第11回 訳文の修正に多くの時間を費やし、ポール・ハリソンの第三革命と「持続可能な開発」の関係にせまろうとしたが、尻切れとんぼとなった

中尾:レポートの提出期限はいつだったっけ?

学生:来週です。

中尾:着手した人いる? いろいろ問題があったと思います。ところどころちょっと文章がおかしいですね。気がついた人はいる?

ポール・ハリソンの『破滅か第三革命か──環境・人口・世界の将来』(Paul Harrison, The Third Revolution: population, environment and a sustainable world, Penguin Books, 1992/濱田 徹訳、三一書房、1994年)がありましたね。それから、いま配った「訳文の修正案と、若干の解説的な注」とかいうプリントがあるでしょう。それも出してくれる? そして『破滅か第三革命』の目次をちょっと見てください。第1章から第20章の「付録1」、「付録2」、「実践要領」という構成になっていますね。じつはポール・ハリソンの原文では、各章につけられているタイトルのほとんどはシェークスピアの『ハムレット』からとられています。日本語訳のタイトルはそれをまったく無視していて誤訳も少なくない。いくつか訳文の修正案を考えてみたいと思います。

『ハムレット』と『破滅か第三革命か』

第1章は「部分的真理──大論争」というタイトルがついているけども、もともとのタイトルは“One part wisdom: the great debate”です。今日配った訳文の修正案の方を見ると、なんて書いてある? シェークスピアの『ハムレット』(野島 秀勝訳、岩波文庫、2002年)からの抜粋があって「…人間とは一体、なんだ、食っては寝るだけが人生の能だとしたら? 畜生とどこが違う? 前を見、後を見、それで物事を計画する、そんな知力をふんだんに人間に授けてくださった方は、この能力、神のごとき理性が、まさか使われずに黴を生やすなどとは、思ってもいらっしゃらなかったにちがいない。ああ、このざまは畜生同然の忘却か、結果をあまりにも細心に考える臆病者のためらいが──細心に考えるといったところで、四つ裂きにしてみれば、知恵はわずかにその一分、あとの三分は卑怯者…」(第4幕 第4場、p.226-227)の「知恵はわずかにその一分」のところに下線が引いてあるね。One part wisdomっていうのは、こういうものみたいだね。

それから、第2章のタイトルは“The o’ergrowth of some complexion: three billion years of environmental crisis”ですが、日本語訳の「ある状況の過度な成長──30億年にわたる環境危機」っていうのはちょっと違うね。『ハムレット』からの抜粋によると「…とにかく何か一つの気質が勝ち過ぎて、それが理性の枠、砦を打ち壊したり、…(中略)…人間に可能なかぎりの美点があろうと、このたった一つの欠点ゆえにすべて朽ち果てほろんで、…」(第1幕 第4場、p.59)の「何か一つの気質が勝ち過ぎて」っていうところだね。

第3章は“Bounded in a nutshell: the new limits to growth”は「堅い木の実に閉じこめられて──成長の新たな限界」となっているね。翻訳すると「胡桃(くるみ)の殻に閉じ込められて」だから、それほど違わない。ただその背後に文脈があるんだよね。この部分はちょっと長めに引用してありますが、「いや、買かぶるのはよしてくれ。ぼくは胡桃の殻に閉じ込められても、無限の宇宙の帝王と思っていられる人間だよ、悪い夢さえみなければな。」(第2幕 第2場、p.112)って書いてあるね。その「胡桃の殻」なんだね。

それから、第4章は「スズメの墜落──生物の多様性は失われている」と書いてありますが、もとのタイトルは“The fall of a sparrow: the passing of biological diversity”です。『ハムレット』では、「雀一羽落ちるのも神の摂理」(第5幕 第2場「…占いなど誰が信じるものか。雀一羽落ちるのも神の摂理さ。…」、p.306)という部分だね。それと生物の多様性とどういう関係があるか。

それから第5章の「動物の保護──マダガスカル島ラノマファナの森」は“The paragon of animals: Ranomafana, Madagascar”ですが、『ハムレット』にあるこの部分は、そこに抜粋した野島秀勝の訳では「生きとし生けるものの典型」(第2幕 第2場、p.115)となっているようです。市川三喜と松浦嘉一の訳では「万物の霊長」となっていました。

第6章「斧を研ぐ──森の消失」というのは、ポール・ハリソンのつけたタイトルは“The grinding of the ax: deforestation”です。『ハムレット』のなかでは、「この書状を一覧のうえは、時を移さず、いや、斧を研ぐ猶予も与えず、即刻、ハムレットの首を刎ねよという、厳命だったのだ」(第5幕 第2場、p.292)というところです。斧を研いでる時間もかけないよ、斧なんか研いでるんだったら首を切ってしまえ、という話ですね。

第7章は「縮小と遅れ──森の調整」という日本語タイトルだね。英語は“Abatements and delays: forest adjustments”です。これはわからなかった。(注1)

注1 授業後に調べた学生によれば、ポール・ハリソンの引用した箇所は『ハムレット』第4幕 第7場、クローディアスがレアティーズに父ポローニアスの仇討ちをけしかける場面のセリフ。

王:…だから、したいと思ったら、そのとき直ちにすべきなのだ。
この「したい」という気持ちも変るものだからな。それでなくても世間には、
うるさい口が、邪魔だてする手がある、また何が起こるか知れぬ。
それで折角の気持ちも萎えたり、気おくれしたりする。
そうなれば、「すべき」というのも、徒に繰り返す溜息のようなもの。
一時の気休めにはなろうが、吐くたびに命の血は一滴、一滴と失われる。…(岩波文庫p.259)

King. ”That we would do,
We should do when we would, for this ‘would’ changes,
And hath abatements and delays as many
As there are tongues, are hands, are accidents;
And then this “should” is like a spendthrift sigh,
That hurts by easing”

第8章「不毛の岬──土壌悪化」は「A sterile promontory: land degradation」で、これは「…この地球も、荒海に突き出た荒涼たる岩端にしか見えない。…」(第2幕 第2場、p.115)の「荒涼たる岩端」だとわかった。

第9章「狭い農地──窮乏化」。原文は“A little patch of ground: living on the margin”。これはちょっとやり過ぎ。『ハムレット』からの抜粋は「…そんな小っぽけな土地を取りにでかけるのです。…」(第4幕 第4場、p.225)です。農地っていうのは、要するに狭い土地を人間が奪いあっていくんだね。

第10章「土の精──ブルキナファソ・カルサカ」は“Quintessence of dust: Kalsaka, Burkina Faso”だけど、これはやっぱり違う。『ハムレット』からの抜粋は「…生きとし生けるものの典型。しかし、ぼくには、人間など塵の塵としか思えないのだ。…」(第2幕 第2場、p.115)です。「塵の塵」となっていますね。市川三喜と松浦嘉一の訳では「…塵芥の精髄としか思われない。…」と訳されています。四つの元素からいろいろなものができているという考え方があるよね。第五元素は<愛と憎しみ>っていう説があったけれども、いや、そうじゃなくて<塵>だって説もありまして、つまりすべてのものはものすごく細かいものにすることができる。そうすると、みんな同じ塵になって、それが精髄だって言うんだね。そういうような意味です。でも、ハムレットの中では、要するに人間なんていうものはそういう塵の塵みたいなもんだ、という意味で書かれています。

第11章「金の採集──コートジボアール・アビジャン」は“The interim is mine: Abidjan, Cote d’Ivoire”ですが、これはもうどうしようもないですね。前に書いてあったから、mineを金鉱のことだと思ったんでしょう。これは「すぐにもな。それまでがこちらの時間、なんとか先手を打たなければ。」(第5幕 第2場、p.295)という、ハムレットのセリフにある「それまでがこちらの時間」という部分でしょう。ハムレットは最後に親友のレアティーズと決闘をして死んでしまいます。その決闘を始めるまで、わずかな時間があったんだね。「それまでは自分の時間だ」という意味です。

それから第12章「病弊の急速な進行──環境に対する都市の影響」ですが、英語は“The quick of the ulcer: the environmental impact of cities”です。この訳もわけわかんないな。これは『ハムレット』の中では「ところで潰瘍の傷口、問題の急所のことだが、…」(第4幕 第7場、p.259)という、ハムレットが言うセリフではなくて、クローディアスっていう悪いやつが言うセリフです。クローディアスがハムレットを指して、「潰瘍の傷口」みたいな奴だ、という言い方をしているんだね。

それから13章「ごみの時代──固形廃棄物の記念碑」は“The drossy age: monuments in solid waste”がもとのタイトルです。これはわからなかった。(注2)

注2 授業後に調べた学生によれば、これは第5幕 第2場のハムレットにレアティーズとの賭試合をさせようとするクローディアスの使者オズリックという廷臣を評したハムレットのセリフにある。

ハムレット:あいつは乳を吸うにも、まず乳首にうやうやしくお辞儀してから吸いつく、そんな赤ん坊だったにちがいない。ああいうのが──軽薄な世の中にうつつをぬかす数知れぬ同類のひょっとこどもが──時代の流行言葉だけを覚え、始終、たがいに上っ面の挨拶を交わし合っては、泡立つ浮糟のような空疎な新知識を身につけ、それを鼻にかけて、深遠な選り抜かれた考えの持主たちの間を、厚かましくも肩で風を切りながら罷り通っているのだ。しかし、試しにちょっと吹いて見たまえ。所詮はみんな、あぶくさ。はじけて消える。(p.304)

Hamlet. He did comply with his dug before he sucked it. Thus has he──and many more of the same bevy, that I know the drossy age dotes on──only got the tune of the time and outward habit of encounter, a kind of yesty collection which carries them through and through the most fond and winnowed opinions; and do but blow them to their trial, the bubbles are out.

それから第14章、英語では“A sea of troubles: polluted waters”ですが、日本語のタイトルは「問題の海──汚染水域」となっています。いかにもへんちくりんですが、実は、苦難が押し寄せてくるという感じだね。岩波文庫の野島秀勝の訳では「怒涛のように打ち寄せる苦難に刃向かい、…」となっていて、別の訳(市川三喜、松浦嘉一訳)では「海と寄せくるもろもろの困難に剣をとって…」と訳されています。

第15章「蒸気の集まり──大気汚染と気候変動」は、“A congregation of vapors: air pollution and climate”というのがポール・ハリソンがつけたタイトルです。これもわからなかったけども、明らかに変だよね。(注3)

注3 学生によれば、これは第2幕 第2場にあるハムレットのセリフにある。

ハムレット:…この壮麗無比の天蓋、大空も、それ、見たまえ、頭上を覆うこの美しい天空、火と燃える黄金の星々をちりばめたこの天井も、なんたることか、ぼくには疫病をもたらす穢らわしい毒気の凝塊としか見えないのだ……(p.115)

Hamlet. …this most excellent canopy, the air, look you, this brave o’erhanging firmament, this majestical roof fretted with golden fire, why, it appears no other thing to me but a foul and pestilent congregation of vapours

それから第16章「悲しみだけが人生のスパイスではない──バングラデシュ・ハチア島」は、もとのタイトルは“Sorrows come not single spies: Hatia Island, Bangladesh”です。これはとんでもないですね。これはデンマーク王クローディアスのセリフ「…不幸というやつは斥候のように一人でやっては来ない、…」(第4幕 第5場、p.235)からとられています。「スパイス」じゃなくて、「スパイ」(笑)。不幸っていうのは大挙して押し寄せてくる。スパイのように単独でやってくるものじゃない。

第17章「一般理論の構築」は別に『ハムレット』と関係ないタイトルです。

第18章「特別の欠陥──責任の割合」は、もとは“Particular faults: sharing the blame”で、『ハムレット』に関係あるけどもわからなかった。(注4)

注4 これは第1幕 第4場のハムレットのセリフにある。

ハムレット:一つの欠点を烙印のように焼きつけられ、ほかにどれほど純粋で、人間に可能なかぎりの美点があろうと、このたった一つの欠点ゆえにすべて朽ち果て滅んで、世間の非難を浴びることになる。ほんのわずかな疵がもとで、貴いものがすべて、帳消しにされ、揚句の果てに恥をさらすのは、よくあることだ。(p.59)

Hamlet. the stamp of one defect,
Being nature’s livery, or fortune’s star,
Their virtues else, be they as pure as grace,
As infinite as man may undergo,
Shall in the general censure take corruption
From that particular fault: the dram of eale
Doth all the noble substance of a doubt,
To his own scandal.

第19章「前兆への挑戦──行動の選択肢」ってのは、なんでこういう訳になっちゃうのかちょっと分からないですね。英語のタイトルは「We defy augury: options for action」で、『ハムレット』のなかでは「…占いなど、誰が信じるものか。…」(第5幕 第2場、p.306)というセリフに出てきます。ハムレットはある種の近代主義者です。合理主義的近代主義者。それで、占いとかで自分の行動は決めない、という意味の言葉です。

それから第20章「いま対処しなければ危機は現実になる──第三革命」ですが、英語は“If it be not now, yet it will come: towards the third revolution”です。これは先ほど言ったレアティーズという親友と剣の試合をすることを決めるときのハムレットのセリフ「…来るべきものは、いま来れば、あとには来ない──あとで来ないなら、いま来る──いま来なければ、いつか来る──覚悟がすべてだ。…」(第5幕 第2場、p.307)です。いまやらなけりゃ結局あとでやらなきゃいけなくなるし、いまやれば後でやらなくていいとか、いろんなことが書かれてあります。

このように、この訳者は、章のタイトルを『ハムレット』を参照せずに訳したという問題がありました。

「フーツーの詩」とは、武帝の「瓠子歌」のこと

タイトル以外にもいくつか誤訳と思われる部分があります。第16章の間違った訳でいくと「悲しみだけが人生のスパイスじゃない」というところですが、さきほどの修正案では、不幸は一人だけでくる斥候のようなものでなくて、いっぺんにどっと来ると説明しました。この章ではバングラデシュのハチア島のことが書かれています。ちょっとそのページを開けてみてくれる?

タイトルの次に「村はすべて川に覆われ、陸地の安全はなくなる。われわれは水域を点検するのにどういう手段を利用できるのか?──フーツーの歌『黄河の氾濫に寄せて』<紀元前一〇九年頃>」(『破滅か第三革命か』pp.255)という司馬遷の『史記』からの引用があります。先週、この「フーツー」というのは杜甫のことではないかと言っていましたが杜甫ではありません。

中尾:于頴さん(中国からの留学生)、これ(武帝を指して)なんて読む?

于:ウーディ。

中尾:ウーディ? ここに「フーツー」って書いてあるけど、「武帝」をそういうふうに読むことある?

于:ないと思います…。

中尾:変なこと言ってごめんね。ウーディとしか読まないみたいだね。日本語では「ぶてい(武帝)」(前159−87)と言います(英語表記では「Wu-di」)。ポール・ハリソンが引用した「フーツーの歌」というのは、どうやらこの武帝がつくった詩のようです。さっき配った「訳文の修正案と、若干の解説的な注」の4枚目の裏を見てください。漢詩がふたつ載せてあります。どういうふうに読むんだろ? 于頴さん、ちょっとこれ読んでくれる?

〈于頴さんが中国語で武帝の「瓠子歌」(内田 泉之助、漢詩体系 第四巻『古詩源 上』、集英社、1964年、pp.74-75、武帝「瓠子歌 二首」)を読み始める。〉

中尾:はい、ありがとう。下に書いてある日本語のところをちょっと見てね。

「瓠子決しぬ、将[まさ]に奈何[いかん]せん。
浩浩洋洋[かうかうようよう]として、慮[おおむ]ね殫[ことごと]く河[か]と為る。
殫く河と為りて、地は寧[やす]きを得ず。」

ポール・ハリソンが引用している「村はすべて川に覆われ陸地の安全はなくなる」というのは、どうやら「慮ね殫く河と為る」、「殫く河と為りて、地は寧きを得ず」というこの部分らしいね。どうやらこの部分と後のほうに出てくるふたつ目の詩の部分をくっつけたんだね。後のほうの引用は、ふたつ目の詩の6行目です。

「焼けて蕭條[せうでう]たり、噫[ああ]何を以[もっ]てか水を禦[ふせ]がん。」この「何を以てか水を禦がん」ってところが、「われわれは水域を点検するのにどういう手段を利用できるのか?」というところでした。この「点検」という言葉は英語では「check」でした。「check」というのは。「点検する」という意味もありますが、ここでは「防ぐ」っていう意味だね。どうもポール・ハリソンはこの部分を抜き出して、先ほどいった前の部分とくっつけて引用したみたいだね。

じつはこの本のもうひとつ別のところにも『史記』からの引用がありました。それは皆さんに読んでくるように指定した章ではありませんが、107ページから始まる「第6章 斧を研ぐ──森の消失」というところです。

「ウェイ・ホ(渭河)流域住民にとっては、充分な面積の低木林がないことが問題なのだ。彼らはこの土地を焼畑で荒廃させた。──中国フーツーの歌『黄河の氾濫に寄せて』<紀元前一〇九年頃>」(『破滅か第三革命か』p.107)と引用されています。いいかい? それで今日配った「訳文の修正案と、若干の解説的な注」の4ページをみてください。ポール・ハリソンが引用した英文をそのまま書き出しておきました。

There is not enough brushwood—
It is the fault of the people of Wei.
They have wasted the land with fire.(注5)

注5 The Third Revolution, p.88
もともとの出典は、Ssu-ma Chien, Shin Chi, 29, in Records of the Historian, trans. Burton Watson, Columbia University Press, New York, 1960となっている。ちなみに『史記』の日本語訳(司馬遷『史記2 書・表』、小竹 文雄夫、小竹 武雄訳、ちくま学芸文庫、1995年、pp.206-208)ではこの部分は次のようになっている──[ ]内は原書にふってあったふりがなをいれてあります。なお、日本語インターネット環境で表示できない漢字があるので、■をあててあります。
天子は決潰の箇所に臨み、工事の容易に出来上がらないのを悼み、歌を作って、

瓠子[こし]決すまさに奈何[いかん]せん
晧々[こうこう]■々[かんかん]として閭[りょ](州閭。村々)ことごとく河となる
工止[や]むときなくしてわが山平らとなる
わが山平らとなりて鉅野[きょや]■る
魚沸鬱[ふううつ]として冬日に迫る(魚はさかんに繁殖し、冬に近づくも水は引かない)
延道ゆるんで常流を離れ
蛟竜[こうりゅう]騁[は]せてまさに遠遊す
旧川に帰すれば神[しん]なるかな沛[はい]たり(水が旧道に還れば諸害が消除し、まことに神佑■沛)
封禅せずんばいずくんぞ外を知らん(都の外に洪水のあることがわかろうか)
わがために河伯にいえ、いずくんぞ不仁となると
泛濫[はんらん]止まらず吾人を愁[うれ]えしむ
齧桑[けっそう]浮かんで淮泗[わいし]満ち(齧桑〔地名〕が水上に浮かんで淮泗の水は満々とし)
久しくかえらず水これ緩たり(久しく故道にかえらず洪水は緩慢としている)

といい、また一首を作って、

河は湯々として激して潺湲[せんかん]たり
北渡迂[う]して浚流[しゅんりゅう]かたし(北に廻って浚流を渡りがたい)
長■[ちょうこう]を搴[と]り美玉を沈め(長草を取って決潰の口をふさぎ美玉を沈めて河神を祭る)
河伯許せども薪[しん]属[つ]がず(河神の許しを得ても薪が足りない)
薪の属[つ]がざるは衛人の罪なり(東郡で草を焼いたので薪が少なくなった。東郡はもとの衛の地)
焼いて蕭条[しょうじょう]たりああ何をもってか水をふせがん
林竹をくずして石■[せきし]を■[けん]にし(洪園の竹を編み石を入れて■とす)
宣房[せんぼう](瓠子の地)ふさがって万福来たらん

といった。かくてついに瓠子をふさぎ、宮をその上に築いて宣房宮と名づけ、河を導いて北のほうに二渠をやり、禹の旧道を復した。このためもとの梁・楚の地はまた安寧となり、水災がなかった。

これはふたつ目の詩の4行目「薪(しん)屬(つづ)かず」と5行目の「焼けて蕭條たり」というところまでかな。

この漢詩をつくった武帝という人はいつ頃の人かと言うと、紀元前の人です。その当時すでに中国の黄河流域はこういう問題を抱えていた。いまでも(そういう問題を)抱えています。紀元前って何年前? 2100年ぐらい前ですね。

さあ、みなさんはこの授業までにポール・ハリソンを読んだか、読み始めたかしましたね。何がわかってきただろう? いろんなことがわかってきたと思いますが、今日配った修正案はさらにご利用ください。

「第一の革命」「第二の革命」「第三の革命」をポール・ハリソンはどう書いているか

今日はちょっと考えてほしいんですが、ポール・ハリソンは、第一革命は農業革命であったと彼の本のなかで書いていますね。農業革命というのは、農業が変革されたことではなくて、農耕的な文明を指してるよね。第二の革命は産業革命ですね。これはもうみなさんがご存知のとおり、産業が革命されたのでなくて、産業と呼ばれるものが成立したんですね。これは農業中心でせいぜいそこに手工業的なものが加わった社会の姿から、産業社会に変わったことを意味しますね。

繰り返して言いますが、農業革命と産業革命というふうに言っています。そしてさらにポール・ハリソンは次の革命を準備しなければならない、というふうに考えています。次の革命にはあんまりはっきりと名前はつけていませんが、どうも最近よく使われている言葉で言うと、「持続的または持続可能な開発」を指しているように思われます。

さて、第一の革命というのは、いつごろから起こったことだと書かれていましたか? あんまりはっきりしないんだけどね。チグリス・ユーフラテスみたいな話は出てきた。では、チグリス・ユーフラテス文明というのはいつ頃でしょう。武帝の時代よりちょっと前ですね。ちょっとどころじゃないかもしれないね。もう歴史のものさしがおかしくなっているから、なんて言ったらいいか分かりませんけども、武帝の時代はもうすでに中国でも農業革命以降だね。

あるかなり大きな転換が起こることを「革命」と言ってますが、その農業革命後も、あるいは革命も、と言ったらいいか分かりませんけども、あるときすべてが変わってしまうのではなくて、少しずつ姿形を変えたんでしょうね。

革命を起こす主体は?──「人類」という主語

このように人類は、いままでふたつの大きな社会組織の変革を体験してきたことになっています。そしてポール・ハリソンは、これから三つ目の変革をするんだっと言ってます。で、誰がするのか。主語は人間だよね。「人類」という言葉をポール・ハリソンは使ってます。さあ、ここで考えなければならない問題が出てきます。

「人類の存続」っていうテーマがあるんだよね。人類によって、第一の革命があって、第二の革命があった。第一の革命はうまい具合にたまたま起こったのではない。それ以前の状況は……。狩猟採集という生活の仕方をしている、あるいはそれに応じた社会の形を持っている。hunter-gatherとか、huntingとgatheringという生き方をしていたわけです。しかしそれではもう社会を続けることができなくなって、人口が増えてきて、今までの狩猟採集の方法では人間が食べれなくなって、その圧力で農業革命が起こったというのが、ハリソンのとりたい考え方のようでした。

しかし、その農業中心の社会もある段階までくると、人口の圧力に耐え切れなくなって、それで工業を選択するようになったというのが、第二の革命までの進行の仕方であるとハリソンは考えたいようです。それで、ちょっとそこまでで考えなければならないことがいくつかあります。

人類って誰だ?(笑い)産業革命というのは、みなさんが知ってる教科書的な知識でも結局どこで起こった? ヨーロッパ? イギリスでまず起こったんだね。イギリスで起こって、半世紀ぐらい経ってからヨーロッパ全土に広がった。しかし、広まったのはヨーロッパ全土です。ヨーロッパ以外のところは第二の革命してなかった。にもかかわらず、人類が第二の革命を経験したかのように言わなければならないのはどうしてだろうか? という問題があります。

そうすると、さらに遡って考えてみたら、「第一の革命」とポール・ハリソンが言う農業にしても、地球上に住んでる人間がどの地域でも同じように農業を開始したわけではない。このことはポール・ハリソンも書いてるよね。つまり、現時点でも実は農業革命まで至っていないというか、そういうことが視界の中にないという人たちがいるということだね。

だけど、ここはなかなか難しいところです。そうであるにもかかわらず、人類という主語を使って考えなければならない。本当にそうかなあ? 僕にはまだよく分かりませんけども、ポール・ハリソンは一生懸命そういうふうに論じております。私にとっては、まだ未解決です。でもポール・ハリソンはそういうふうに論じているけども、ちょっとそこのところはうまくいってるのか、いってないのか、判然としません。いま言ったようなことが、問題のひとつです。

例えばこれは石弘之さんが書いたものと比較すると分かってくることですが、石弘之さんはこういう書き方をしていません。では、どういった書き方をしているか。これはみなさんがもう一回、石弘之の『地球環境報告』を読んで考えてほしいと思います。

ヨーロッパ中心主義?

これはなかなか難しい問題ですが、いま言ったことをもう一つ別な言いかたで言います。それは、「ヨーロッパ中心主義」という言いかたです。「人類の」歴史といっても、それは要するにヨーロッパの人たちが経験してきた歴史のことをさしているのではないだろうか、という言いかたが片一方にあります。ヨーロッパだけが人間が住んでいるところではありません。あるいはヨーロッパ以外の地域、アメリカもヨーロッパのほうに含めていいのか、ヨーロッパではないほうに含めていいのか難しいかもしれませんが、両方含めて欧米という言いかたをします。「欧米中心主義」と言います。

それに対して、もう一方の側には欧米中心主義を批判する立場があります。いまはその立場は第三世界とか発展途上国の立場と言われることが多いです。しかし、それですべてではない。つまり発展途上国の中にも、それからはみ出す人たちがいることが分かっている。繰り返して言うと、人類という主語を使っているけども、それは欧米の人たちを指して言っているんじゃないか、という考え方がある。

にもかかわらず、もう一つの見方を言います。おそらく、それはポール・ハリソンの考え方に近いと思います。なるほど、第一革命、第二革命と、ヨーロッパは人類の変遷──進歩とは言いますまい(笑い)──人類の歴史的変化の先頭を切ってきたかもしれない。これは、人類はこういう歴史的な発展を遂げなければならないという何か法則に従って起きたことでは必ずしもありません。法則がわかっているわけではないし、実際に歴史が進行してきたのは必ずやなにかの法則にしたがっているかどうかということは分からない。けれども、実際にヨーロッパを先頭とする人間の歴史はこういう道筋をたどってきました。それと同時に、そのヨーロッパが先頭をきっていた人間の歴史は、ヨーロッパ以外の地域にいる人たちをも巻き込んできた。その現実的な巻き込み方がどういうものであるかということも、ポール・ハリソンは少し描いています。

そして、ハリソンの立場は、ヨーロッパ中心主義の歴史観だなどと言って、ではヨーロッパをなくしたらいいんだ、という話にはならない。ヨーロッパがもし持続できなくなれば、ヨーロッパ社会が崩壊すれば、おそらく発展途上の社会も崩壊するだろう、というふうに考えているようです。もしなになにすればということで言ってもしょうがない話だから、あんまりそういうことは前面には出ていないかもしれません。しかし、少なくとも、発展途上地域と先進地域との間の関係については、そこは無関係だと思っていません。かといって、ではどういう明確な関係があるのか、ということは実はそれほど深く追求はしていない。ただ、実際に彼が見聞きしたことの先に起こるこれからのいろいろな変化を想像すると、先進工業地域と発展途上地域とは別々に論じることはできない、ということが彼の主張の大きな流れとしてあると思います。このことを抑えていただきたい。これがひとつ。

「持続可能な開発」の登場はいつ?

ほとんど同じような主題ですが、もう一つ違う言い方をしてみましょう。

中尾:今年の夏、ヨハネスブルクであったのは何ですか。

竹内:地球サミット

中尾:今年は何年?

竹内:2002年

中尾:ヨハネスブルクってどこにあるの?

長澤:南アフリカ

中尾:南アフリカですね。この会議のテーマというか、うたい文句はなんだった?

溝口:持続可能な開発

中尾:持続可能な開発。サブタイトルは何かなかった? 環境社会学科の諸君、がんばれよ。1992年には、地球サミットはどこであったの?

寺町:リオ・デ・ジャネイロ。

中尾:リオ・デ・ジャネイロってどこある?

溝口:ブラジル

中尾:地球サミットは、ブラジルであったんだよね。この時のうたい文句はなんですか。みなさんは、『環境社会学科キーワード集』を持ってるかい? それを見ると、出てるんだよね。なんか、いろいろ出てるよこれ。

詳しくはあとで各自読んでおいてほしいんですが、地球サミットは1992年6月にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された環境問題に関する国際会議のことですね。ストックホルムでの会議の20周年を記念して行われた。正式には「国連環境と開発に関する世界会議」と言います。約180カ国が参加したんだね。持続可能な開発を目指した「リオ宣言」、──これも持続可能な開発だったんですね──そのための行動計画である「アジェンダ21」が採択された。それから、もうひとつ採択された森林保全条約は原則声明の形になったけれども、温暖化防止のための「気候変動枠組み条約」と「生物多様性条約」のための署名が始まった。

さあ、1982年には何かあったかい? あんまりはっきりしないね。1972年、ストックホルムで、国連人間環境会議があった。皆さんが、生まれたのは、いつだ? 1980年ぐらい? さあ、『苦海浄土』が出版されたのはいつ? 1969年。『公害原論』が出たのは1971年だね。1972年のストックホルム国連人間環境会議には、水俣の患者さんたち、それからカネミ油症の患者さんたちが参加したんだね。そのころ、まだベトナム戦争をやっていました。

ストックホルム国連人間環境会議から20年経って、20周年を記念してリオ・デ・ジャネイロで地球サミットをやった。このときのストックホルム会議のうたい文句はなんだったでしょう? 何を決めたんだろう。さあ、これもあとで『キーワード集』を見ておいてね。

1972年6月にストックホルムで開催された国連人間環境会議で採択された「人間環境宣言」ってのがあった。それから国連国際行動計画を実施に移すための機関として、同じ年の第27回国連総会で設立されたのが、国連環境計画UNEP (United Nation Environment Program)っていうんだね。1972年の国連人間環境会議には、114カ国が参加して、「かけがえのない地球」をテーマにした。取り上げられた問題は、環境や資源の保護と管理、人口問題、野生生物の保護、核兵器の廃絶などで、この会議の最後に、いま言った「人間環境宣言」と109の行動計画を採択した。その行動計画のひとつに、さっき言った国連環境計画(UNEP)を設置することがあったんだね。分かった?

捕鯨禁止っていうのも、この時だったのとちがう? 多分そんなもんだと思います。それじゃあ、設置することに決まった国連環境計画(UNEP)ってどんな機関だろう。それも詳しくは『キーワード集』に載っていますが、UNEPの目的は、既存の国連諸機関が実施している環境に関する諸活動を総合的に調整管理することと、国連諸機関が着手していない環境問題に関して、国際協力を進めていくことということになってます。もう少し違う言い方すると、つまりそれぞれの国が環境についての情報を持ってるか、あるいは政策を持っているかっていうことを集めるんだね。これが第一段階。それから地球監視っていうのは、炭酸ガスの濃度がどうなってるかとか、気温がどうなってるかとかということを含むんでしょうね。あるいは、大気中の化学物質がどういう濃度であるかということを監視するんでしょうね。国連環境計画は、管理理事会、環境事務局および環境基金から成り立っていて、環境事務局の本部はケニアのナイロビに設置されているんだね。

ストックホルムの会議からいろいろあったけれども、UNEPができたんですね。さて、ブルントラント委員会っていうのは、いつ会議をしてどういうことを発表した?

ブルントラント委員会と呼ばれていますが、もとの名前は「環境と開発に関する世界委員会」と言います。そのブルントラント委員会が1987年に出した報告書には「地球の未来を守るために」というタイトルがついていました。1992年と2002年の地球サミットでは、「持続可能な開発」がうたい文句だったようです。1972年の国連人間環境会議では、「持続可能な開発」という言葉は使われていなかった。

ある人によると、ブルントラント委員会は、日本の提案で設立されたと書かれています。ほんまかいな?(笑い)おもしろいね。ブルントラント委員会が出した「地球の未来を守るために」というタイトルがついている報告書の中身はというと、環境問題は困ったものだから解決しなければならない、つまり、環境保全を目指さなければならないけども、環境の保全と開発の両方を目指さないといけないというものでした。つまり、この時点で、「持続可能な開発」という考え方が打ち出されているんだよね。知ってたよね。

石弘之さんの『地球環境報告』が書かれたのは、いつのことでしょう。見てごらん。1988年8月だよね。いままででてきたものがどんな順番で、どんなふうにならんでいるか、いま黒板に書いたような年表をつくっておくときっといいね。

「開発」の意味するもの

さあ、またもとの話に戻っていきますが、ポール・ハリソンが『破滅か第三革命か』を書いたのはいつのことでしょう。1992年だね。ハリソンの『破滅か第三革命か』という本は、大変一生懸命書かれています。そこで彼が一生懸命論じていることは、やはり「持続可能な開発」という考えかたにつながるようですね。たぶんブルントラント委員会報告の流れだね。いいですか。

それで、ついでだから言っておきますけども、もちろん1972年の国連人間環境会議が開かれるまでに、「環境」という言葉は使われ始めていたね。しかし、72年には、「環境」という言葉を正面にだして世界的な会議が開かれる状況にあったということだね。『公害原論』は1971年、『沈黙の春』は1964年に出版されたんだね。『沈黙の春』の中には「環境汚染」という言葉がわずか一箇所か二箇所出てきた。その中には、環境汚染という言葉があるけれども、焦点が当てられていたのは「農薬」です。こういう流れがありました。

これからがちょっと難しいんだよ。さっき言った問題だけど、人類の歴史というような問題がある。いまは世界的に世論ができる時代ですね。国連のようなところが一つの軸になって、それを中心にしていろいろ国際的あるいはグローバルな──ジャーナリズムもそうだけれども──議論が起きるんですね。言論活動が起きている。いわば世論がつくられていくわけですが、そのうたい文句が「持続可能な開発」だった。昔からあったわけじゃなくて、1980年代後半になって出てきた言葉だということを考えないといけない。

そもそも「開発」という言葉はどうやって登場してきたのか。困ったことに、僕らに責任はないですが、英語では「development」だね。「develop」とか、「underdeveloped」とか言いかたをします。非常によく似た言葉に「成長」という言葉があります。これはよく考える必要がある。なぜかと言うと、いわばグローバルな世論だよね。それを作っているわけですが、そのグローバルな世論が「開発」って言葉を使ってるんだよね。「開発」って言ってるんですよ。たぶん諸君も何のためらいもなく、「持続可能な開発」って言うでしょう。

だけど「開発」って何? これをいろいろ考えなければならないけども、寺町君がいまペラペラと見ているように、以前とりあげた1949年のトルーマンの大統領就任演説には、「開発」という言葉が出てきますね。多分この言葉が使われ始めたのはもっと古いと思うけど、非常にはっきりと、いまわれわれが使っているような意味合いを込めて世界的規模で「開発」という言葉が使われたのは、1949年のトルーマンの就任演説がその一つであることは間違いありません。すごいね、やっぱアメリカの大領領になると。

ポール・ハリソンが一生懸命考えようとしている全人類的課題としての「第三の革命」という問題

ここで言われているような視点を考えましょう。アメリカのような非常に大きな産業的力を持っている国の大統領が「どうだ自分たちはこんなに開発されてんだぞ。他のみなさんもこういうふうに開発をしないと貧乏であるとか、不幸、戦争は終わらないよ。アメリカはあるゆる力を結集して、科学者の力、資源の力、資本家の力、それからたくさんいる労働者の力を結集して、世界の開発の進んでない地域を支援する」という宣言をしたんだね。これ、ほんとにまじめに大統領が言ってんだよ! ここでいわれているような視点というのは、つまり、そこで使われているような意味の「開発」という言葉です。

ポール・ハリソンは「持続可能な開発」に近いところをねらって、彼は大変一生懸命に議論して書いています、と私は思います。でも、ここに問題がある。つまり、実はポール・ハリソンが一生懸命考える筋道とは全く違う筋道で、いま言ったような開発は今まで進められてきた。そういう開発の線上に果たして持続可能な社会があるだろうかということを考えなければならない。もちろんポール・ハリソンに言わせたら、「私の考えている開発は、そういう開発ではありません。持続可能な開発です」と言うに違いありません。けどれども、ハリソン以外の人たちも、同じ言葉を使って活動しています。Aさんが言う「持続可能な開発」とBさんが言う「持続可能な開発」は同じことを意味しない可能性が高い。

Aさん、Bさん、Cさんなどなどいろいろいるんでしょうけども、ひとつ、非常にはっきりよく分かるのは、ただ言ってるだけに近い人たちが山ほどいます。下手をすると、われわれもただ言ってるだけになっちゃうわけですが(笑)。「持続可能な開発」的な意味のコピー(宣伝文句)がコマーシャルの中に山ほど出てくるでしょう。車をたくさん売るヒトたちは、自分のところの車を使うと地球環境が改善するかのような言い方をしてモノを売ります。次から次へと、どうやら「開発」もします。これはひっかかったら具合悪いけども、その開発は、片一方の方には再生可能なエネルギーを使うなんちゃらっていうのがあって、片一方の側には、再生可能ではないかもれないけどもあんまり資源を使わないというものまで山ほどあります。でも、どうもすべて「開発」のように思われます。そういう意味の「開発」という言葉がある。

「研究開発」という言葉があるんですが、京都精華大学は優しい大学ですから、研究開発なんかあんまりしてない。だけども、いまや日本の大学はもっと「研究開発」をしなくてはダメじゃないか、と言われ始めている。これは「Research And Development」といって、略してRDと言います。RDにどれぐらい金を使っているか、どれぐらいRDをしてるか、ということが、これからの大学評価の一つの大きな柱になる。RDと開発は切っても切れないものです。研究と開発は切っても切れなくなっちゃった。「研究開発」って言うんです。つまり、開発をするためには研究がないと開発は起こらない。そういう意味だよ。

細かいことというか、かわいらしいことを言えば、ベンチャーとか何とか言っているのは、かわいらしいもんです。しかし、大きく見たときに「研究開発」ということが意味するのは一体なんだ? 繰り返して言いますが、1949年のあの就任演説の中に込められた意味が、まだそこにずっと続いている。その「開発」が生き残っている。

それは何を意味するか。大学にとっては、研究費が入ってくることを意味する。研究費は何に使われるか。研究者すなわち大学の先生が生きることに使われる。べつにものすごい金儲けするわけでもなんでもないかもしれない。しかし、もし大学がそれで生きようと思ったら、金もらって「研究開発」するしかないんだよね。そういう世界です。

「開発」ということが一体なにを、どういうことを意味するのか。普通、「開発」は「投資なくして開発なし」と言いますね。投資して開発が起こると、そこから何か得られるんだよね。投資ってのはたいてい「利潤なくして投資なし」って言うんだよ(笑)。そういう仕掛けがあります。

そういう仕掛けがあると考えてみると、産業社会を動かしている駆動力に着目をしないで、「第三の革命」は出来ないだろうと思われますが、ポール・ハリソンはそこには踏み込まないようにしてる。踏み込まないようにしているけど、ちょっとだけ言ってるんだよ。「世界規模での経済」とか何とか言ってる。「世界規模での経済」ってのは、悪い訳だね。グローバル・エコノミー、グローバリゼーションですよ。

(講義時間終了のベルの音が鳴ったのを聞いて)ああ、もう終わりの時間だ。ダメだね。90分でこれぐらいのことしか出来ない。困ったもんだ。毒消しというわけではありませんが、マーク・ハーツガード(Mark Hertsgaard)という人が書いた『世界の環境危機地帯を往く』(忠平 美幸訳、草思社、2001年)を紹介します。これを見ると、どうもそんなに簡単ではないよと書いてあります。もちろんポール・ハリソンも簡単ではないと書いてるんですが、どこに簡単ではない問題があるかというと、むしろ先進国の中にあるという見方がハーツガードの本にはあります。第6章は、「『持続可能な開発』と資本主義の勝利」となっています。なかなかいいタイトルだね。この本をちょっと見ておいてください。

来週は間違いなく、マルクスと柳田國男を読んで来てください。レポートの提出は随時してくださいね。

これで今日の授業は終わりにします。


注1〜5は授業公開をするにあたって追加しました。
注1〜4として追加した『ハムレット』は、野島秀勝訳、岩波文庫、2002年から引用しました。英文はインターネット上で公開されているThe Oxford Shakespeare: the complete works of William Shakespeare,(W. J. Craig (ed.), Oxford University Press, 1914)から引用しました。

参照リンク

シェークスピアの劇作37作品と154のソネットをたったひとつの単語を手がかりに検索でき、全文読むことができるページ
Yahoo! Reference:The Oxford Shakespeare: the complete works of William Shakespeare
授業日: 2002年11月26日; 編集:中尾ハジメ
テープ起こしをした学生: 小南真利