第8回・資料 最後の熱帯雨林・序文

熱帯雨林は、地球上のどの場所よりも多くの種類の動植物で満たされ、それらが複雑にからみ合った、湿潤な環境であることはよく知られている。そこはつねに驚きに満ちあふれており、この35年以上の期間私を何度も呼び戻してきた。

そうした脅威は必ずしも簡単に見つけれられるわけではない。最初、どの雨林も聞いていたほど豊富に動物がいるようには見えない。地上にはまったくいないようにさえ見える。はるか頭上45メートルの林間に鳥の声を聞くかもしれない。そして時には周り中が、大小さまざまの何かのさえずりや鳴声でいっぱいになるが、声の主は見あたらない。目が森になじんでくると、頭上の枝に止まってじっとあなたを観察しているキヌバネドリなどの鳥を見つけられるかもしれない。姿を枯葉そっくりにしてその下でとぐろを巻いている毒蛇は、踏んではじめて気づくかもしれない。

樹木を見分けるのは、大変難しい。枝のない円筒状の幹がもつれあうツルをてっぺんからぶらさげ巨大なマストのように何本もそびえているだけだ。樹種を見分けるのは、華やかで魅惑的な花を識別することだと思う人が多かろうが、とてもそんなことではなく、樹皮の細い特徴を調べることだと気づかざるをえない。東南アジアの森林で仕事をした初期のある植物学者は、これを我慢できず、サルを調教して樹冠に登らせ花の枝を折って投げさせることを試みたほどだ。

しかし、やがて一様に見える景色に慣れれば、目は細部までいきわたり、特異なものに気づきはじめる。そこから驚異の世界が広がる。コスタリカの森の野生バナナの幅広い折れた葉には、時々主脈の両側に小さな穴の列が見つかる。それを持ち上げてみたまえ、その下にゴルフボール大のまっ白な一列の毛玉を発見するだろう。それは非定住性コウモリで、彼らは、葉の両側の側脈を噛んで両側に垂らせて雨よけ用のテントをつくり、臨時のすみかとするのだ。ニューギニアでは、夜明けの金切り声の合唱があなたの目を高木へ誘う。その高方の枝には、金の長羽を噴水のように立て広げてふるわせているコフウチョウが幾羽もいる。アフリカの山林地ではおそらく忘れることのできない経験をするだろう。野生セロリやトゲのある2メートルもの巨大なイラクサ類の繁みの折れた茎や葉の跡を追っていけば、われわれにもっとも近い動物である、ゴリラの群れに出会うかもしれない。彼らは、わしづかみにした葉を食べながら地面に横たわっている。好奇心に満ち元気いっぱいのいたずらな子供ゴリラ、寛大でやさしい母親ゴリラがおり、1頭の銀色の背を持つ巨大なオスが全体を見守っている。

このような驚異のいくつかは独力で見つけられるが、現地の住民に案内を頼むとより多くを見ることができるだろう。そのときは、自分は熟練した旅行者であるとか鋭い観察眼を持っているだといった、これまでの経験で築いたプライドを粉々にされるといったことも、必要経費だと思っておいたほうがよい。現地の人々はあなたよりはるかに効果的に森林を動き回る。

彼らは、決して転ばないし、疲れる様子も見せず、あなたが気づくはるか前に物事を察知する。彼らには明らかに見える動物たちも教えてもらわなければ自分には見えないことを、彼らに分かってもらわなければならない。何よりもすばらしいことは、彼らは決して道に迷わないということである。森林とその生物に関する彼らの知識は、幅広く詳細である。彼らの植物の分類方法は、ヨーロッパの分類法とは異なる基準に基づくが、彼らの植物利用の知識は何世代もの経験によるすぐれたもので、調査を始めたばかりの外国の学者の研究を、今なおはるかに上回っている。

しかしさらに他の長所をこれに加えて、このような森林の人々がすべて、自然との完全な調和の中で暮らす自然保護者の原型であるといってしまうと、現実離れしすぎて、間違ってさえいる。彼らは資源保護の基本原理を無視して、欲するものを森林からとることもよくある。1個の果実のために木全体を刈ったり、羽の髪飾りというちょっとした楽しみのために鳥を殺すこともある。森林がそのような振るまいによって荒廃しないのは、単に彼らの数がきわめて少なく、行動範囲が非常に広いからである。

熱帯雨林にわけ入ったよそ者たちは、居心地の悪いひどい場所だと思う。定期的な豪雨は、見にたいしたものをまとわずほとんど所持品のない人にとってはさほどやっかいではない。しかし、やわい肌に服をまとったよそ者にはずぶぬれはこたえるし、カメラのレンズにはカビがはえムシは本を食べるといった、たまらない状態におちいる。土地に根づいた知識をもちあわせていないから、よそ者は食べ物を見つけることさえ大変苦労する。瑞々しく見える葉にトゲがあったり毒があったりする。果物はとても手の届かない高い所にある。動物は用心深く、捕まえるのはまず無理だ。この異質の世界にきた移住者は、苦労して開拓した後でその土地が期待していたほど豊かでないことを知る。それどころか、その土地は、1期か2期の収穫後ほとんど不毛の地になってしまうほどやせているのだ。森を横切ろうとする兵士や商人は、何度も泥沼にはまり込み、群がる虫に悩まされ、曲がりくねっているため同じ川を何度も何度も渡らなければならない。何世紀もの間、よそ者の熱帯雨林に対する反応は、概してそれを避けるか破壊するかのどちらかであったことも納得できる。もしその土地を何かに利用できると誰かが考えるとすれば、巨大な樹木のいくつかは利益があがるために売られ、残りの植生は豊富な植物とともに何の懸念もなく破壊されてしまう、そういう対象だったのである。

最近までは、こういった傾向が雨林に与える影響はわずかなものであった。樹木を伐るという労働は大変で、また土地の需要も比較的小さかったからである。しかしこの半世紀の間に2つの決定的な変化が起こった。突如として人口が急激に増加しはじめたこと、大変強力な機械が開発されてブルドーザーが森林をなぎ倒し地面をならし、樹齢100年の木も10分で伐り倒すことができるようになったことである。こうして破壊が恐ろしく加速された。10年ほど前に、もしこのペースで破壊が続けば、熱帯雨林は近い将来完全に消えてしまうことに世界は突然気がついた。このような状況になってやっと、我々は森林のもつ価値や、森林が地球全体の生態系の健全さにとって決定的重要性をもつことに気づきはじめたのである。

このさし迫った破壊に対する警告は、熱帯雨林から遠く離れたところに住む人々によって特に声高に発せられた。雨林をかかえる国では、森林周辺に住む小農は土地不足に苦しみ、政治家は木材を早く売ることで緊急の経済問題を緩和しようともがいている。これらの人々にとっては、自分たちの森林は消滅させたうえでうえで産業革命を行ってきた遠くに住む人々からの説教や嘆願は、暴力とも受け取れるものである。ブラジル人、マレーシア人、西アフリカ人、パプアニューギニア人は、豊かな国々がその領土内にあるわずかな雨林をどのように扱うのかを目をこらして見つめていくにちがいない。オーストラリア人のクィーンズランドの森林の扱いは、先進工業国の誠意ある政策の表れとみなされるかもしれない。

関心が世界中に広がるにつれ、真実とともに誤った噂が伝わりはじめたが、すべての開発方法が熱帯雨林に決定的なダメージを与えるということはなく、木材伐採は必ずしも破壊的なのではない。世界の森林が二酸化炭素の固定と酸素の供給に中心的役割を果たしているのは間違いないが、熱帯雨林だけが地球の肺というわけではない。熱帯雨林が農業地や農園に変われば、重要な全酸素循環に重大な影響を及ぼすというのは疑わしい。何千はいうまでもなく、何百という雨林の動植物が人間の行為によって絶滅したという明確な証拠は、まだ得られていない。雨林破壊の危機はもっと現実のもので、具体的な解決策が、今すぐに必要なのである。誇張や思い込みがはばをきかせる余地はない。事実それ自体が、まさに警鐘なのである。

熱帯雨林はまさに深刻な危機に直面している。しかし、熱帯雨林の消滅が必然というわけではない。熱帯雨林の保護計画は、注意深く収集された事実に基づいたものでなければならない。我々は、生態学、社会学、地理学的なそして経済学的な知識を総動員して、次のような人々の要求を調和させた計画を作成しなければならない。その所有権が優先されるべき森林に住む人々、森林周辺部の企業家や政治家、そして熱帯雨林が世界の最大の財産の1つであり世界の繁栄と健全さにとってなくてはならないものであることを認識している世界中の人々である。

はじめて世界の森林の過去と現在の分布を正確に示したこのアトラスは、まさにそのような方向へ向かう決定的な第一歩である。

ディビッド・アッテンボロー

『最後の熱帯雨林』(同朋舎出版1993) マーク・コリンズ 編集

授業日: 2001年6月5日;