあったので、分類規定は意味をなさないように思う。これも、なかなかいい。

◆宮川真理子のつぎのような率直な感想は、悪くない。

「インバネス物語」「舞ひ姫」「座布團」「流れ木」、この4つの作品はどれも事実をもとに書かれている。だが『谷中村滅亡史』とはまったく違う作品だ。4つの作品を読み終えたとき、心にのこる印象が『谷中村…』とはまったく違う感情になった。『谷中村…』は・・・読み終えたときには「反政府」の思いでいっぱいになった。だが、この4つの作品では、そういった感情は生れてこなかった。

理屈をこねる前のこの味わい方を、まず書きとめたことはいい。その後、作者の思いに「訴えたい」(『谷中村…』)と「知ってほしい」(「インバネス…」など)の差があるようだという表現になっているが、「知ってほしい」はもうひと工夫いるように思う。差とは、緊急度の差、あるいは「しんみり度」の差かな。緊急度のほうは公衆にむかって、「しんみり度」のほうは一人ひとりにむかってかな。あるいは、政治的言論の次元と、人生を物語る次元ということかな。

◆田上奈緒は、自分に「昔の若者コンプレックス」があるという自省的な書だしからはじめている。一見不要に思えるこの書だしには、しばらく後にそれに響きあう次のような、意識論を呼びだす効果があるようで、なかなかいい。つまり、田上さんは、第一次産業的な人々こそ土地への愛着が強かっただろう、それにたいし工業家には直接土や水を慈しむ必要がないと述べ、谷中村滅亡史に農漁業的世界と工業的世界の対立を見る。「私は『舞ひ姫』が好きです」という終わり方も、なんだかいい。

◆溝脇恵里子も、『谷中村…』を書いた荒畑寒村が自分と一つしか違わない年齢であったことに驚き、

・・・ともかく漢字だらけで、高校時代古典のテストで最低点の2点を取った事のある(もちろん100点満点でだ・・・)純朴少女にとって現代語でない言葉はもはや日本語でないのだ。初めに寒村の文章を見たときにはソッコーであきらめようかと思ったものだ。しかし観念して読んでみるとこれがなかなか面白かった。文章がうまいのか、はたまた内容自体が面白いのか、それはさておいて、この人の言いたいこと、自分がどんな思いでこれを書いているのか、それが明確に伝わってくる。それはもう明瞭に、頭の上にある空が青色であるということと同じくらい明らかである。

と書く(楽しませてくれて、ありがとう)。つづけて、寒村の憤り、怒りが、よく感じられることを述べるのだが、しかし、それを感じとっているだけでいいのだろうかと疑いをもちはじめる。
その時代、その場所で生きたものにしか分からない苦しみ、怒り、憎しみ、辛さがどうしてもある。それを文字を媒体として表すのは思ったより困難なことだ。さらに私的な感傷に振りまわされ、正確な情報がかすんでしまうことがある。
この不安定な感じから、ジャーナリズムは完全にのがれることはできないのではないかと中尾は思います。だから、不安定なまま溝脇さんのレポートが終わっているのは、たいへんいいのです。「インバネス物語」や「舞ひ姫」を読んでから書いたレポートも、率直でなかなかいい。その導入部は、

・・・『谷中村滅亡史』ではあれほど政府、国に対しての感情、憎悪がにじみ出ていたのに、「舞ひ姫」では優しいまでの空気が流れている。「インバネス物語」については、『滅亡史』を書いた著者とは到底同一人物だとは思えないほど、文章のかもし出す雰囲気が違うのである。・・・『滅亡史』の印象が強すぎたのか、あの壮絶な感情しか思い浮かばない、感じることが出来ない。・・・もう感想文になろうと、レポートテーマにそぐわなくても知るもんか。自分の感じたことを書き出していきたい。

「インバネス」は警察をおちょくって楽しんでいる、「舞ひ姫」には、どこにも憎しみが感じられない、あるのはただ悲しみだけだ。そう、溝脇さんは書く。

◆蔵持志乃も、「インバネス物語」と『谷中村滅亡史』の対比をよくとらえているようだ。「どちらも寒村の人間味が出ているようにみえる」といい、しかし作者の生活に近い感じが出ていて「ユーモラス」なのは「インバネス」の方だという。これだけならば蔵持さんでなくても言えることかもしれないが、事実と感情という二分法的な物差しをもって読んだときに、読者として二分法を使って事実と感情とを分けにくいのは、「作者の正義感(感情)のいっぱいつまっている」『谷中村滅亡史』ではなく、4つの作品のほうだという判定は、蔵持さんならではで、たいへんいい。

◆中谷豪は、見かけによらず──おっと失礼!──たいへんな文章力の持ち主だということがわかった。レトリックが上手すぎて上滑りしそうなところが、ちょっと心配だが、この才能は隅におけない。『谷中村滅亡史』をめぐって書いた第一部も力作だが、ここでは第二部からちょっと紹介しておこう。

最初の印象は、「本当に同じ書き手なんだろうか?」ということだった。いや、むしろ、『谷中村滅亡史』を一気呵成に書き上げた荒畑寒村が、その他の作品を残しているとは思っていなかった。彼は、激情で『谷中村滅亡史』を書き上げたと感じていたからである。創作的な活動をする人間には思えなかったのだ。(なんだか舌足らずなのに、それらしく読めてしまうから不思議──中尾)
しかし、読んでみると、朧げながら、『谷中村滅亡史』とその他の作品に息づく荒畑寒村の思想が見えてきたような気がする。「舞ひ姫」にある「只だ世の妾とは同じき、弱きもののために泣きたまえ」という台詞。これこそ、寒村の言いたいことであり、彼の思想の具現化したものではないだろうか。「舞ひ姫」を著した7カ月後に出版した『谷中村滅亡史』で荒々しく描いたのは、資本主義の横暴と、それに蹂躪される農民たちであった。彼は、貧富の差を生む元凶を、資本主義にみていたのかもしれない。
どの作品も、運命や世間に翻弄される姿が描かれているように感じた。「流れ木」においては、それが最も顕著に表れていると思う。荒畑寒村自身も、自分が運命に翻弄されていると感じているのではないか、とすら思えるほどだ。
・・・

テレビのニュースでの感情の伝わり方と、新聞での、事実を伝える記事と意見を伝える記事との、観察的分析の部分も悪くはないが、省略。

◆三宅沙知は、『谷中村滅亡史』を読み、権力に挑み意見を「口にすることのできる人間になりたいという一種の憧れさえもってしまう」自分を感じながら、

しかし本のなかには感情的な表現が多すぎるようにも思う。陰険邪悪・悪虐・残忍・冷酷・正義…といった言葉が幾度となくでてくる。報道は、あくまでも客観的な事実を述べるものだと私は考えている。もちろん底にはレポーターの主観や意見は存在するが、判断やその事実から何を読み取るかということは読者に委ねられるべきであると思う。

と、なんだかアンビバレントだ。そのことは、さらに、最後におかれたの次の文章で確認される。

だがこの本で一番衝撃的な表現は、やはり最後の部分だろう。今でさえ言いがたいようなことを言ってみせた彼は凄い! と率直に思った。色々なことに疑問を感じ、考え、発言するという能力を養いたいと思う。

こういう三宅さんがすでに相当社会への関心、問題意識をもっていることは、「これを読んでまっさきに私の頭に浮かんだのは水俣事件のことである。政府は企業を擁護し、国の責任を否定しつづけた」と書くところから分かる。それにつづく三宅さんの作業仮説的な問題設定は、次のようなものだ。

谷中村ではどうだったのだろうか。銅山で働く住民はいなかったのであろうか。また、労働者との対立はなかったのだろうか。その辺のことが『谷中村滅亡史』には描かれていなかったように思う。
また、当時の世間の関心度合はどのようだったのかも気になる。今でこそテレビやインターネットが普及して、遠く離れていても瞬時に事件や世界の動きを知ることができ、問題をとらえることができるようになった。しかし当時は自分の“耳”と“目”と“足”で情報を得、問題を追いかけなければならなかったのだろう。・・・

もちろん、知識がないがゆえの問題設定だといえることだが、水俣や東海村のように汚染源の企業で働く人たちが地域に数多く住むという困難な状況を想像したことは、たいへんよい。また、被害農民と鉱山労働者の対立がなかったかどうか──連帯があったかどうか──を問うのも、重要な視点だ。手近にある資料から、かなりのことは解明される。ぜひ、調べてレポートしてほしい。
報道メディアの問題は、この授業の重要関心事。これも、勉強しておいてほしい。

◆長沢智行は、『谷中村滅亡史』の「古文」に歯が立たず、「半分程度しか、目を通せていない。しかし、他に足尾銅山について調べることもしたので、それらをふまえた時点で書くことにする」と正直だ。しかし、その調べにもちょっと時間がたりなかったようだ。したがって、次ぎのような想像と(三宅さんと同じような)問題設定だけに終わる。 たとえば、足尾銅山の労働者の中には現地付近の住民や、被害民も含まれてはいなかったのだろうか。企業側からしてみれば、近場の人間を雇えば、経済面でも有利ではないか。労働者として雇われている以上、鉱毒のことなどに反発しがたい状態ができ、鉱山事業がより進むことになる。
そうした場合、労働者及び、その労働賃金を生活の糧にしている者などの心境としては、複雑なものがあるように考えられないだろうか。
手近の資料からも、かなりのことが分かるはず。よーく調べてみてほしい。

◆石川明日香の関心は、上の2人のそれとは、また違う。

しかし、昔の考えや、私達が想像も出来ないほどの土地への執着心があったのだとしても、私には谷中村の人々が汚染された地域に住みつづけ他の土地に移ろうとしないのはなぜか、いまいち納得できない。その当時谷中村に住んでいた人々に話を聞いてみればわかるのだろうか。今の私ならいち早く汚染されてない地域に移り住むが、私も明治に生き谷中村の人々と同じ立場にいたなら政府に反発しつづけていたかもしれない。

これもまた重要な視点。その後で「…結局人間は自分達のことしか考えず、人間側から環境問題をとらえ、他の生物のことは一切無視している。・・地球には人間だけではなく多くの生物がいるのである。だからこそ人は生きていける。・・」という、ちょっと原理的な立場からの言及がある。そこで、中尾からの質問です。ひとつの土地と強く結びつかずに、危険があれば別の所へ移るべきだというのも、生き物である自分を守るために当然のことかもしれません。土地に結びついた生業をもたず、転勤が当たり前の給与生活者的な立場であれば、なおのこと実際の移住を想像することは難しくないでしょう。私──中尾──もそういう暮らし方をしている一人だと言えるでしょう。しかし、そういう社会のあり方──人間の生き方──は、石川さんのいう「自分たちのことしか考えず、人間側から環境問題をとらえ、他の生物のことは一切無視している」姿に当たってしまいませんか。
なかなか難しい問題だと思いますが、ぜひ追求してほしい。手がかりは、石川さんが言うように、谷中村をはじめ鉱毒地の人々の声にあります。いろいろ調べてみてください。あるいは、つい先日大学を訪ね報告会をしてくれた、チェルノブイリ事故の被災地ベラルーシのゴメリから来た人たちの話から考えることもできるでしょう。

京都精華大学とチェルノブイリ支援活動・九州の共催イベント、「原発事故から15年 チェルノブイリからの報告」ページが参考になります。

──この他にも取りあげるべきレポートがいくつもありましたが、今回はここまでにします。多くの人が、自分たちと違わない年齢だった荒畑寒村の仕事ぶりに触れて、刺激を受けたようです。それが、なによりの収穫だったかもしれません。(中尾ハジメ 2001年5月6日記)

授業日: 2001年5月8日(レポートは5月1日提出分);