第9回 想像力を働かせないと、「事実」を述べることはできない

シラード夫人とテープ録音作業をしている.1960年6月、ニューヨーク、メモリアル病院(ジョン・レオン・ガード撮影.LIFE Magazine Copyright: Time Inc.)
シラード夫人とテープ録音作業をしている.
1960年6月、ニューヨーク、メモリアル病院
(ジョン・レオン・ガード撮影.LIFE Magazine Copyright: Time Inc.)

1951年に、彼はマンハッタン計画の歴史を書くことを意図し、関連資料を収集し、いくつかのノートを草した.その中に私たちは次のようなエピソードを発見した.あるときマンハッタン計画の中で生じたいくつかの問題点について同僚と話しあっていたシラードは、次のように言った.公けにするためにではなく、まさに神にだけ知らせるために事の真実を文字にしてみようとしていると.その同僚は、神様ならそれらの事実のことも知っているだろうよ、と注意したのだが、それに対するシテードの答は、それはそうかもしれないが、「事実に対するこのような叙述」のことは別だ、というものであった.

そのようなわけで、この本はテープ録音されたインタビュー、書簡類その他の資料を通じて、「事実のシラード版」を提供するものである.

S.R.ウィアート、G.W.シラード編『シラードの証言』(みすず書房、1978)より


■新聞の「ものさし」を考える例題

8月30日の広島視察
赤十字報告書判明

【ジュネーブ15日共同】赤十字国際委員会ICRCの駐日代表部職員だった故フリッツ・ビルフィンガー氏が1945年8月30日、原爆投下後の広島を視察、「病院での状況は想像を絶する」と投じの惨状を克明に記し、核兵器の使用禁止を訴えた機密報告書などがICRC本部(ジュネーブ)文書館に保存されていることが15日までに明かになった。

6月16日の京都新聞の記事今お配りした新聞記事は、2日ほど前の6月16日の京都新聞の記事ですが、これはいったい何が問題なのでしょうか。何でこんな大きな記事なのか。今から57年前のことだよね。なぜそんなに大きな記事なのか、考えてください。それからもうひとつ考えてほしいのは……。機密文書になっていたのですね。この記事を読む限り、最近になってようやく機密文書でなくなったかのように見えます。しかしこれまでずっと機密文書扱いをされていた。なぜでしょうか? 私たちにはよく分かりませんが、大川四郎という愛知大学法学部助教授の方によると、ジュノーさんという人とミルフィンガーという人の間に軋轢があったのじゃないか、そのことが理由でずっと機密文書だったのかなあ、と読めることが書いてあるね。

だけど、この記事で私たちに分かったことは……。広島の被害の状況を何人かの人たちがかなり早い段階で伝えていたということがこの授業で分かった。しかし「何人かの」というのはそれほどたくさんの人ではなかったよね。このミルフィンガーさんという人は赤十字の人です。その人は、そういうことを新聞に出したわけでも雑誌に出したわけでもないのですが、赤十字の本部のほうに打電をしてたんだね。この新しい記事から、そういうことが、われわれに分かった。

それで、その資料についてはそれでおしまい。ただ、繰り返して言いますが、なぜ機密文書だったのか、という問題。それから、どうしてそんな昔のことがこの時点でこんなに大きく新聞に取り上げられるのか、という問題ですね。考えてください。

さあ、それで、今日のテーマは「事実と虚構」です。前回の「事実と科学」というのといろいろまた重なることがあります。どういうふうに重なるのかというのが、なかなか難しいのですが、よく注意をして考えながら聞いていてください。

■ セミパラチンスクをめぐる写真ジャーナリストと科学者の立場

さて、セミパラチンスクっていうのを聞いたことがあるかい? ちょっと参考までにお伺いするけど、セミパラチンスクって聞いたことのある人? (知っている学生はいない模様) おう、見事にいないな。確認のために、聞いたことのない人は手を挙げて?(だれも手を挙げない)。見事にいないな(笑い)。「セミパラチンスク」についてこんな本があるのですが、ソ連というものがあったときに、セミパラチンスクというところで核実験を何百回もしたね。そのセミパラチンスク。

『セメミパラチンスク──草原の民・核汚染の50年』高文研、1999年それで、これからお見せするのは、森住卓という人が取った写真で、これは写真集になってます。(『セメミパラチンスク──草原の民・核汚染の50年』高文研、1999年。いくつかのページを、スクリーンに映して)こんな本だね。まずこういう写真が出てきます。

「1953年、初の水爆実験が行なわれた。」──水爆というのは、原子爆弾と違います。知ってるよね? 水素爆弾を略したんですね。あとでまた説明するかもしれません──「周辺の村には避難命令が出されたが、タイナール村では42人の男が村に残され、核実験を見物させられた。」──42人が残れって言われたんですね。──そのうち「41人はガンや白血病で亡くなった。エレオガゼさんはたった一人の生き残りだ。」──この人はエレオガゼさんといいます。──「現在、皮膚がんと肝臓障害に苦しんでいる。(1997年8月)」── 写真をとったのは1987年8月です。

この写真はベーリック君といいます。年齢は書いてないんでちょっとよく分かりませんが──「ベーリック君と家族。ここは原子の湖……」──「原子の湖」という湖があるようですが──「から50kmしか離れていない。汚染された村などは現在も厳重監視区域になっている。(ズナメンカ村1997年8月)」──ズナメンカ村というところで1997年の8月に撮った写真だね。

「水頭症のオスパノワちゃんは生後9ヶ月。セミパラチンスクの近くのポストチナヤ村に両親は住んでいる。(セミパラチンスク子どもの家1998年5月)」これは「セミパラチンスク子どもの家」というのがあるんですが、そこで撮られた写真ですね。1998年5月。

「ヌルラン君は小学校三年生の時、突然歩けなくなってしまった。父親のジュマルトさんは白内障の手術をしたんが、見えなくなってしまった。『核実験のせいだ』と言っていた。(ドロン村1995年5月)」

「ジャヌスさんはモスクワへ行って初めて村の核実験被害を訴えた。」──モスクワまで行って核実験の被害があったということをこの人が訴えたんだね。──「『それなのに何もしてくれない。祖国に裏切られたという気持ちでいっぱいだ』(ズナメンカ村1997年8月)」

というような写真が載ってるのですが、……例えばこの写真は、「六本足の奇形の子牛(ボデネ村1995年5月)」……核実験はいつ頃あったかな。一番多かったのは、1950年代、60年代だと思います。さっきも言ったけど、これはまた別の水頭症の子供だね。──「『この子の写真を撮って世界中に核実験の被害を知らせてください』と、医師が水頭症の赤ちゃんが寝かされている部屋に案内してくれた。(セミパラチンスク第四小児病院1999年2月)」

他にもいろいろ写真がありますが、……「核実験場の周辺で生まれた障害児や家庭の事情で育てられていない親から預けられた子どもたち。(セミパラチンスク子どもの家1998年5月)」

というわけで、これらの写真を撮ったのが、森住卓さん。1951年生まれの人だそうです。その森住さんの本の後ろのほうを、ちょっと抜粋したので見てください。(資料が配られる)後ろのほうに「セミパラチンスク──草原の民……」を載せておきました。いいかい?そうそう奥付をご覧ください。本を手に入れようと思ったときに、参考になるんだよ。さて、抜粋には「写真家と科学者」というサブタイトルがついていますね。そこのところだけちょっと読んでみよう。

放射能の被害を伝えるため、私はセミパラチンスクで撮った写真を新聞社や出版社に持ち込んだ。しかし持ち込みはしばしば不成功に終わった。因果関係がはっきりしない写真は乗せられない、というのだ。……

因果関係がはっきりしない写真というのはどういう意味でしょうか。今皆さんが見た写真の中で、色々病気にかかってくる子ども達や大人がいたわけですが、その病気が核実験のせいであるのかどうかわからないということだね。その因果関係がはっきりしない写真は載せられないというのですね。なぜかと言うと……森住さんは核実験をたくさんやった結果、ここに住んでる人がこんな目に遭ってる、そういうふうに考えたんだね。だから、写真を撮ったんだね。で、そういう「主張」を森住さんが持ってるわけですが、新聞社や出版社には、因果関係がはっきりしない写真は載せられない、と断られたわけですね。

特に、高級な(?)雑誌がそうだった。……

これはなかなか面白い。「高級でない雑誌」というものがあるんだよね。そういうのだったら、喜んで載せてくれる。

状況証拠はこんなに揃っている。にもかかわらず個々の因果関係が証明されないからという。断られるたびに、現場を見てきた人間にしかわからないのかと、悔しい思いを何度か味わった。その悔しい思いが、もっと詳しく、もっと突っ込んで取材しようという原動力にもなっているのだが……。

彼が、そういうふうに書いています。サブタイトルは、「写真家と科学者」。しかしいくら読んでも、科学者が出てこないよね。これはどういうことなのか。これも考えないといけないね。よくよく考えてみると、因果関係がはっきりしない、と言って、森住さんの写真を載せるということを断った新聞社、出版社の人たちは科学者ではないよね。でも、因果関係というようなことを言うのは、科学者なんでしょうね、おそらく。さあ、この話は一応そこで終わり。

■「生ましめんかな」は事実か虚構か?

いよいよ、「事実と虚構」というのにだんだん入っていくんですが、前回の話の中で、たまたま「文学」っていうのが出てきたでしょ。「文学」については、『広辞苑』にはなんて書いてあったっけ。「想像の力を借りて、外界および内界を表現する芸術作品」とかなんとかいっていたよね。そういうようなことを踏まえて……皆さんは資料を取り出してください。栗原貞子の『黒い卵』の中から、「生ましめんかな」というのを資料にしたよね。それを出してください。

この「生ましめんかな」というのはいったい何ですか。何ですかというより、ここに書かれていることは、「事実」でしょうか。それとも「でっち上げ」でしょうか。あるいはここに書かれていることの中から「この部分は事実であるけれど、この部分は事実ではない」という仕分けができますか。例えば一番最後の「己が命捨つとも」というのは、これは意志──その産婆さんの「心の中」とか、あるいは「思い」とか「決意」とかそういうものだよね。で、人が考えたり、心がいろいろ動くというのは「事実」だろうか。産婆さんは栗原貞子さんとかそこにいる人たちに向かって、「私はこういうつもりで、今、子どもを産ませようとしたのです」ということを言っただろうか。それを想像の力を借りていろいろと考えると──僕は想像の力を借りて考えているのですが──おそらくそんなことは言わなかっただろう。言わないで、ただ「私が産婆です」というようなことを言っただけであって、「自分の命が無くなっても」というようなことは彼女は言わなかったに違いない、と思います。

そうすると、よく分からないけれどこれはやっぱり「事実」だというふうに考えていいのではないですか。問題ある? それで、「事実」、つまり「体験をしたこと」なんですが……、──この辺がまた難しいよ──誰が「体験」したの? 栗原貞子は、ある意味で「体験」をした。しかし、その死んでしまった産婆さんも何か体験したんだよね。で、このあたりの「己が命捨つとも」というのは、やっぱりそのことを指しているんだよね? で、そういうものが、まずありました。

それから、少し話を混乱させるようですが、これはいわゆる「詩」と呼ばれるものですよね。かつ「文学」とか呼ばれているものだよね。しかし、よくよく見たら分かるように、この出来事が起こったのはどこであるかということまで、ちゃんと後に書いてある。で、まずこのことを考えておきましょう。で、次に行きます。

■「事実」を残すためには、「よい作文」が必要である

次に、『原子爆弾の誕生(上)』の資料を引っ張り出して下さい。そして、これを配ってください。(資料配布: 上記『原子爆弾の誕生』の原著 Richard Rhodes, The Making of the Atomic Bomb, 1986からの抜粋)それで、日本語版では、「第一章 月影──終末への予見──」……3ページから始まって、32ページまでずっと続いていますね。

話はちょっとだけややこしいんですが、まず、「第一章 月影」というのは当然のことながら翻訳です。今配った英文のコピーがあるでしょ、それの13ページを見ると、Moonshineというふうに書いてあるね。で、「月影」はMoonshineを日本語に直したんです。で、その次の小さなサブタイトル「終末への予見」というのは、これは実は原文・原著には無いものを、訳者が、われわれ日本人読者のことをいろいろ考えて、「サブタイトルくらい入れないと、読みにくいだろう」と思って入れたんだね。原著にはありません。このことも実は重要なことなのですが、さあ、それでちょっと読んでみよう。英文のほう見てごらん。

In London, where Southampton Row passes Russell Square, across from the British Museum in Bloomsbury, ….

で、“Leo Szilard”とそこに主語がくるんですね。日本語訳……。

ロンドン。不況下の曇った朝、……

ふーん、「曇った」か。Gray Depression morning は「不況下の曇った朝」になる。

サザンプトン通りがラッセル広場を過ぎる四つ角で、レオ・シラードはイライラしながら信号が変わるのをまっていた。……

“Leo Szilard waited irritably”が「イライラしながら」ということになるね。“for the spotlight to change.”が「信号が変わるのを待っていた」というふうに訳されています。ところで、レオ・シラードがイライラしていたということは重要なんだろうか。僕は重要だと思います。が、「イライラしていた」っていうのは、どうやって分かるんだろう。

その道路のちょうど反対側のブルームスベリーには大英博物館がある。

それは、なんか関係あるのかな。どういう関係があるのかな。

時は1933年9月12日の火曜日であった。

これはなんか重要……、かなあ。よく分からない。それで、今、皆さんが翻訳を読んでいるその文章の、元の原文を書いた人はリチャード・ローズって人だね。つまり、リチャード・ローズは「作文」をしたんですね。で、僕が問題にしたいのは、「この作文が、いい作文である」ということを問題にしたい。「いい作文」でないと、「事実」を著すことができない。ただし、そこで言っている「事実」というのは、前回「事実と科学」というふうに「科学」と対照させた「事実」だね。つまり、「人間の体験」で、我々がそれを、後で共有できるようになるように「事実」というふうにこれを捉えると、その「事実」は、やはり「作文」されないと表現できない。作文をされて出来上がったひとつのサンプルがここにあるということです。

当たり前のことですが、1933年にはリチャード・ローズはまだこの世に誕生していなかった。にもかかわらず、

前夜のわずかな雨のなごりで、あたりには肌寒い、湿気のあるどんよりとした空気が漂っていた。……

こういう「見てきたような嘘」を書く。英文を見てごらん。ちゃんと主語がリチャード・ローズになっていたりして「私はそうだというふうに想像する」なんてことは書いていないですね。ここで、寒かったかどうか? これはその当時のロンドンの新聞を見たら、今日は寒いだとか、あるいは次の日の新聞を見れば、昨日の温度は何度だったかとか書いてあるのかな。……たしかにそうかもしれない。で、そのことをリチャード・ローズは確認をしたかもしれない、しないかもしれない。

霧のような雨は昼過ぎからまたぶり返しそうだった。……

「ぶり返しそうだった」というのはすごい。過去のある時点である人が判断するんだよね。「あ、また降るかなー」とか思うわけですね。そういうことをリチャード・ローズは書いている。

シラードが後年この朝の体験を語るとき、このときの行き先がどこであったかを明らかにしたことはなかった。……

これが意味していることは、多分、資料があるということだね。資料があるんだけど、あくまでもリチャード・ローズが知りうる範囲でいうと、シラードは行き先を明らかにしたことは無かった。そういうことですな。

あるいは、彼にはこれといった特別の目的地が無かったかもしれない。というのは、彼はよく思索のために散策していたからだ。……

どこかで、そうとわかるのかな、と思いながら読んで下さい。

いずれにしてもそのとき、もう一つの目的が彼の頭の中に割り込むように浮かんできた。……

ここは、じつは、非常に有名になっちゃってて、これが本当であったか嘘であったかということを問う人は誰もいません。こういう話は、およそシラードのことについて書いてある本であれば、どの本でも、これが出てくるんだね。その「これ」とは何か。

信号が青に変わり、シラードが歩道から踏み出し、道を横切りおえたとき、突然未来が彼をとらえた。それは世界の終末、我々の苦悩のすべて、来るべきものの姿であった。

こうなっているんだよ。すごいよね。ちょっと飛ばして、32ページ見てごらん。この「第一章」の終わりにはなんて書いてあるだろう。

レオ・シラードは歩道を歩き出した。その背後で信号は赤に変わった。

で、私の知る限り、レオ・シラードは自分の背後で信号が赤に変わったとか、歩道を歩いたとか、どこにも書いていません。なんで、じゃあ、リチャード・ローズはこういう書き方をしたんだろう。これは「うまいかヘタか」ということを問題にしたいんじゃなくて、こういうのを「想像力の力を借りて」って言うんだよ。いや、たいした想像力じゃないのではと皆さんは思うかもしれませんが、……じつは、そういう想像力を働かせないことには、「事実」っていうのは書けない。という問題を、今日は少し追いかけたいと思います。

さて、「翻訳」という作業があるよね。例えば今のは英語を日本語にする。しかし、英語から日本語にするっていうのは、ある英語だったら、ある日本語に決まって変換されるわけではなくて、「翻訳者がどういうふうに翻訳するか」で、訳は全然違うよね。当たり前です。そうすると、翻訳者ごとにそこから出来上がってくる翻訳が違うということを指して、なんといったらいい? いろいろ考えようがあると思うんですが、それは本当にそれぞれ違う翻訳なんだろうか。Aさんが訳したものと、Bさんが訳したものが、違う文章になって出てきたら。それはどういうふうに考えたらいいんだろう。ということがひとつ。この考え方は、いろいろな方向性があります。あとでいろいろ楽しんでやって下さい。

さあ、それで、戻らなきゃいけないね。「月影」っていうタイトルに戻らなければならないんですが、“Moonshine”……この資料の29ページ。実は、そこの交差点を渡る前に、「シラードが何をしていたか」ということがここに書かれているんですが、今見て欲しいところを言うね。5行目です。

さて、シラードは疑いもなく九月十二日のタイムズ紙を読んでいた。それには、次のような人目を引く見出しが躍っていた。

英国学術協会
原子を壊す
元素の変換

これはよく分からない。よく分からないので、翻訳じゃなくて原文の英語を見ると、

THE BRITISH ASSOCIATIONBREAKING DOWN THE ATOMTRANSFORMATION OF ELEMENTS

やはり、なんだかよく分かりませんね。新聞の見出しです。9月12日のタイムズ紙っていうのは、マイクロフィルムに撮ってあるか、何かに取ってあるんだね。ジャーナリストは、それ調べたら分かる。いずれにしてもそういうふうに書いてある。そのあと、

アーネスト・ラザフォードが「原子遷移に関する最近の四半世紀の発見」の歴史について講演し、“中性子”と“新しい元素変換”に言及した、とタイムズ紙は報じていた。

この記事がシラードを落ち着かなくさせた。イギリスの指導的な科学者たちがこの会議に参加しているのに、彼自身はそこに出席していなかったからだ。彼の身の安全は保証されているし、銀行には金があった。しかし実際は、ロンドンにいる落ちぶれた無名のユダヤ人亡命者の一人にすぎなかった。 モーニング・コーヒーをホテルのロビーでねばり、職はなく、人に知られることもなかった。ラザフォードの講演に関するタイムズ紙の要約記事を読み進むうちに、二番目のコラムにつぎのような記事があった。

で、30ページを見て下さい。

どんな原子をも変換する可能性

講演の締めくくりとして、ラザフォード卿は来るべき二十年ないし三十年の進歩がどのようなものであろうかという問いを発した。

百万ボルト単位の高電圧は、衝突させる粒子を加速するためには不必要である。原子の変換はたぶん三万ないし七万ボルトで起こるだろう……。究極的にはどんな元素も変換できるようになるだろうと卿は考えている。

このようなプロセスによって、入射する陽子のエネルギーよりもずっと高いエネルギーを回収することができよう。しかし、このような手段は実用的とはいえない。なぜなら、このような現象が起きる確率は低く、エネルギー生産の手段としては非常に効率が悪いからである。だから、原子変換によってエネルギーを手に入れようとするものは、月影について語るようなものである。

ここに、「月影」が出てくるんだよ。わかった? だけどちょっと変だよね、翻訳者としては、ちょっと気になるところがあります。一番最後の、「だから、原子変換によってエネルギーを手に入れようとするものは、月影について語るようなものである。」これ、英語のテキストを見てごらん、新聞からの引用の下から3行目、後ろの方、

and anyone who looked for a source of power in the transformation of the atoms was talking moonshine.

で、これが「月影について語るようなものである」と訳される。これが難しい。なぜ難しいか? そのことを今度はリチャード・ローズが書いています。

「月影(ムーン・シャイン)」という言葉には「バカげた」とか、「嘘話」という意味があることを、はたしてシラードはしっていたのであろうか。……

と、リチャード・ローズは書いている。ちょっと英語見てごらん。

Did Szilard know what “moonshine” meant− “foolish or visionary talk”?

……なんですね。何でこんなことをわざわざ書いたのか。リチャード・ローズはなぜ書いたのか? 分かんないね。分かんないけども、シラードという人はハンガリーの人で、ロンドンに来る前にはどこにいたか?

■複数の資料にあたってみよう

で、これから読むのは、『シラードの証言』という本です。その序文があって、その序文というのは……。皆さんは、ジャック・モノーって人を知っているかな? 知らないね。生物学の人ですが、「偶然」というのはどういうことか、そういうことをいろいろ考えた大変有名な人です。そのジャック・モノーさんが、1947年の夏に、ある会合の中でシラードに会うんですが、その科学者の集まりのところで、「私が最前列に認めた背の低い小太りの男には、」──科学者というのは、できるだけ変な格好をして、人と俺は違うんだということを見せたいらしいんですが──「そういう明白な形跡はなかった。彼は、ほとんどの時間居眠りをしているように見えた。そして、丸顔で太鼓腹の彼は、ほとんど興味を示さなかったし、攻撃的でもなかった」 モノーさんが書いているんですよ。

それでも時より、彼は突如知性とウィットで輝いている目を覚まし、鋭い辛辣な思いもかけぬ質問をしたものだ。すぐに正確で明解な返答が返ってこない時には、彼は辛抱強く同じ質問を繰り返した。私たちは紹介し合ったのだが、彼の名前は良く聞き取れなかったし、私にとって名前はどうでもよかった。彼はひどいアクセントの英語をしゃべった。おそらく、中央ヨーロッパかバルカン出身なのだろう。それは別に異常なことではなかった。当時、米国の科学界の半数以上は何の制約も禁制もなしに、呆れるくらいのまぜこぜ英語ピジンイングリッシュをしゃべっていた。

と書かれています。さっきのところに戻ってみましょう。東ヨーロッパからロンドンに行ったばかりの、ハンガリー生まれのユダヤ人に“moonshine”という言葉の意味がわかったろうか、という疑いをリチャード・ローズは持っているんですね。じゃあ、それはそれでいいとしよう。で、

はたしてシラードは知っていたのであろうか。彼は新聞を投げ出して表に飛び出そうとしたとき、このことをドアマンにでも質問していたのであろうか。

この辺、わけわかんなくなってきたね。なんでこんなことを書く必要があったのか。それは……。その次にカギ括弧で始まる文章があります。ひとつは、「ラザフォード卿が、工業的な規模での……」という文章と、その次のカギ括弧、「そんな気分で、私はロンドンの街を歩いていた。……」。それから、その次のページいって、「そうだとすると、中性子なら、……」で始まる文章。これも、カギ括弧なんですが、それから、ずっとそのページの終わり、「信号は青に変わり、……」。その次のカギ括弧、「突然……」。で、32ページで、「そのときは、そのような物質……」というカギ括弧がありますね。こうやってみるとわかりますが、この手のカギ括弧で相当スペースが埋まってます。で、この文章の中には何の断りも書いてませんが、これはシラードの言葉なんだね。ちょっとそこまでで、いったん資料を終わりましょう。

■「レオ・シラード版の事実」とは、どういうことか?

で、ちょっと思い出しておきましょう。今日のテーマは事実と虚構だよ。今配った資料で皆さんが見てるのは、『シラードの証言』という本からの抜粋です。出版社はみすず書房です。みすず書房から出たのは1982年、もとの本が出たのは1978年です。それで、まず、ここに注目してくださいね。英語のタイトルが書かれていますね──LEO SZILARD:HIS VERSION OF THE FACTS──その下は──Selected Recollections and Correspondence ──リコレクションは、回想、思い出す、思い出したこと。コレスポンデンスは、手紙のやりとりですね。それを選んだんですね──セレクション。Spencer R. Weart と Gertrud Weiss Szilard が編集をした、ということになっています。さあそれで、タイトルに戻って注目してほしい。HIS VERSION OF THE FACTS──バージョンってなんだかわかりますか? 例えば、こういう書き方するよね。Ver.1とかVer.2。Versionていうのが省略されている。Ver.1ていうのは、第1版。Ver.2というのは、第2版。第3版、第4版といろいろあるんです。どんどん改訂されていくんですね。あるもののかたちをいろいろと変える、しかしおかしなことを言うようですが、形が表面的に変わっても実は中身は変わらない、あるいは基本的な「精神」は変わらないとします。で、HIS VERSIONというのは、いわば「レオ・シラード版の事実」。どういうことでしょうか? ちょっと思い出して欲しいんですが、こういう言い方を前回は使いましたね──「叙述」。叙述というのは、“述べる”あるいは、少し違う言い方すると、「記述」。これは、“書き記して述べる”ですね。で英語でいうと、descriptionといいますが、叙述しないことには「事実」は形を持って他の人に示すことはできない。絵で描いてもいいですよ。しかし、descriptionがいるんですよね。レオ・シラードはこういうふうに「事実」を叙述したんだね。したがって、これは「レオ・シラード版の事実」であるということになります。ついでに、313ページを見ると「“回想”部分の原資料一覧」というふうに書かれております。この辺は、話を複雑にすることになりますが、ジャーナリストは、結局は自分が「事実の叙述」をする。けれども、「体験・出来事の叙述」の叙述をするとき、あるいは自分でない人が体験をしたことを描くときに、何をもとにしたかということに、ジャーナリストはたいへん神経をつかいます。

■ニュースソースを明示するという流儀

いつからそんなふうになったかというのも、おもしろい問題ですが、きっと昔はそんなふうに気にしてなかったに違いない。でも、だんだん、何をもとにして自分がこういう叙述をするのかということが、大変気になるようになった。あるいは、そういうことを明らかにしないと、読者は信用しないというようにだんだんなってきたのかな。で、皆さんがレポートを書くときに、ちゃんと注をつけなさいとかね、……本を読んだら──どの本を読んで、そこにこんなことが書いてあったというふうに自分は捉えたんだ──そうすると、その本は何という本で、何ページに書いてあるとかいうことを記録しておきなさい、ということを言うね。それと同じような文化が生まれたんですね。

そのもう一つのバージョンを言いますが、例えば、今日のワールドカップはトルコがやるんだよね。昨日はどこの試合があったかわかりませんが、新聞というのは記事を作んなくちゃいけないから、街中で誰かに、たとえば「メキシコ・アメリカ戦を見てどう思いましたか?」とか聞くわけ、そうすと、聞かれた人は何か言う。それはね、新聞の記事になるんですよ。でもそこにね、年齢が書いてあったりするわけ、それから名前が書いてある。なんでそんなことに個人の名前とか年齢が必要なんだろう、と思うんですが、本当にその人が実在するということを、形の上でも残さなきゃいけないんだね。

というようなことがありますが、それとある意味でつながるような、これは事実であるということを、何段階にわたっても追跡ができるように、こういう作業をするわけだね。それで、「『回想』部分の原資料一覧」というふうに書かれてます。『レオ・シラードの証言』で、「本文中の初出順による [1] 1960年…」──この[1]というマークに気をつけてね──「1960年6月付けのノート…」タイトルが一応つけられてます。「素描、書物のための輪郭」。で、「[2] 1960年5月、ニューヨークで採られたインタビュー・テープ」。テープがあるのです。だけどよくよく考えたら、テープにとったのは1960年ですかね。今は2002年ですね。そうすると42年経ってる。そしたらテープはもう使い物にならなくなってるかもしれないね。それから「[3] 1963年ワシントンDCで採られたインタビュー・テープを抄録したもの」……というふうにいろいろ書かれてますが、こういうものをSpencer WeartとGertrud Szilardが編集したんだね。それで出来てる…ということです。

さあ、後でいろいろ読んでもらったら面白いことがわかりますが、今注目してほしいものは何かと言うと、次の文章です(『シラードの証言』p.21)。

私がこの会話のことと、H. G. ウェルズの本のことを思いだしたのはたまたま1933年9月、英国学術協会〔の会合〕の頃ロンドンにいたときのことであった。私は新聞でラザフォード卿の講演を読んだのである。

シラードの言うことにもとづいてさっきのとこへ戻ってごらん。さっきのところというのは『原子爆弾の誕生(上)』の29ページです。

さて、シラードは疑いもなく9月12日のタイムズ紙を読んでいた。

疑いもなく読んでいた──証拠はここにある、シラードがそう言っている。ということは『シラードの証言』の

ラザフォード卿は工業的規模での原子エネルギーの解放について語るものは、絵そらごとについて語るものであると述べたと紹介されていた。

ここにあたる部分は、『原子爆弾の誕生(上)』の30ページだね。

「ラザフォード卿が、工業的な規模での原子エネルギーの利用について語るものは月影について語るものだと言った、と書かれていた。専門家が何かが不可能だと御託宣を下すと、私はいつも反発を感じた」

という文章ですが、何か抜けてるよね。抜けてるっていうのはこっちの方の今お配りした『シラードの証言』の方の21ページ、

ラザフォード卿は工業的規模での原子エネルギーの解放について語るものは、絵そらごとについて語るものであると述べたと紹介されていた。

には「専門家が何かが不可能だと御託宣を下すと、私はいつも反発を感じた」が抜けていますよね。ないです。これは、実は、もうひとつ本がありまして、シラードのCollected Worksってのがあるよね? これはMITから出てて、それは残念ながら皆さんの手元にはありません。そうすると同じような場面というか、あるいは同じような内容のことを伝えるために、いろんなバージョンがある。で、シラード自身も、あるいはシラードの周辺にいた人たちが、後で本を作るわけですね。その時にいろんな種類の本がある。そういうのを「バージョン」という。バージョンというとちょっとこんがらがるかも知れませんが、あるひとつの出来事をいろんなふうに編集をして提示することはできますね。5分間でしゃべりなさいっていうのとね、30分でしゃべりなさいっていうのと、中身は同じでも、バージョンが違うんですよね。……という形式的なことをいろいろ言ってますが……肝心な所をもう一回みて下さい。「月影について語るようなもの」と30ページの方には書かれています。で、こちらの21ページの方の翻訳は、おそらく英語はMoonshineでしょう。しかし「絵そらごとについて語るもの」というふうに日本語は書いてあり……ここはちょっとよくわからない。なぜかって言うとリチャード・ローズは、シラードは確かにMoonshineという言葉を使っているし、シラードが使う前には、もともとタイムズの新聞にMoonshineという言葉が書かれてたということは確認できる。しかしMoonshineの意味がシラードにはわかってたのか? と、リチャード・ローズは疑問符をつけています。

それで、この『原子爆弾の誕生(上)』の30ページの方の次の「そんな気分で」というところがあるでしょ?

「そんな気分で、私はロンドンの街を歩いていた。そして、サザンプトン・ロウの交差点にさしかかったのを覚えている……。私はラザフォード卿が間違っているとはいえないのではないかと考え続けていた」

「間違っているとはいえないのではないかと考え続けていた」 ──どうでもいいようなことなんですが、これはものすごく重要。…で、Moonshineが問題であるのですね。英語でMoonshineが何を意味しているか、それが「価値の無い絵そらごと」だということを仮に意味するとするでしょ。ラザフォードは、工業的に使うなんてことはありえないから考える意味が無いよと言ったことになります。で、もしそうだとすれば、そう考えているラザフォード卿が間違っているとは言えないのではないかな、ということをシラードは考えてたことになりますね。……で、実はわからないです。

リチャード・ローズは比較的正確に、つまり資料をいろいろ出して、シラードはこうしゃべったと、しゃべった通りを出してる。で、そのしゃべった通りというのが8箇所、引用文でずっとつながってますね。で、結局のところシラードが、ラザフォードが言ったことをどういうふうに評価してるのかということは、リチャード・ローズの書き方の中では明らかでありません。どっちにとればよいか、よくわからない。しかしリチャード・ローズにとって重要なことはその問題じゃないんです。結局のところシラードは、その時に中性子が一個飛んでって原子核に当たって、その原子核から2つの中性子がまた飛び出してくるということがあれば核分裂の連鎖反応が起こるっていうことに気がついた。その気がついた状況を延々と書いたんだね。……というリチャード・ローズの書き方は、これは何でしょう。ある意味で言うと、シラード自身が本当のところラザフォードについてどういうふうに考えていたのかということを、黒か白かでは判定できないと、リチャード・ローズは考えた。ね。で、それはしかしリチャード・ローズにとっては立派な事実なんだ。で、しかもついでに言うと、そういうところにある種の疑問を差し挟んで、果たして本当にシラードは知ってたのかな、Moonshineという言葉の意味を知ってたのかな、なんて余計なことを言いながら、そこでシラードがあることに気がついたということを書いてるね。わかったかな?

■美しい文章で描く

で、余計なことに──「余計なことに」を言ったらちょっと悪い評価をしてるなんて皆さん思うかも知れませんが、そういう意味ではありません──『原子爆弾の誕生(上)』の第一章の最後に

レオ・シラードは歩道を歩き出した。その背後で信号は赤に変わった。

……どうしますか(笑)。シラードはそんなこと言ってないよ。全然そんなことは言ってない。シラードが言ったことは、信号が青に変わったのを覚えてる、それで交差点を渡り, あることがひらめいた、ということを言ってる。で、ついでだからもう一回この13ページ、英語の13ページに戻って下さい。パラグラフが変わるとこありますね。その一番目のパラグラフの下から3行目。こういう英語なんです。“As he crossed the street time cracked open before him….” ──シラードはこんな高級な言い方出来なかった、きっとね。シラード自身が書いたんじゃない。“time cracked open”ってのは……。timeって時ですよ、「時」。crackというのはパカっという音だよね。時がね、音を立てて彼の前で開いたんだ、時が。時が開くってどういう意味でしょう。……時が開いた。 “and he saw a way to the future,” そして未来への道を見ちゃったんですね。その次がすごい。“death into the world….” 世界の内側に入っていく死を見てしまった。“and all our woe, the shape of things to come.” この“the shape of things to come”は、H. G. ウェルズの本に、The Shape of Things to Comeってのがある。で、皆さんに渡したのは,あれは『開放された世界』というものだったね。その前だったか後だったかにH. G.ウェルズがあそこで書いた問題、核兵器の問題あるいは核エネルギーの問題について、もう一回書いたものがあった。その本のタイトルがThe Shape of Things to Comeなんです。

そうすると──後3分くらいで全部言っちゃいますけども──これはやっぱり「作文」であることは間違いないんですが、そのとき作文をする人間が働かせているものはなんだろう? で、一つはやっぱり「想像の力」だよね。もちろんほかにも山ほどいろいろあるでしょうが、非常にはっきりわかるのは、やはり美しい文章を書いて、未来のことを扱ったりとかあるいは何か自分の心の中で起こっていることを扱ったりする。これは「事実」を書いているんですよ、「事実」。しかし、そういうのは科学的事実にならない。

というようなことが一つでした。本当はもっといろいろ言わなきゃならんのですが、一番最初にあげた、詩みたいなもの、詩、それから小説……。そういうのは実は嘘を書いてるわけでもない、ということをおぼえておいてください。いいですね。本当は、もっとバリバリの「虚構」についてしゃべらないといかんかったんだけども、今日は「虚構」といってもあんまり馬鹿にしないほうがいいよ、ということまでしゃべりました。つまり、実は、「事実」というものは、普通「虚構」と言われてるようなものを取り入れないと書けない、ということです。でもそれとはまた別の「虚構」というものがあるんですけど、そっちの話はしません。やっぱり「想像力」というのがいりますね。しかもその「想像力」が、「想像力」に支えられているさまざまな事実に、もとづいたり、よりかかったりするということです。皆さんがレポートを書くときに、自分の脳みそがいろいろ想像力にしたがって動かないと、実はレポート書けない。「事実」だけ書こうと思ったら──その「事実」は何を指すかちょっと置いときますけども──結局何も書けないということがよく起こると思います。

■おわりぎわに

『アトミックソルジャーズ』それで、これを配ったらもう時間がなくなっちゃうと思いますが、今配ってるのは、『アトミックソルジャーズ』という本の訳者による「あとがき」ですが、1982年、社会思想社から出てます。ハワード・L・ローゼンバーグという人が書いた本で、で、その翻訳をしたんだね。その時のあとがきです。で、たいしたことは書いてありませんが、今日話したことあるいは昨日話したことと無関係ではありません。で、さっきのセミパラチンスクの写真を撮っていた森住さんが、「写真家と科学者」という、そういうタイトルをつけていましたね。で、因果関係が明らかでなかったら──荒っぽい言葉で「事実」といいますが──「事実」だというふうに認定されない。荒っぽい言葉だよ。少なくとも「科学的事実」ではないということになって、価値がなくなっちゃう。こういうことが原子力をめぐっては山ほど出てきます。いろいろあります。で、どうしてそうなるかということはあんまり言いませんけど、『アトミック・ソルジャー』は、それのもう一つの例だね。アメリカの兵隊さんたちが核実験にいろいろ立ち会うんですね。その結果、さっきの『セミパラチンスク』で見たようなことが兵隊さんたちの身の上にも起こる。そのこと自体がまず認定されない、科学的には。というようなことであります。はい、ここで「真実と虚構」はもうこれで終わります。

あと、いろんな発展のしかたがあるでしょうども、それは皆さんいろいろ考えて下さい。そして次週はいよいよ『苦海浄土』です。『苦海浄土』は本があるので皆さん手に入れといてくれるとありがたいです。

授業日: 2002年6月18日; テープ担当学生:谷脇愛、寺町歩、永野裕子、中原薫