第9回 ジャーナリズムとプロパガンダ

中尾ハジメがテレビに出て訴えかけたらそれは「間接的訴え」?
中尾ハジメ:みなさーん
宣伝とは相手を説得するものである。宗教宣伝では、異教徒や異端者に対する折伏(しゃくぶく)があり、政治宣伝としては、戦争協力のための説得、また階級間の対立・競争に対して行われるイデオロギー宣伝がそれである。説得が教育と異なるのは次の点にある教育の場にあっては、論争のすべての側面を提示し、当面の問題の価値判断に関しては受け手に結論がゆだねられるのに対し、説得は、相手の抵抗を予想しながらも、一方的に受け手をある方向に導いていく点である。

島守光雄「宣伝 propaganda」の項より (『大日本百科事典』平凡社1993)


新聞はただ一方的に情報をたれ流しているだけという受けとり方が多くの人たちのなかにある。それがジャーナリズムの代表であれば、なるほどジャーナリズムは一方的なものでしかない。しかし、「環境ジャーナリズムの可能性」というこの授業が追求しようとするジャーナリズムとは、消費主義社会における商品の宣伝や大衆社会における政治家宣伝と同じところにあるのだろうか。


■「間──あいだ ──」にあるジャーナリズム?

中尾ハジメ:斎藤さんにとってはどうやら、よくわからないままに授業が進行しているという感じだと思うんですが、どうですか? そんなことない? 「ジャーナリズム」って、斎藤さんだったら、どう定義するの?

斎藤里江子:間を介して、発表するもの。直接じゃなくて、間をおいて発表するもの。受け取る人との間にあるもの。

中尾ハジメ:直接に発表するっていうのはね、たとえばどういうのを指すの?

斎藤里江子:いま、わたしが思って言っていることは直接言っていることで、それを誰かが聞いて、書き取って言ったら、それは直接じゃない。

中尾ハジメ:テレビを介していったら、それは・・・

斎藤里江子:そのテレビの人が、そのまま言ってたら、直接だけど、テレビで、「こういうことがありました」っていったら、それは直接じゃない。

中尾ハジメ:ほんと? みなさん電話をするときに、あれは、直接じゃない? たとえば、ぼくがテレビにでて、「みなさ〜ん!」とかなんとか言ったら、それは直接じゃない?

斎藤里江子:それは、直接。

中尾ハジメ:直接? え〜、斎藤さんが言う「直接」か「間接」かっていう問題ですけどね、「伝える」ということの問題だね。たぶん、直接的な伝え方と、間接的な伝え方があるよってことだね。それで、斎藤さんは、ジャーナリズムってのは「間接」の側にあるよ、って言ったんだね。

斎藤里江子:どちらかといえば。

中尾ハジメ:ジャーナリズムが「間接であるか、直接であるか」、その問題はおいておきます。そのまえに、「直接・間接」とはなんなのかを考えなければならない。ですが、「間接的」っていうのは、斎藤さんが言うには、「メディア」の問題ではないようですね。そうだよね。「メディア」っていう言葉は、分かりやすくいうと、印刷物か、電話か、テレビ、あるいは電子的メディアなんて言いますね。空気の振動、これはどうなの? いいのね。メディアとは考えない?

斎藤里江子:

中尾ハジメ:まあ、メディアの問題ではない。メディアが何かのものであったら、間接になるっていう訳じゃない、ってことだね。そうすると、メディアの問題ではなく、人が言ったことを、人が聞き取って、それを文字にして出したりすることが、「間接」だって言ったんでしょ? あるいは、「中尾ハジメがこう言った」ってことをアナウンサーが言ったら、それは「間接」だって言ったんでしょ? それでいい? 本当にそれでいい? つまり、仮にこういう言葉を使いますが、「伝聞」ですね。斎藤さんの言いたかったことを仮に「伝聞の問題」と言い換えられますね。じゃあ、アナウンサー自身が言いたかったことを言ってるって考えたら、どうなるの? で、この問題はおいておく! しかし、こうやって考えていくよりほかはないよね。じゃあ、清水さん。

■倫理水準

清水千絵:はい。

中尾ハジメ:完全でなくてもいいけど、清水さんは、「ジャーナリズム」をどう表現しますか? こういう特徴を持っているだとか、そういうのでいいです。

清水千絵:ジャーナリストってことについてだったら、ちょっと言えます。

中尾ハジメ:言ってみて。

清水千絵:ジャーナリストは、倫理水準の高い人が、つくべき職業だとあたしは考えています。

中尾ハジメ:それでいい? じゃあ、倫理水準が低い人がやっていい職業って何?(笑い)

清水千絵:・・・。考えたことがないけど・・・、

中尾ハジメ:(笑い)では、倫理っていうのは、何? いや、ものすごい重要な問題だよ。これが、ジャーナリズムの問題ではないと僕は言いません。言わないけれども、取りたてて、ジャーナリストは倫理水準が高くなくてはならない、って言うのは、なぜですか?

清水千絵:ジャーナリストは、各々が持ち合わせていることを、一般大衆に伝えるということが仕事で、世の中の人たちは、自分の身の回りで起こっていることに対して、間違った捉え方をするべきではない──このへん抽象的になってしまうんですけど──だから、間違ったことを、みんなは知ってはいけないんですよ。

中尾ハジメ:あんまり深入りしない方がいいよ(笑い)。正しいってのは、じゃあ、誰が決めるの?

清水千絵:(笑い)えっと、そこが味噌なんですけど、「正しい・正しくない」ってのは、それは、各自が判断するんです。

中尾ハジメ:ええ〜。えっと、各自ってのは「一般大衆」のことかい?

清水千絵:はい。・・・、(しばらくなにかを考えた後、何か気がついた様子で)あっ!

中尾ハジメ:まあ、これもおいておきましょう。しばらく考えましょう。しかし、ひとつ何かでたね。「倫理水準」という問題がでた。本当に一般論として言えば、「倫理水準」が低くていい人間ってのはどういう人間でしょう。もうひとつの問題は「一般大衆」という言葉ですね。ぼくたちは「一般大衆」という言葉から、はずれる種類の人たちがいるという感覚を持っています。だけど、「誰が正しいのか」っていうようなことを言うと、あるいは「倫理水準が高いとは」とか言うと、とたんに我々は、一般大衆のそれぞれが決めるかのような言い方をしてしまいますね。だよね。

これは簡単に解決のできない問題です。どうして簡単に解決できないのか? 考え方がそもそも悪いのだろうか。もともとそういうふうに考えることが間違っているんだろうか? どうもそういうふうには言ってはいけないような気がします。難しいね。さっきの斎藤さんの問題と同じで、この問題も、問題なのですが、保留しておきましょう。じゃあ、次、高橋栄策さん。ジャーナリズムってのは、こういう風に言える、ってのを言ってくれますか?

■人間のすべての活動がジャーナリズム?

高橋栄策:ジャーナリズムとは、最初は、マスコミとかそういう狭い認識で考えてたんですが、授業を聞いているうちに思ったのは、人間がほかの人に伝えたいと、そういうことも含めてジャーナリズムなんだな、と。もっと広い、マスメディアとかもそうだし、伝える手段っていうことをふくめて、「他者に伝える」ってことが、ジャーナリズムなんじゃないかな、っていうふうに・・・

中尾ハジメ:はい。それは戸坂潤の影響ですか?

高橋栄策:くくりきれないなあという感じが広がってきて・・・。

中尾ハジメ:それは、中尾ハジメが悪いんかな?(笑い)はい。えっと、高橋さんの言ったことはまったくそういう感じがありまして、むつかしいんですが、人に伝えるってことは、結局、何か形として捉えられることがありますね。さっきの斎藤さんの分類じゃないけど、たとえば直接伝えるってのがあるよね。僕がしゃべってるのは、「直接」だって言えるでしょ。でも、僕は一人一人と向き合ってしゃべるしゃべり方とは、明らかに違うしゃべり方ですよ。それでも、直接って言えちゃうでしょ。そういうときに、何人に向かってしゃべっているのかっていうことを基準に使うとね、たちまち・・・「荒畑寒村の『谷中村滅亡史』はジャーナリズムであった」って言うとするじゃない。でも、発売と同時に発禁の目に遭いました。するとね、何人の人にそれが読まれたかってことはね、発禁処分がなかった場合とはやっぱり違いますね。それから、どんどんあたらしいメディアが作られてきたら、誰かが言うとおり、昔のジャーナリズムと今のジャーナリズムってのは、違うってことになりますね。そういうこと言ってると、斎藤さんみたいに、「間接」っていったいなんだろう、というむつかしい問題に行き当たっちゃうよね。だけども、高橋さんが思うにはね──これは高橋さんの強みだと思うんだけど──「もうかまわない」と(笑い)。

よく言うよね、「コミュニケーション」。こ〜れもアヤシイ言葉だよ、よく使われるんだけどね。「人と人とが、何かをやりあうこと」、これは、すべてジャーナリズムだと言ってかまわない! っていうことになっちゃうんだけど、その瞬間にね「じゃあ、何でわざわざジャーナリズムなんて言葉があるんだ」という問題に戻ってきますね。戻ってきたらいかんということじゃないけど、それもなかなか・・・ある種循環的な捉え方になって困る、と高橋さんは思った、と(笑い)。まあ、そういうふうに僕は受け取りました。固定的に捉えられないようなもの。ジャーナリズムってのはそういうもんだと。しかし、固定的には捉えられないものだとしても、その瞬間、瞬間に、「ああ、これはジャーナリズムだ」っていうふうに見ようと思えば、見えるかもしれない。ということかな?

高橋栄策:このあいだ、今森光彦さんというカメラマンの講演をきいたんですが、お話を聞いてて、「ああ、今森さんもジャーナリズムなんだな」と思ったんですけど、いまの中尾さんのお話を聞いてると、どうも僕は勘違いしてるんですかね?

中尾ハジメ:いや、違うなんて誰も言ってないよ。違うというふうに言うてるんじゃないんですが・・・、今の高橋さんの感じだと、やはり中尾の話し方に幻惑されて、固定的に捉えなければならないのかなと不安になっているようですが、先ほどについて言うと、なんかどうも固定的には捉えられないというようなこと高橋さんは言ったんだと思います。固定的には捉えられないけど、ジャーナリズムという言葉を使って表現したいものはあるってことですよね。しかし、「伝えたいこと」なんて言っちゃうと、たとえば僕たちが電話で話しているのも、「ジャーナリズム」になっちゃうしな、って感じだと思うんですが(笑い)。これについてもちょっと考えましょう。いろいろ悩まなければならないものだろうと思います。

■ジャーナリズムとプロパガンダ──事典類によると?

中尾ハジメ:さて、いわゆる標準的な定義といいましょうか。ジャーナリズムっていうのはこうだよっていう、標準的な説明を百科事典から提示します。当然みなさんは、僕がこんなことするまでもなく、百科事典を見たり、社会学事典、あるいはジャーナリズム事典なんかを見たりしてることとは思いますが・・・、もうちょっと正直に言いますと、決して見てないだろうとも思うんですが(笑い)、これは『新訂版 現代政治学事典』(1998)というものから引っ張ってきました。ブレーン出版ってとこが出してます。まず、「なんで政治学なの?」と思う人もいるかもね・・・、いない? じゃあ、「なるほど。政治学辞典か!」と思った人はいない?(学生無反応)う〜ん、何とも思わなかったひと手をあげてくれる? こまったね(笑い)。ちょっと、目を通してくれますか。

しかし、これは誰かが書いたんですが、なんていう人が書いてる? いちばん最後にこの項目を書いた人の名前も載っていますね。もちろんこの人がどういう人であるのか興味を持った人は、調べることも可能です。今度の資料は、同じ『政治学事典』の、「報道」という項目と「政治宣伝」という項目です。で、読んでるとですね、「報道」という項目を書いている人と、「ジャーナリズム」という項目を書いている人は違う人です。同じ人が書いていたらどうなるだろうか? ということも考えてみると面白いですね。それから、言葉にはいろんな意味があるというようなことを言ったのは誰でしたっけ? 人によって、その言葉をどういうふうに使っているかということはずいぶん違います。ずいぶん違うけれども、まるっきり違ってたら、話が通じなくなりますね。

さて、次の資料は『世界大百科事典』(平凡社)の「政治宣伝」の項目です。さきほどの『新訂版 現代政治学事典』の「政治宣伝」の項目と比べていただきたいと思います。「プロパガンダ」とありますね。さっき何人かの人が使った言葉に「伝える」という言葉がありましたね。「宣伝」っていう言葉の意味、もっと言うと「宣」っていうのはどういう意味でしょうね? ほかにもいろんな言葉がありますが、「ジャーナリズム」っていうのはなかなか日本語にできにくいみたいだね。荒畑寒村の時代には、どういうふうに表現していたんでしょう? 気が付いた人いる? ジャーナリズムという言葉は実際によく使っているし、それぞれの人が、実際こう使うもんだろうといって使ってきました。大学の授業では、科目名称にさえなっていますね(笑い)。

さて、それにしても、昔の日本の人たちはなんて言ってたんでしょう? 次の資料は『日本大百科事典』(小学館)です。事典の中味を書く人はたいへんですね。みなさんも間もなくそういうことしなければならなくなるね。「環境ジャーナリズムの説明を1,200字で書け」とかね(笑い)。いろんな仕事があります。事典を書くってのは現実なんだよね。ジャーナリズムも現実だっていうふうに考えなくちゃいけないんですが、これも一筋縄ではいかないですね。なかなか「ジャーナリズム」が捉えられないという理由か、あるいは中尾ハジメの話し方が悪いという理由か分かりませんが、みなさんはわからないまま授業が進行するのが、ものすごく不安かもしれません。でもね、今まで分かったつもりでいたことが、実はそんなに簡単なことではないんだ、と思ったり、あるいはそれまで複雑だと思っていたことが、あ、簡単だってことがわかったりするっていうのは、「進行している」ってことだよ。授業は進んでいるんです。しかもですね、ここがとても難しいんですけど、一人一人が違うことを考えて当たり前です。ただし──ここから、また難しいんだけどね──たがいに関係なく、一人一人が違うことを考えたら、たぶん授業は成立しません。矛盾に聞こえるかもしれませんが、まったく同じことを考えられるはずがない。「ジャーナリズム」という言葉ひとつとっても、多様性があるんです。一人一人が違う捉え方をしていたはずです。で、あるところは重なっていたと感じることあるだろうけど、同じだと考えていたことも、よくよく考え直してみると、重なっているように見えていただけ、ということもしばしばあります。あるいは、自分が考えていたことが、首尾一貫しているというふうに思ったとしても、こういう機会によくよく考えてみたら、全然首尾一貫していない、ということも大いにあると思います。それでいいんです(笑い)。

と、いう意味で言うと、今まで「考える」ということはこういう意味だと思っていたということが、壊されちゃうかもしれません。でもそれは仕方がない。よく言われることですけどね、正解がない、というようなことです。みなさんはただ聞いているだけだと、「ああそうか、正解はないのか」なんて安心するかもしれないけど、でも、自分なりの答えを持たないとやってけないんです(笑い)。それゆえ、みなさんはちょっと苦しんで、不安定だったりするだと思います。「正解はない」って言葉が、心地よくきこえているとしたら、その言葉はあまり意味を持っていないですね。「正解はない」っていうのは、決して心地のいいことじゃないです。多分みなさんは、大学に入ったら、「よし、勉強するぞ」と思ったことでしょう。で、その勉強というのには、正解はないんです。しかしみなさんは、自分が納得する答えを探さなきゃならないし、作らなきゃいけません。しかも、他の人たちも納得するような答えを作らなければならない。それは簡単にはできません。できるわけがありません。

たとえば、今、僕たちは字数制限であるというようなことをしなければならないし、その範囲の中で、「環境ジャーナリズムとは何か言え!」というような問題に答えなければならないんですね。斎藤さんはどう思う、とか、高橋さんはどう思うなんて聞かれちゃうんですね。しかし、そういうことに答えるときの自分の論点がどういうものであるかっていうことは、必ずね、人に聞かれた段階で、あるいは、人に聞かれるって事を想定した段階で、ちょっと待てよ、本当かいな、と考えざるを得ないです。このプロセスが大事なんです。で、今までそんなことはしたことはないかもしれないけれど、そういうことをするのが、一般的に言って、大学でやる授業の目的です。もちろん、たくさんのことを知らなければならない。それは、「こういうことを覚えなさい」ってことがあります。たとえば法律の学者になったり、弁護士になったり裁判官になったりっていうことであれば、それこそ法律の条文を覚えるしかないですね。あるいは、法律の条文がどういう構造になっているかってことをそのまま覚えるしか仕方がないですね。で、環境社会学科の授業の中にも、そういうふうにして、覚えるしかないっていう授業もたくさんあります。

ジャーナリズムってことが、仮に斎藤さんの言うように「何かを伝えること」だとして、「何か」にあたるところが、「環境問題」であるとか、清水さんの言うように「環境問題に関わる何らかの主張」であるとか、だとしたら、それがどれほどたくさんあるのか、どれほどの広い──地域的に、っていうだけじゃなくてね──範囲で起こっている問題なのか、学問の分野的な広さにおいてもね、知らなければならないことが山ほどある。たとえば、片方には遺伝子工学。片方には原子力、つまり核。あっちのほうには、炭酸ガス。それから、いわゆる社会的事件としての公害問題のようなものもある。あるいは、南北問題。国際関係もそうですね。ゴミ問題。ほらいくらでもありますよ。

で、仮に斎藤さんが言うように、ジャーナリストいっていうものが、あっちで聞いてこっちに伝えるような人だったとしましょう。「聞いて伝える」ことが、どれほどたくさんの知識とか、理解の仕方とか、あるいはもっと生々しく言えば、たとえば取材をする根性とが必要かって言えば、ね。考えてみたらね、そんなひとつの授業の中でね、非常に整理した形で、かくかくしかじかのことを覚えれば、そのとおり答案用紙に書けばジャーナリズムが理解できたなんてことはいえない、ということは簡単に想像できます。ね?(笑い)

授業の様子

■新聞は一方的なのか?

中尾ハジメ:で、たとえば、前回みなさんに書いてもらったのは、5つの作品──といっても、僕が勝手に切り取った作品の部分ですが、それでも作品であることにかわりはないんですが──について、200字から400字で紹介をしなさい。いずれにしても、現実的・実践的課題ををみなさんにやってもらいました。あえて、こういう言葉を使いますが、こういうことでジャーナリストの実力が試されるんです。何か言わなきゃいけないんです。何か書かなきゃいけないんです。それを一分以内でやれ、とか、200字でやれとか、そういう任務を担うんです。ジャーナリストはそういうふうに仕事するんです。で、みなさんがそういうのを書くときに──そういう意識を持っていたかどうか分かりませんが──高橋さんがいうみたいな、ジャーナリズムの精神のようなものがなければ、何も書けないんです。しかし、それを、どのくらい広く伝えるかとか、どういう方法で伝えるのか、っていうことは様々です。

直接・間接っていう分け方がありましたが、みなさんは、直接・間接という言葉だけを聞けば、「なるほど、直接というものもあるし、間接というものもある」というふうに考えるよね。と言えるよね。しかし、少し考えてみれば、みなさんが書いたものを他の人たちに紹介するとして、誰かが書いたものを紹介する自分は、直接的な表現者かどうか。これについては、最初にみなさんが意識をしていたかどうか分かりませんが、主体とか、主張という言葉を使ったひとがいました。間に入る人は、主張を持たないだろうか? あるいは、主体性を持たないだろうか? これは大問題です。

そもそも間接とか、直接だとかいいますが、中尾ハジメがしゃべっているこの考えは、その中尾ハジメから発生したんだろうか?(笑い)つまりね、純粋に中尾ハジメの内部から、発生したんだろうか? 何のことを言ってるか分かるよね? 私たちが抱えている問題もそうでしょうし、使っている問題についてもそうでしょうし、考え方もそうでしょうが、「私」からだけ発生したもんなんてあるでしょうか? そんなもんないですよ。そういうことをもし間接だなんて言うならば、すべてが「間接」じゃないですか? いったい、「直接」だとか、「間接」だとかいうことで、現実的に社会の中で僕らがやっている行為のどの部分を指して、どの部分を「間接」なんていえるのか? どの部分を「直接」なんていえるのか?(斎藤さん何か言いたそう)しゃべっていいよ。

斎藤里江子:一方的に言うのが間接になる。言って、こう返せたら、直接になるけど、返せなかったら、それは・・・

中尾ハジメ:もしそういうふうに定義するのであれば、答えは難しくないです。「間接」「直接」という言葉を使わずに、双方向的とか、相互的とか、あるいは一方的とかいう言葉を使えばいいんだよね。じゃあ、斎藤さんのさっきの定義を──ちょっと無理矢理だけど──相互的なのが、ジャーナリズム? 一方的なのが、ジャーナリズム? 

斎藤里江子:・・・一方的。

中尾ハジメ:こまっちゃったね。一方的なのがジャーナリズム。考えるプロセスとしてそういう段階があってもいいんだけど、本当にそう結論していいかどうかは考えた方がいいね。

斎藤里江子:返してもらうつもりで言ってるのかもしれないけど、新聞っていうのは、一方的に言ってるから・・・。

中尾ハジメ:・・・と、多くの人は、感じますね。そうだね。じゃあ、そうしたらね、たとえばみなさんに見てもらった資料のなかでね、『大日本百科事典』の「宣伝」をもう一度見てみましょう。

(4)宣伝とは相手を説得するものである

で、言葉の厄介な問題に踏み込んでいますが、「説得」という言葉をみなさんは、この人が書いているニュアンスでは使わないと思いますね。かもしれませんが、プロパガンダというのは「説得」だという話だね。で、

宣伝とは相手を説得するものである。宗教宣伝では、異教徒や異端者に対する折伏(しゃくぶく)があり、政治宣伝としては、戦争協力のための説得、また階級間の対立・競争に対して行われるイデオロギー宣伝がそれである。

で、そのつぎに、マークをしてください

説得が教育と異なるのは次の点にある教育の場にあっては、論争のすべての側面を提示し、当面の問題の価値判断に関しては受け手に結論がゆだねられるのに対し、説得は、相手の抵抗を予想しながらも、一方的に受け手をある方向に導いていく点である。

もし、さっきの斎藤さんの分け方、双方向的であるか、一方公的であるかっていうことをですね、今、掲げていたこの『大日本百科事典』の説明に当てはめてみると、教育っていうのは双方向なんだね。で、ここでいわれている「宣伝」、さらにそのなかの「説得」というような側面、これは、斎藤さんの分類によると、ジャーナリズムになる。はたしてそれでいいのだろうか? いいのかもしれませんけどね、ちょっとその辺がもう一つの問題としてまたでてきますね。「ジャーナリズムとはなにか」。もし、今のような分け方をして、ジャーナリズムは一方的だというようなことでよければ、それは、おそらく見事に、ここに書かれている「宣伝」のカテゴリーと一致をするように思われます。ここがまた難しいですね。

それから、最初に清水さんやあるいは佐々木君が言ったことにもう一回もどってくるんですが、伝えるべき事、「真実」、あるいは、「事実」。つまり、一方的に「真実」をつたえることができるのか? あるいは、一方的に「事実」を伝えることができるのか? で、この授業では、「伝えるべき事」というものを媒介に考えるより他にないという感じですね。「伝える」ってことを媒介に、「真実」ってことや、「事実」っていうことを考えなければならないですね。こういうことが実は重要な問題なんですね。

もう実例は山ほどあります。毎日のようにですね、新聞紙面に環境問題に関わる報道が載っています。たとえば今日であれば、アメリカが京都議定書に替わる、炭酸ガスを減らしていくための枠組みを提案していくと書いてある。これはどういうことでしょう? ただ、アメリカがそういうことを言ったよっていうことを伝えているんでしょうか? 伝えているだけなんでしょうか? よく考えてみて下さい。それから一週間ほど前の新聞では、アメリカが京都議定書を離脱しても、炭酸ガスは減る、京都議定書に効果があるということが国立環境研究所の研究成果の発表として、新聞に載っていました。「効果がある」って書いてあったんです。

今ずっとしゃべってきた文脈から、少し違うように思うかもしれませんが、新聞記事というものは、「見出し」と「記事」で構成されていますね。みなさんは、ほとんど見出ししか見ないってことがあるでしょ? するとね、見出しに「効果あり」って書いてあるでしょ? アメリカが離脱をしても、京都議定書には効果ありと、そういう見出しがある。「アメリカは離脱してもいいよ」っていうふうに読めますな。

新聞読んでる人いる? ちょっと手をあげてみてくれる? じゃあ、新聞を見ない人っている? 新聞は読まなきゃダメだよ。環境ジャーナリズムの授業を受けるためには新聞を読んでなきゃダメだよ。それで、この効果ありってどういう意味かっていうとね、京都議定書が守られた場合、たとえば2050年には、あるいは2100年とかには、どういうふうになっているか? 炭酸ガスは増えますよって書いてあるんです。な〜に言ってんだかって感じですね。京都議定書守ったって増えちまうんですよ。京都議定書からアメリカが離脱をした場合、その増え方が大きい。するとね、「効果あり」っていったいどういうことでしょう? もし仮に全然どこの国でも、京都議定書を守らなかった場合からくらべると、これくらいの効果がある。な〜にが効果だかって感じです。しかし、そういう話なんですね。

新聞読まなきゃダメだよ。さて、これは事実を伝えているんでしょうか。「こういう研究の結果がでました」「国立環境研究所はこういう研究結果を出しました」そのことを新聞は伝えた。確かに伝えています。しかし、その新聞の主体性はいったい何なんでしょう。何をしようと、何を伝えようとしているのか。なぜそれを伝えたのか? こんなものに価値があるでしょうか? そのとき、ぼくが「こんなものに価値があるか?」っていったときの言葉は、まちがいなく、僕の判断です。みなさんはどう思うのか。みなさんだって、判断するに違いない。そういう「判断する人たち」に向かって何かを伝えるってことは、主体性なしにできるでしょうか? 主張なしにできるでしょうか? どういうことになっているんでしょう? 「直接・間接」の問題を、いやそれは「双方向性の問題と一方向性の問題」だと言いました。で、仮に一方向性だとしたらね、今日、みなさんが見た資料からいえば、それは「プロパガンダ」にしかあたらないです。しかし、その「プロパガンダ」自体もどうもそんなに簡単に言えない感じがあります(笑い)。プロパガンダをする人は、主体的です。プロパガンダを受け取る人は、ある意味で言うと、その状況の中では、その状況に対して、どう主体的に働きかけていいか分からない、そういう存在として想定されている場合が多い。そういうことで言うと、一方的です。つまり、「操作をする側」と「操作をされる対象」ということですね。それで、その「プロパガンダ」の項目を書いている人が、ある意味で奇妙なことに「教育」ということをとりあげて、「教育は双方向的である」と言っていますね。多分みなさんがすでに読んだ、いや読んでないのかな、その戸坂潤であるとか、長谷川如是閑ならば、ジャーナリズムは双方向的でなければならないと言うやろね。

みなさんが、これまで読んできた資料はお互いに無関係なものだと思わない方がよろしいでしょう。もちろん、荒畑寒村とミシュレは話をしたことがない。じゃあ、荒畑寒村の考え方は限られた範囲から生まれた考えかっていうと、全然そんなことはないね。そもそも、科学技術だとか、あるいは科学技術だといわれなくても、人間の文明っていうのは、お互いに無関係ではないね。相互に発信しあってきましたね。で、起こってきた問題も、中には局地的なものだってありましたけど、どうもよく言われている言葉で言うと、グローバルですな。で、そういう認識に到達したから「環境問題」っていう言葉が生まれたんだね。で、その環境問題についていろいろな主張を伝えるための働きを環境ジャーナリズムは担っているんだね。その筋書きの上では、どういう整理ができるのかちょっと考えてみて下さい。ただし単純には行きません。あるいは、二項対立的な回答を出しても、現実を見れば、次々と、あ、そうはなっていないな、っていうことがわかるはずです。え〜、一番最初にでたね、「事実」だとかね、「いや、主張をすることが大切なんだ」ってことはね、未だに解決されていません。で、解決されないから、そもそもの問題設定が無意味かっていうと、そうではありません。で、そもそもそういう発言をした人たちはですね、自分が立てたその基準に従って、僕が提示する資料を見て、それにあっているかどうか、なるほどと思えるかどうかを考えなければならない。それで、考えるとですね、その基準を捨ててしまうわけには行かないと思うと同時に、どうも簡単ではない、ということが分かるはずです。ここで、踏ん張って、よく分からないけど、こういうジャーナリズムというのが現実としてある、で、自分たちもいろいろな意味で、それに参加しているよ、そういうふうに思う以外に手はないと思うんですが、しかしね、最初に考えついた基準を、そのときのまま持ち続けるというのは、こりゃ大問題です。そんなことができるはずがない。そりゃ、鍛えられていきますよ。繰り返し繰り返し、自分の考えを、これはダメだって思っていくしかないんです。

それでですね、想像したらすぐ分かっちゃうけども、たとえば、出版社っていうの、あれはどうやって存在しているでしょうか? で、出版社というのは、出版社を作ろうと考えた人たちがやってるんだよね。で、もちろん、出版社が成り立つためには採算が合わなければならない。で、みなさんがこれまで読んできた、岩波新書だとか、岩波文庫だとか、それから、読むことになっている『苦海浄土』を出している、講談社だとかは、どういうふうに考えて、あるいはどういう主張を持って、新書版を出したり、文庫版を出したりしているのか、それは本の後ろに書いてあります。これを読むとね、さっき清水さんが言っていた、「倫理的水準」というようなことが、あきらかに意識されているって事が分かりますね。で、出版社のことを、出版のことをpressといいますが、「出版の自由」っていうのは freedom of press って言いますね。で、報道のことも press っていいますね。それは、変わって行かざるを得ないとおもうんですが、インターネットの時代、つまり電子メディアの時代になっても、press っていう言葉は残っていて、報道を意味していますね。

次回からもう少し進みたいと思いますが、現代のメディア的状況ということで言いますと、現代ではどれくらいのメディアがあるかというとね、ものすごく増えましたね。その増えたメディアの代表は、電子メディアだね。コンピュータが、パソコンになって、一人一台持てるようになったということですが、それによって、ジャーナリズムはいったいなにができるか? ということを考えたい、ということですね。それから、電子メディアって事だけじゃなくって、たとえば、ジェット機でびゅんと行けちゃうでしょ?

『世界の環境危機地帯を往く』さて、資料を提示したいのですが、つい最近出た本ですが、マーク・ハーツガードという人の書いた本が、比較的速いテンポで日本語になったのです。『世界の環境危機地帯を往く』(草思社 2001年)です。その序章を読んでおいてね。

それから、環境社会学科のホームページがありますね。これはいったいなんでしょう? このホームページにはいろいろなものがあってね、たとえばeマガジンなんてものがあります。「環境雑学マガジン」っていうタイトルですね。毎週毎週、うちの先生達が何か書いてますね。あれはなんでしょう? あれを誰かに紹介しようと思ったら、どういう紹介になるかっていう問題がありますね。それから、本の紹介のページがあって、ひとつの本について、まだいろいろ歯抜け状態ではあるけれど、こんな本があるよ、っていう紹介が載ってたりします。みなさんはこういう働きをどうかんがえるのでしょうか? 環境ジャーナリズムの授業はホームページに紹介されていますが、他の授業について、ジャーナリズムという視点からどういうふうに評価できるかって事をお考え下さい。

それから、もうひとつ。『共感する環境学』という本があります。この本の中の「環境ジャーナリズムの可能性」というところをしっかり読んで、分からないところを書き出して下さい。次週までにしなきゃいけないのは今のふたつ。マーク・ハーツガードの序章を読んでくること。もう一つは中尾ハジメの書いた「環境ジャーナリズムの可能性」の部分を読んでくること。ちゃんと問題点を書き出すこと。わかったね。今週までにやってくるはずだったことも、しっかりやってくるんだぞ。

授業日: 2001年6月12日;