巨大な原子力体制とのたたかい

巨大な原子力体制とのたたかい

最後に、さまざまな損害賠償の請求や、一号炉の再開にたいする住民の抵抗運動、そして住民グループによる独自の健康調査などの事故後の経過を紹介しておこう。

相次ぐ損害賠償請求

事故のもたらした影響はじつに広範囲にわたり、巨大科学技術のぜい弱性が、たんに工学上の問題だけでなく、すぐれて社会的・経済的なぜい弱性であることも明らかになりつつある。すでに、除染、廃炉処分、代替電力の購入などにかかる経費が三〇億ドルを超すと見積られている。これだけでも、建設にかかったコストの三倍になる。電力産業界、エネルギー省、ペンシルバニア州などが財政援助にのりだしている。ちなみに、日本の電力会社も一八〇〇万ドルを除染のための基金に拠出し、ひきかえに技術者を送りこみ、いわばかぶりつきで除染作業に参加する権利を得た。また電力会社は、事故原因の一端がNRCの過失にあるとして裁判に訴え、四〇億ドルの損害賠償を求めていたが、これは連邦控訴裁判所によって棄却されている。

一方、周辺地域の住民・企業の、事故による主として経済的損害の補償を電力会社に求めた大型代表訴訟は、一九八一年に二五〇〇万ドルで決着がつけられたが、その支払いはいまだに終っていないといわれる。ちなみに、訴訟を扱ったフィラデルフィアの弁護士事務所には、一九八二年末までに一三九万ドルの手数料がはいったという。また八五年五月、連邦地裁、州裁判所レベルには、経済的損害賠償を求める訴訟が二七件かかっていたとされている。

もちろん、身体的・精神的損害にたいする賠償請求の訴訟も多い。一九八五年二月には、ペンシルバニア州ドーフィン郡裁判所は、一九件について三九〇万ドルの示談を承認した。最高額は事故九カ月後に産まれたダウン症の男の子にたいする一〇九万五〇〇〇ドルである。金額の大きさにもかかわらず、電力会社は賠償責任を認めたのではなく、裁判で争う経費を計算したうえで示談に応じたのだという。

ドーフィン郡裁判所はこれに先だち一月にも、心身に損害を受けている可能性があると主張する二五家族四八名の子どもについて、一人につき一万ドルから四万二〇〇〇ドルの示談を承認している。未成年者と遺族が請求者となっているこれら以外にも、裁判所の承認を必要としない示談成立が二〇〇件を超えるといわれているが、正確な数は不明である。さらに、八五年の三月から六月にかけては、電力会社にたいし六五〇人以上の、身体・精神にたいする損害賠償請求訴訟があらたに起こされた。その後この訴訟に加わる人びとがさらにふえ、一九八八年の現時点では二七〇〇人を数える。

新聞などで報道されたこれらの数字は、けっして事態のすべてであるはずもないが、事故のもたらした社会的影響の広がりをかいまみることができるだろう。原子力発電にたいする世間一般の意識も変えずにはおかないだろうと思われるのだが、にもかかわらず、いわゆる原子力体制はその政策を大きく転換するようにはみえない。事故発生後九年たった現在、大統領特別調査委員会(ケメニー委員会)の指摘した原子力産業界全体のありようは、根本的に変わることもなく、混迷と危険は存続しつづけている。

一九八五年四月にだされたNRCの事故確率評価では、スリーマイル島事故よりさらに深刻な原子炉破損事故がこんご二〇年間に起こる確率を五分五分としている。また発電所外に被害をおよばしうる事故の確率はその一〇倍だという。それでもNRCは政策の変更を必要としないというのだから、驚きである。五分五分の大事故の可能性を許容するというのだ。

一号炉再開への動き

事故後、スリーマイル島周辺の住民が直面しなければならなかった深刻な問題は、除染作業を可能にするため必要だった大量のクリプトンガスの放出をはじめ、じつに対応の困難なものばかりが多く、ここにくわしくすべてを紹介することはできない。ごくごく単純化して、二つの問題にしぼることにしたい。その一つは、原子力発電所の設置や運転許可にかかわる前述のNRCの政策に直接かかわるものである。つまり、従来と変わることのない政策、あるいは手続きにしたがって、スリーマイル島一号炉が運転を再開されようとしていたことだ(事故があったのは二号炉)。

また、もう一つは、事故のさいに放出された放射能によって自分たちの身体に起きた異常、また将来起きるかもしれないガンなどの生命・健康上の問題に、どうたちむかうかということである。まず、一号炉運転再開阻止のための努力を中心に紹介していこう。

事故が、それまでは全体としては原発をむしろ許容しているかにみえた住民に、大きな衝撃を与えたことは疑う余地がない。科学技術と中央政府にたいする不信感がいっきょに顕在化したといってもいい。しかし、周辺住民が、あるいは発電所に隣接する自治体住民が一人残らず原発反対派になったと想像してはならない。すでに原発は社会的・経済的に地域をからめとりつつあったからである。電力会社に働くものをはじめ、さまざまなかたちで原発と利害をともにする人たちが多く存在する。人びとは日常にもどらねばならず、事故当時圧倒的だった絶対反対の声は、少なくとも表面上、小さくなっていかざるをえない。

一方で、原子力産業界は、総力をあげてまきかえしをはかる。たとえば、政府の公式発表などをバックに、放出された放射能量では実際の健康にたいする被害はありうるはずがなく、反対派の主張は非科学的な迷信だ、というキャンペーンがはられる。住民の側にたつ科学専門家の数は、政府産業界が動員する専門家のそれにくらべて、圧倒的に少数である。マスメディアのうえでは、反対派の声は徐々に少数派になっていくように思えた。

実際、事故から一年たち、二年たちすると、地域の反原発運動に集まる人びとの数は日にみえて減っていった。スリーマイル島地域の住民運動グループは、ハリスバーグ、ミドルタウン、ランカスター、ヨークにそれぞれ一グループと、それらを横につなぐかたちの「情報資料センター」(TMIPIRC)の五つということができる。これらは、少なくとも生き残って一号炉再開反対の活動をつづけているグループである。どのグループも、実際の活動をになっている人間はきわめて少数である。財力、人力ともに問題にならないほど巨大な原子力体制にたちむかうこの人たちの姿は、文字どおりの少数派として見えた。

心理的ストレスをめぐって

事故の翌年の一九八〇年一〇月には、はやくも一号炉再開についての公聴会がはじまる。電力会社にとって一号炉再開は、除染作業の資金を生み出すためにも、きわめて重要なステップだったのだ。

この再開の動きにたいして、各住民グループは連帯しながらも、それぞれ独自の戦術を展開し、また必要に応じて、そのつど目的別の運動組織がつくられた。ミドルタウンは発電所の北約五キロにある小さな町だ。事故当時、全国的なマスメディアの焦点になった町である。ミドルタウンの住民グループPANEの運動は、事故が住民にあたえた心理的ストレスに焦点をあてた。かれらは事故の恐怖、またその日常生活への具体的で深刻な影響を身をもって体験している。かれらは、一号炉が再開されれば、さらに重大な心理的ストレスが起こると主張し、公聴会での検討項目にこの間題を加えるよう求めた。NRCはこの要請を拒否し、PANEはワシントンDCの連邦地裁に訴えることになる。それをうけた連邦地裁は、一号炉運転再開に先だって、予想される心理的ストレスの評価を環境影響評価にくわえなければならないという判断を示したのである。

すでに、スリーマイル島事故は、その社会的・心理的被害について人為的災害史上もっとも研究されたものといわれるほど、多くの心理学的研究があり、主要なものはいずれも心理的ストレスの実在を示していたということもあった。

NRCと電力会社は上級裁判所に控訴し、議論は最高裁判所にまでもちこまれた。PANEの主張は、工場などの施設を計画、操業するさいに義務づけられている環境影響評価は、たんに物理的な影響のみならず住民の心の問題までも視野にいれなければならないという原理を含み、きわめて示唆にとんだものだった。が、一九八三年四月には、運転再開に先だち心理的ストレスを検討する必要なしという逆転判決がだされ、それまでの裁判所による運転再開差し止め命令も解除される。

一号炉再開で住民投票

新聞記事のコピーこの間、一九八一年一〇月にはスリーマイル島発電所運転員の資格試験をめぐる不正行為、一一月には一号炉蒸気発生器の大量腐食などが明るみにでて、産業側に不利な要素も少なくなかった。が、決定的に重大な影響力をもったできごとは、ハリスバーグの活動家を中心に組織されたリファレンダム(住民投票)を実施させる運動であり、その投票結果だったといってよい。

かれらは、一九八二年五月に行なわれる予備選挙のさいに、一号炉運転再開についての賛否を住民に問うことを求めて署名運動を展開したのである。この住民投票は、スリーマイル島周辺の三つの郡、ドーフィン郡、カンバーランド郡、レバノン郡で行なわれた。

投票前には、運転再開賛成の結果になるというのが大方の予想であり、住民運動グループ内部でも悲観論が強かったが、それどころか住民の圧倒的多数が運転再開反対であることが示されたのである。二対一の勝利だった。事故体験による意識の変化が、表面とはべつに、深いところで地域の住民に根づいていることの表明だったといえるだろう。安全性の神話はここでは崩壊していたのだ。

ペンシルバニア州も連邦政府もこの投票に法的拘束力を認めていなかったとはいえ、けっして無視することのできない政治的潜在力が、一見少数派にみえる反対運動の背後にあることが示されたのだ。この結果、地元ペンシルバニアの政界内部でも、スリーマイル島原発については再開反対への傾斜が強まったといっても過言ではない。

四カ月後の一九八二年九月には、NRCの五人の委員が地域の意見をきくための公聴会がハリスバーグで行なわれ、一二〇〇名にのぼる住民が会場に集まり、反対勢力の圧倒的強さが示される。NRCは再開か否かの決定を一二月に設定するが、この決定期限は以後くりかえし延期されることになる。

最終的にNRCが一号炉再開許可の決定をだしたのは一九八五年の五月、住民投票から三年後のことであった。

反対派のとったもう一つの戦術にもふれておかなければならない。非暴力直接行動である。これまで紹介してきた事故体験に根ざす世論を背景にして、抗議のメッセージは効果的であった。いってみれば、実行者は少数派だが、そのなかば儀式的な逮捕劇を見まもる観客の視線の多くは冷淡であるどころか、直接的な理解と共感の視線だった。

最高裁が心理的ストレスの検討は、一号炉再開に先だち必要ではないと決定した一カ月後、住民投票の一周年にあたる一九八三年五月一八日、一二人の男女が発電所入口にたち、横断幕をかかげるなどして逮捕された。ドーフィン郡裁判所は、この件の審理を上級裁判所にゆだねた。一年後の判決は、交通妨害で有罪というものだったが、陪審員一二名全員が被告の主張を理解し、スリーマイル島一号炉は再開すべきでないという声明を発表したのである。ダウリング判事の定めた罰金は全員一律十ドルであり、これは「(メキシコとの戦争に反対して非暴力直接行動を唱えた)ヘンリー・デイビッド・ソローが政府に払うことを拒否した人頭税の金額である」という説明までつけた。

住民投票二周年の一九八四年五月一八日には、ふたたび同様の非暴力直接行動があり、五一名が逮捕される。さらにNRCが再開許可決定をだした一九八五年五月二九日には、三〇〇名ちかい抗議者が発電所入口に集まり、未成年者六名を含む八二名が、同様に逮捕された。

一九八三年四月の最高裁決定から、八五年五月のNRCによる一号炉運転再開許可までのあいだには、これ以外にもとりあげるべきできごとが少なくない。反対派はさまざまな回路で、くりかえし、ねばり強く再開阻止を訴えてきたからである。そして、最終的にもみえたNRCの運転再開許可にも、ふたたびストップをかけた。

NRCは五月二九日の決定によって、六月一一日からの運転を許し、電力会社は、六月七日早朝には原子炉以外のシステムを動かしはじめ、再開は秒読み段階にはいっていた。そこに、フィラデルフィアの連邦控訴裁判所の一時差し止め命令がだされ、この秒読みは凍結されたのである。

差し止め申請は、ハリスバーグの住民グループTMIアラート、ペンシルバニア州知事、憂慮する科学者同盟UCS、NRC公聴会での発言権を得たアーモット夫妻からだされていた。裁判所が再開許可の妥当性について判断を下すまで、再開は差し止められることになったのである。少なくともNRCの再決定にまでさらに数カ月は必要と思われていた。

しかし、一九八五年八月二七日、フィラデルフィア連邦控訴裁判所は、一号炉についての運転再開差し止め申請を却下し、反対派の上告にもかかわらず一〇月二日、連邦最高裁は、運転再開をこれ以上遅らせるのは妥当でないとの決定を下し、三日から一部運転が再開された。

多難な住民の前途

住民がたちむかわねばならない、もう一つは、すなわち生命・健康の問題である。事故当時、異常な霞におおわれたり、金属性の味を体験したりした人も広範囲にわたって存在し、かなり強い日焼けに似た症状や、のどの痛み、吐き気、下痢などさまざまな症状が報告されている。また、事故の三年ほどまえから周辺の農場の動物に発育不全、死亡事例などがめだちはじめていたことなども重なり、将来にわたって発生するかもしれない、ガンをはじめとする健康被害についての不安はきわめて大きい。

しかしながら、この間題にとりくもうとする住民は、じつにさまざまな困難に直面しなければならなかった。困難の一端は、くりかえすようだが、被害をうけうる人間を視野に入れない科学技術の独り歩きにある。科学技術信仰は、この致命的欠落を貧弱きわまりない環境モニタリングなどによってごまかしてきた。あるいは、放射線管理、保健物理学などと呼ばれる、原子力産業に従属的・補完的な専門分野を盾にしてきたといえる。

五感では感知しにくいといわれる放射線をめぐることでもあり、複雑な計器類を扱える専門家集団を原子力産業側に独占されたかたちの住民は、いわば無防備で放射能の大量放出にさらされていたのである。

事故当時の異常な体験からすれば、住民にたいする被害はないとする政府発表は納得しがたいが、自分たちのあびた放射線量がどれほどであったか、知るすべはないように思われたのである。計器の数字、コンピュータの数字が公式の事実であり、人間の体験は非公式ということになってしまいかねない世界である。事実、具体的被害の訴えに耳を貸そうとした科学者は、反原発の陣営のなかにもほとんど存在しなかった。だれもが、「たしかな数字」ばかりを求めていたのだろう。きめのこまかい、そして広範囲にわたる疫学的調査の存在しない状況では、住民は「たしかな数字」など示すことはできなかったのだ。

ペンシルバニア州政府は、事故後三カ月の時点で、二〇年間にわたる追跡調査のための基礎となる住民の健康調査を行なったが、そのさいにも直接的被害の訴えは無視された。放出された放射能からは起こりえないことだというのである。そのご、憂慮する住民らは白血病の疫学調査などをくりかえし要求するが、政府にそれに応ずる様子はみられない。

一九八四年夏には、ジェーン・リーらの住民が前述のアーモット夫人らの協力を得て、自力で、いくつかの集落について調査をはじめる。アーモット調査と呼ばれる報告は完全なものとはいえないが、スリーマイル島西岸の三つの集落について、ガン死亡例発生率が通常の六、七倍であることを示している。

住民グループはこの結果をNRCに提出し、調査の必要性を訴えたが、しりぞけられる。しかし、大型代表訴訟(一九八一年)による二五〇〇万ドルのうち五〇〇万ドルによってつくられた公衆衛生基金が徹底的疫学調査を提起し、一九八五年春には、コロンビア大学の研究者による調査に資金援助をすることを決定した。こうして現在は、ようやく多少なりとも住民に目を向けた調査がはじまったのだが、もちろん楽観することはできない。調査の結果はまもなく発表されるといわれてから、すでに一年以上を経過しているが、まだ発表はない。

ごくごく粗雑なモデル計算で、住民に割りあてられた被曝線量率と発ガン率の相関を見ようとするこの調査の基本構想にも無理があるように思える。モデル計算にインプットされた風向、風速などは、おそらくスリーマイル島の気象塔のデータのみであり、それも一時間ごとのものにすぎないだろう。刻々動きを変える現実の空気の流れも、微妙でかつ極めて重大な意味をもつであろう個々の局地的な気流などはとてもとらえられないのではなかろうか。住民との個別面談は、客観性のじゃまになるという理由で、最初から排除されている。この基本的な前提に疑いをもつ研究者がコロンビア大学の疫学調査班にいないとすれば、「事故とガンの発症には科学的因果関係はない」という結論に短絡することも充分ありうるだろう。

あるいは、州保健省のトクハタ氏らが当初から主張しているように、住民の訴える様ざまな身体の異常は精神的ストレスによるものという説が、ふたたび表にでてくるかもしれない。なにしろ放出された放射能は問題にならないほどわずかだという大前提が、つきくずされたとはいえない現状だからである。

*“巨大な原子力体制とのたたかい”の項は、日本評論社刊、経済評論増刊号 ’85 市民のエネルギー白書『市民の原発白書』に掲載の「スリーマイル島事故は過去のものか」の大部分に加筆し再録した。

新聞記事のコピー

本についていた帯の文章

──少し前に、私は、ふつうの母親や父親が、原子力に関する“専門家”になる必要はないと気がつきました。本当に必要なのは「人間として持たなければならない、あたりまえの常識」だけであり、まさしくそれは原子力を推進している人たちに欠けていることです。

現地の主婦メアリー

──奥付

発行日
中尾ハジメ『放射能の流れた町』1988年11月15日 初版第一刷発行
編者
弘中奈都子、小椋美恵子
発行者
森芙美子
発行所
株式会社 阿吽社
印刷
中村印刷(株)
製本
吉田三誠堂
定価
1,200円
ISBN
0030-112004-0256