第2回 ジャーナリズム探求の「輪郭」!


荒畑寒村正午を告げる汽笛がするどく鳴りひびくと、カナつんぼに鳴りそうな工廠内のあらゆる騒音がハタとやんで、憑きものが落ちたような静寂にかえった。木工部の職工たちは艦載ボートの建造台が並んだ、木材や道具や鉋くずの散乱している床にあぐらをかいて、昼の弁当を食いはじめた。私はいつものように、下宿屋から届けられた弁当箱をつつんだその日の『万朝報』をひろげて読んでいるうちに、突然、火花が眼を射たような衝撃を感じた。秋水先生、枯川先生、連署の退社の辞がのっていたのである。

荒畑寒村『寒村自伝(上巻)』(岩波文庫、1999年)p.11「空想少年の生い立ち」より
挿画:『寒村自伝(上巻)』の表紙「ブハーリン筆の寒村像」から


ジャーナリズムとは何か? 「正解」らしきものをただおぼえるだけでは、たいへんむなしい。納得しながら考えをすすめるためには私たちは、一見するとその意義をつかみかねるような愚直な歩みをしなければならない。「環境ジャーナリズム」における「愚直な歩み」とは、「ジャーナリズム」の辞書的な意味を暗記することではなく、「ジャーナリズム」の実例に触れることにほかならない。しかし、中尾ハジメと学生達の歩みはまずは何処へ向かうのか?


第2回 ジャーナリズム探求の「輪郭」!:もくじ

資料の説明

今日は5種類の資料の説明をします。みんな準備できた? たくさん資料があるけれども、既に一回使ったものでも必ず毎回持ってくること。いいよね。授業には必ず持ってきてください。

荒畑 寒村『寒村自伝』

寒村自伝 上巻それでは資料の説明をしましょう。『寒村自伝 上巻』(荒畑 寒村、岩波書店、岩波文庫 青137-1、1975年)を見てください。最後から2ページ目に「寒村自伝 上巻全二冊、1975年11月11日、第1刷発行」と書いてある。これを<奥付>と言います。みなさんが本を手に入れたり、あるいはここから引用したりする時に、ここに書いてあるデータが役に立つね。出版社がどこだ、何年に出た、ということがわかります。表紙をめくった次の、写真が出ているページは<とびら>と言います。それから、さらに2ページほどあとに「はしがき」が出てきます。さらにめくってみてください。目次があります。そこの「2 週刊『平民新聞』」の140ページから始まる「東北伝道行商に出発」から「野に呼べる人の声」の最後161ページまで、それから204ページから始まる「3 日刊『平民新聞』」の「素人の新聞作り」から221ページ「吹雪の足尾を脱出す」まで、それから同じく3章の253ページからの「処女作『谷中村滅亡史』」の最後までの3つの部分は必ず読んでほしい部分です。

その次、『寒村自伝 下巻』(荒畑 寒村、岩波書店、岩波文庫 青137-2、1975年)を見てください。表紙をめくると「寒村自伝 下巻 荒畑 寒村 著」という<とびら>がついています。それをめくると、目次があって、次のページまでわたっています。ちょっととんで492ページを見ると「死なばわが むくろをつつめ戦いの 塵にそみたる赤旗をもて」という3行だけのページがある。その次のページから「著書目録」というのがあります。ページをめくってみると、それは裏のページに及んでいますね。荒畑寒村はこんな単行本を書きましたというのが並んでいて、さらにめくっていくと「翻訳書」とあります。その一番最後に「原始民族 生活社」とある。確認できましたよね。

『平民新聞論説集』

平民新聞論説集その次の資料『平民新聞論説集』(林 茂・西田 長寿 編、岩波書店、岩波文庫 青126-1、1961年)です。272ページからの「解説」を見てください。この解説文に続いて310ページから「年表」っていうのがある。この年表が使い手があります。『平民新聞』の歴史を知る上で使い手があるということだけではなくて、明治30年(1897年)から始まっていますが、足尾銅山の鉱毒問題をみようと思うとなかなか便利に利用することができます。後からいろいろ言いますから、この頃こんなことがあったっというのを、この年表に書き込むと役に立つかもしれない。皆さんがこれを読んで暗記するのではなくて、これを基準にするといろんなことを考えやすいという年表です。

荒畑 寒村『谷中村滅亡史』

谷中村滅亡史その次が、履修のてびきに書いてあった荒畑寒村(あらはた・かんそん、1887-1981)の『谷中村滅亡史』(荒畑 寒村、岩波書店、岩波文庫 青137-3、1999年)だね。本は薄いものです。全部で196ページ。奥付を見てください。これは実は1999年、ごくごく最近になって出版された。もともとの本は1907年出版です。1907年の本はもう誰もほとんど手に入れることはできない。したがって1999年にこの本をつくる時に少し手直しをしました。5ページに「凡例」と書いてありますね。古い字体ではなくて新しい字体にしたとかね。一部の漢字をカタカナ、ひらがなに改めたり、ふりがなや句読点を整理したというようなことが書かれています。そういう作業をした人は堀切利高さんという人だね。

さて、ちょっとめくってみてください。そうすると、まず「序」というのがあって、この最初の序を書いたのは田中正造(たなか・しょうぞう、1841-1913)という人です。さらにめくって見てください。そうするとまた「序」というのが出てきますが、この序を書いた人は木下尚江(きのした・なおえ、1869-1937)さんです。ふたつとも同じ一冊の本に書かれていたんだね。田中正造と木下尚江が序を書いた本。さらにめくると「自序」というのが出てきて、自分で書いた序という意味ですが、非常に短い序がありますね。「明治四十年七月 著者」というふうに書かれています。この著者というのは荒畑寒村です。

それから目次を見てください。この目次は1999年に出版された本の目次です。だから「凡例」というようなものは、もとの本にはなかった。田中正造の「序」と木下尚江の「序」と「自序」があって、それから「緒言」──と言いますが、一番最初の言葉、イントロダクションにあたるやつだね──が23ページにある。そして、本編が「第一 鉱毒問題の起因」から「第二十六 谷中村の滅亡」まであります。ずらーっと見てみるとわかるけれども、なんだか愛想のない「鉱毒問題第一期」、「鉱毒問題第二期」とかいう分けかたをして書かれていますが、「第六 兇徒聚衆事件起る」あたりから調子が変わってきますね。それで、最後のところが「結論」というふうになっていて、174ページからとなっています。それに続いて「解題」が堀切さん、「解説」が鎌田慧だね。これは1999年に書かれたものです。

みなさんによく読んでおいてほしいのは何かというと、「第一 鉱毒問題の起因」29ページから31ページ。それから60ページからの「第六 兇徒聚衆事件起る」という章。「兇徒」というのは、凶暴な人間のことを言うんだね。「兇徒」は「きょうと」と読むんだね。「聚衆」は「しゅうしゅう」かな。この発音が非常に難しい。その次は「第七 田中翁の直訴」という章です。

宇井 純 編『谷中村から水俣・三里塚へ──エコロジーの源流』

その次の資料を説明しましょう。見てすぐわかるように、ひとつは新聞の切抜きです。2003年1月28日の毎日新聞に宇井純さんという人を紹介した「ひと」欄です。「教壇から定年退職 公害問題の“職人”」と紹介されています。いまからみてもらうのは、この宇井純さんが編集したアンソロジーです。アンソロジーというのは、いろんな人が書いた文章を集めたものだね。例えば、「夏目漱石全集」というと全部夏目漱石が書いたものですが、アンソロジーっていうのは普通違う著者によって書かれたものを集めて一冊の本にしたものです。

谷中村から水俣・三里塚へ──エコロジーの源流奥付を見てほしいのですが、このアンソロジーのタイトルは、『谷中村から水俣・三里塚へ』(1991年)、副題が「エコロジーの源流」とついています。これは社会評論社が出している「思想の海へ[解放と変革]」というシリーズの24巻として出版されています。

目次ををちょっとみてください。「編者まえがき」ってあるね。編者とは宇井純さんのことですが。それは見開き分だね。6ページと7ページ。どういう趣旨で、こういうアンソロジーを作ったかということが書かれています。それから、その目次を見ると、第1部は「農書と地域の流れ」ということで、ここに出ているのはほとんど江戸時代のお百姓さんが書いたものですね。

ちょっとめくって第2部を見てください。「足尾銅山と渡良瀬川鉱毒事件」というふうに書かれています。46ページから庭田源八(にわた・げんぱち、1834-1921)さんの「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」というのが、まずあげられています。それから51ページからは田中正造「第二回帝国議会における質問」と「下野治水要道会趣意」という文章が載せられています。この「下」という字と野原の「野」と書いて、「下野(しもつけ)」と読みます。昔は、下野の国というのがあったんですが、今の栃木県にあたるのかな。その次に、先ほどの荒畑寒村の『谷中村滅亡史』の結論の部分が62ページから載っています。67ページからは島田宗三(しまだ・そうぞう、1889-1980)「谷中村問題解決奉告祭文」──顛末記──があります。そのあとの3つはですね、実はこれは必ずしも直接的に足尾の鉱毒問題とは結びついていません。『茨城県巨樹老木誌』という本のタイトルが入ったものは、日立鉱山の煙害問題ですね。いま紹介した庭田源八から島田宗三までが、『谷中村滅亡史』とともに、みなさんに読んでおいてほしいものです。

ちょっと見ていただきたいんですが、46ページを見てもらうと庭田源八「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」とタイトルが書いてあって、下に庭田源八という人がどういう人だったかが、ごくごく簡単に紹介されています。1834年に生まれて1921年に亡くなったんだね。それで、次の黒い点を見てください。「●本編は『足尾鉱毒亡国の惨状』東海林吉郎、布川了編・解説(伝統と現代社 一九七七年)に拠った。」(『谷中村から水俣・三里塚へ』p.46)と書いてあります。伝統と現代社というところから1977年に出版されたものから借りてきているというか、それに基づいてここにアンソロジーの一編として出しているということが書かれているわけですね。またあとで説明します。

それから、その次のページの下に「●なお、渡良瀬川下流域の農村の豊かさを描いた文章の一例として、大鹿卓「渡良瀬川」(一九四一年)の書き出しの部分をここにあわせて記しておこう。」(同 p.47)と書いてあります。こういうふうに、いわゆる本文についての注であるとか、あるいは何かそこに足しておいたら役に立ちそうなことが、この下のほうに少し小さめの活字で並んでいるという構成になっています。

立松 和平『毒──風聞・田中正造』

毒──風聞・田中正造もうひとつは立松和平の『毒──風聞・田中正造』(河出書房新社、河出文庫、2001年<単行本は1997年に東京書籍より刊行>)です。立松和平の簡単な紹介が裏表紙に載っています。目次を見てください。「第一章 なまずのつぶやき」「第二章 老農のつぶやき」──つぶやきが好きなんだね(笑い)──「第三章 我らが主人」とずーっと続いていきます。「第二章 老農のつぶやき」の途中38ページからをみてください。この老農のつぶやきがいつまで続くのかと言いますと、68ページくらいまで続きますが、57ページまでのところは読んでほしい。その次「我らが主人」は途中の90ページからこの章の最後118ページまで、それから突然とんで、335ページの「後記」のところは読んでほしいと思います。最後のほうのページを見ていただきますと、立松和平が参考にした文献類があげられていて、一番最後に奥付があります。

この資料を全部読むことが、まず大変です。したがって、全部読むという野望を持っている人は全部読んでくれたらいいけど、全部読まなくてもいいんです。まず、こういうものがあるということを知ってるといいね。それから、書いてあることをそのまま暗記するとか記憶しなければいけないということもありません。そういう問題ではなくて、この授業でいろいろなことを考えなければいけないわけですが、その考え方をつくるときにこういう資料は役に立つ。どういうふうに役に立つかということも考えなければいけないんですが、資料っていうのはそういうもんだね。しかし全く読まないってわけにもいかないですよね。だから、どっか読まないといけない。そういうような位置づけだと思ってください。

本を2冊紹介──チョムスキー『メディア・コントロール』と武田徹『戦争報道』

さあ、それで、一呼吸おいて、ちょっと違う話をします。

イラク攻撃をしましたね。それで、まだ、どうも決着はつかない。決着なんかつくわけないし、多分戦争が終わったという宣言もしないんじゃないかな…。例えば、日本とアメリカが戦争をしたときには「日本は無条件降伏をします」という宣言をするんだよね。そういうことしたんです。つまり、ブッシュ政権は、ある意味で──「ある意味で」というのは戦争をするのはお互い国家ですから、国家として対等に「負けました」とか、「勝ちましたとか」、「言うことを聞きます」とかいうことを言う。そういう関係がアメリカとイラクにはないんだね。いないんだもん。国家の責任を負っている人が存在しないというかたちで、まだことは進行しています。

その戦争について、みなさんは毎日のようにテレビや新聞でいろいろ読んだと思うんですが、本当にあんなもんやろか? それで、そのことを考えるために非常にいい本が、最近出た本が2冊あります。それを紹介しておきます。ひとつはね、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)という人が書いた『メディア・コントロール』(2003年)という本です。訳した人は鈴木主税さんという人ですが、集英社新書から出ています。これを読むと、この授業に非常に役に立ちます。660円。集英社新書ね。集英社ってわかる? それから、もう一冊あります。ちくま新書『戦争報道』(筑摩書房、2003年)。書いた人は武田徹さん。これは720円。

今日の本題──荒畑 寒村『谷中村滅亡史』

いよいよ今日のお話に入りましょう。ちょっとみなさん、さきほどみた年表を開けておくといいかもしれませんね。ちょっと行ったり来たりいろいろ話をしますけれども、ただこの年表をなぞるんじゃなくて、この年表に何かいろいろ書き込みをするといいかも知れない。

荒畑寒村少年の眼を射た火花──明治36年10月12日の『萬朝報』

荒畑寒村
荒畑寒村
先週もちょっとお話しましたが、荒畑寒村っていう人は明治36年、1903年にたぶん16歳ぐらいだと思います。荒畑寒村のこと調べてきた人いるかな? 調べてきた人、手を挙げてごらんよ。(ちらほら手が挙がったのを見て)はい、はい。

荒畑寒村という人は1887年生まれだね。荒畑寒村がいつ生まれたかなんてことは歴史に関係ないだろうと思うかも知れませんが、そんなことはないんです。荒畑寒村が偉いからとかいうことでもなくて、荒畑寒村という人が、これからみなさんが「ああ、こんな人がいたんだ」ということを知りたい人だからなんだよね。そうだよね? そうすると、「荒畑寒村という人はどういう時代に生きてきたのか」ということを知るために、いつ生まれたかというのは非常に重要です。彼は1887年生まれだよ。そうすると、1903年には何歳? 16ぐらいだよね。

先週もちょっと言いました。ここを読んでみましょう。『寒村自伝 上巻』の一番最初「空想少年の生い立ち」(p.11)っていうところです。

正午を告げる汽笛がするどく鳴りひびくと、…

これは船の汽笛かな。サイレンのことですね。蒸気で音が出るんだね。そういう汽笛が鳴りました。

…カナつんぼに鳴りそうな工廠内のあらゆる騒音がハタとやんで、…

「工廠」というのは工場のことですね。「ハタと止んで」は止まってということ。

…憑きものが落ちたような静寂にかえった。木工部の職工たちは艦載ボートの建造台が並んだ、…

「艦載ボート」っていうのは船。ここは軍艦を作っていましたが、その軍艦に救命ボートみたいのがあるよね。いろんなことに使われるのですが、その軍艦にのっけるボートを作っていた人たち──木工部の職工たちがいるわけです。

木材や道具や鉋くずの散乱している床にあぐらをかいて、昼の弁当を食いはじめた。私はいつものように、下宿屋から届けられた弁当箱をつつんだその日の『万朝報』をひろげて読んでいるうちに、突然、火花が眼を射たような衝撃を感じた。

火花に目を射られられたような衝撃を感じた。なんかにぶつかったんだろうか(笑い)。

秋水先生、枯川先生、連署の退社の辞がのっていたのである。

「秋水先生」っていうのは幸徳秋水(こうとく・しゅうすい、1871-1911)のことだね。それから「枯川(こせん)先生」というのは、さあ、誰でしょう。幸徳秋水ともう一人誰だっけ? 堺利彦(さかい・としひこ、1871-1933)だね。堺利彦のことを「枯川」と呼んでいたんだね。昔の人はシャレてたんですね。枯川先生、秋水先生っていう呼び方をしていました。それをしているのはまだ少年だよね。十代の少年。彼自身が職工だったのですが、昼飯を食っていたときに弁当箱を包んでいた新聞紙を広げで見ると、それはその日の朝刊で、そこにふたりが「連署」──っていうのはふたりで署名をすることだね──をして、退社の言葉が載っていたのです。「退社の辞」っていうのは、読むとちんぷんかんぷんでしょうけれども、ちょっと聞いてください。

予等二人は不幸にも対露問題に関して朝報紙と意見を異にするに至れり。

というのが第一行目。

予等が平生社会主義の見地よりして、国際戦争を目するに貴族、軍人等の私闘を以てし、国民の多数は其為に犠牲に供せらるる者と為すこと、読者諸君の既に久しく本紙上に於て見らるる所なるべし、然るに斯くの如く予等の意見を寛容したる朝報紙も、近日外交の時局切迫を覚ゆるに及び、戦争の終に避くべからざるかを思ひ、若く避くべからずとせば挙国一致当局を助けて盲進せざる可らずと為せること、是亦読者諸君の既に見らるる所なるべし。(同 pp.11-12)

とか、いろいろ書いてあるのですが、つまり堺利彦と幸徳伝二郎──幸徳秋水と呼ばれますが──この二人が、「私たちは万朝報という新聞社を辞めます」という記事を、その『万朝報』に載せたんだね。それを見て、荒畑寒村少年は目に火花が跳ぶほどのショックを覚えた。

…私はほとんど夢中に飯を食い終ると、すぐ工場の片すみに退いてもう一度、両氏の一文を読みかえした。日露開戦の切迫は…

日本とロシアの戦争がいよいよ開く戦争を始めるということが、もう迫っていたわけですが、

…毎日の新聞記事で、職工たちの寄るとさわると語りあう推測や想像で、また何よりも工廠自体の中断されない昼夜兼行の作業で、私たちにもうすうすは感ぜられていた。…(同 pp.12-13)

ようするに、ボートを造る、あるいは軍艦を造ることが、昼夜兼行──昼も夜もなく続けられていたのです。いよいよ、やっぱりこれは戦争だというふうにみんなが思っていたということが書かれてあります。

…しかし、いまこの退社の辞を読んで、私はもう戦争が現実に目睫の間に迫っていることを知り、そして今日まで文章を通じて深い感化を与えられていた二人の社会主義者が、一世をおおう主戦論の風潮に抗して敢然として戦争反対の叫びをあげたのを見た。私はいかに感激に身をふるわせながら、この断乎たる反戦の声明を読んだろう。(同 p.13)

「目睫の間」っていうのは、睫毛と目の間というのです。もう本当に近いということですね。「主戦論」というのは戦争をするべきっていう、論陣あるいは言説のことだね。

…この両氏の悲壮な宣言に接した今日、たちまち社会主義と非戦論との主張に感奮熱狂して、渾身の血を沸かしたのであった。

私の生涯のコースを決定したともいえる、明治三十六年十月十二日の感激は、永久に私の心から消え去ることはあるまい。(同 p.13)

と、いうのがまず書き始めだったのですね。幸徳秋水と堺俊彦が万朝報を辞める。辞める理由は、万朝報が戦争すべし、という意見になった。これはもう会社ごとそういうふうになった。「自分たちはずっと戦争に反対だというふうに言ってきたけど、戦争するべしと言っている会社で、自分たちはもう記者を続けることはできません」と言って、辞めたんだね。

ちょっと年表の方を見てごらん。年表の最初は何年になっていますか? 明治30年が最初だね。それでいま言ったのが、明治36年ですから、ちょっとめくっていってみてください。明治36年1月1日、3月3日ずっとあって、

一〇月一二日 幸徳、堺、内村万朝報退社(黒岩涙香主戦論となりたるため)(『平民新聞論説集』p.315)

この内村というのは内村鑑三という人のことです。この人はキリスト教の立場から日露戦争を始めることに反対をしていた人だね。そのうち、幸徳、堺は社会主義者。黒岩涙香(くろいわ・るいこう、1862-1920)という名前がありますね。「涙が香る」と書かれてあります。この人は『万朝報』を創った人です。『万朝報』を創った人ですが、この人も小説を書いたり、論説を書いたりしていた人だね。そのときに、荒畑寒村さんはまだ十代の少年であった。ということが、まず第一点。だからなんだってなもんですが(笑い)。

「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」の庭田源八という人物像をかりて立松和平が描くこと

さて、とびとびになりますが、立松和平の小説をちょっと開けてみてください。38ページ。途中からで何のことかわからないかもしれませんが、読みます。

まだまだ語り終えているわけではごさいません。老骨の妄言だとお思いの方は、足利郡吾妻村大字下羽田の庭田源八宅までお越しいただきとう存じます。心ゆくまで御説明申し上げます。(『毒──風聞・田中正造』p.38)

庭田源八さんですね。住所が書いてある。今度は庭田源八っていうのはどんな人かなあ、って思うわけですが、それで宇井純さんが編集をしたアンソロジーの46ページを見てください。庭田源八「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」が出てくるね。それで下のところを見ると、1834年生まれの人です。それで下の庭田さんの紹介をずっと読んでいくと、真ん中あたりに「俳句、和歌をよくしたという」(『谷中村から水俣・三里塚へ──エコロジーの源流』p.46)と書いてあります。俳句や和歌をよく作っていた人だということですね。その後に、「この実記は六十歳代に一五年以上昔の記憶をたどって書いたことになる」(同 p.46)とあります。

さあ、1834年生まれの人が60歳代というと何年から何年ぐらいのことだろう。単純だね。60を足したらいいんだね。そうすると、だいたい1894年ぐらいからに、60歳代だったんだね。仮に1894年だとしましょう。そっから15年遡った昔は何年になるか。引き算をすると1879年、つまりここには1880年ごろのことが書かれてあるんだと思ってみてください。

注意をしなければならないのは、1880年に鉱毒がはっきりと始まったということでもなさそうですね。つまり、庭田源八は自分が住んでいた地域がどれほど豊かだったのかを書いている。一段落目の最後のところで、「近年鉱毒被害のため小鳥少なく、二十歳以下の男子、この例をしる者なし」(同 p.47)と書いてあります。つまり、20歳以下の者っていうのは──書いている庭田源八が60歳だから──庭田源八さんが40歳ぐらいの時まではこうだったのだけれども、40を過ぎてからはこういうものはあんまり見かけなくなった。20歳って言っても、生まれてからすぐはいろんなことわからないから、もうちょっと差し引かなければならないかも知れませんけれども。でも、いつぐらいから小鳥などが見えなくなってしまったのかなあ、っていうことが、この文章で見当がつきますね。

つまり、もう一回言い直せば、1880年には、すでに鉱毒の被害はそのあたりにあった、という意味だね。もう確実にあった。しかし、それを何年遡ったらいいかというのは、厳密には言えない。ただ、20歳以下の人たちは「へえ、そんなふうな自然の生き物がいたの?」なんていうふうにしゃべっている、ということですね。こういうことが、まずここでわかります。

それで、もう一回立松和平の文章に戻ります。あっち行ったり、こっち行ったりして申し訳ないですね。みなさん、立松和平の文章にちょっと目を通してください。つまり、彼がこれを書いたのは1997年前後ですね。1997年に出版されていますから、当然いまの読者に向けて書いていますね。だから、これが読めないはずはない(笑い)。大学生であるみなさんは、これは読めるだろう。これは読めると思います。

これをずうっと見ていると、まず何が書いてあるかというと、なんか大雨で沈殿池が破れて田畑に鉱毒被害がはなはだしいとかいうことが書いてあって(『毒──風聞・田中正造』p.39)、それから代議士が演説をしたということが書いてあって(同 p.40)、それから田中正造が「帝国議会で鉱毒事件に関して、何度も何度も質問、演説、動議、また質問と、くり返したんであります」(同 p.42)とか書いてあるでしょ。こういうふうに庭田源八っていう人を借りて、いろいろ書いているんですね。

ここには、どうも、先ほどみなさんに見ていただいた「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」の中身はあんまり書かれていないね。では、ここに書かれてあることは何だろうというふうに思うわけですが、実は立松和平は「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」も、たくさんこの本のなかに抜き出して、みなさんに読みやすくしてあります。それ以外に、庭田源八の声を借りて、立松和平がここに書いていることは、いろいろありますが、一つは「川俣事件」。

兇徒聚衆事件起る──川俣事件

『谷中村滅亡史』をちょっと見てください。『谷中村滅亡史』に「第六 兇徒聚衆事件起る」(p.60)というタイトルがあります。この事件を後年、われわれは「川俣事件」と言うようにしています。これは大変な出来事だったんですが、どういうふうに大変だったのかということは、これもみなさんに考えていただきたい。どういうふうに大変だったと、みなさんだったら表現することができるだろうか? どこが大変なんだろうか?

こんなことはなかったんですね。明治の新しい政治体制ができてから、初めて起こったことだった。この『谷中村滅亡史』の60ページを見るとね、「三一年九月十七日、二十九年に比すべき大洪水あり」と書いてある。29年にも洪水があったけれども、31年にも洪水があった。この洪水がどうして起こったかというと、これも鉱山と無関係ではない。山の木を切っちゃうんですね。31年というのは明治31年のことです。明治31年というのは先ほどの年表に戻ってみると、これは西暦何年かな? ということもわかると思います。

たくさん被害があった。いま僕が読んでいる部分、あるいはみなさんが見ている部分は、これは荒畑寒村が書いているんですね。それからその被害が大きかったということから、いろんなことが起こったわけです。61ページの一番最後のあたりからみようかな。一文がとても長いんだよね。

…これ実に彼らが旧年中より、密かに議を凝しヽ処にして、その爰に出でし所以のものは、乞ふて聞かれず訴へて顧みられず、屈辱また屈辱、虐待また虐待、遂に忍ぶ能はずして、大挙被害地三四ヶ村、一千六十四字の惨状を、親しく国務大臣に訴へ、もし不幸にして肯かれざらん乎、非常なる方針に出でんとの決心なりき。(『谷中村滅亡史』pp.61-62)

「字(あざ)」というのは、村よりも小さな単位だね。つまり、国務大臣にこの惨状を聞いてほしい、もし聞いてもらえないんだったら、非常なる方針に出るよという決心をした、ということだね。

これより先き、群馬県警察は、本部を舘林町に移し、栃木県警察は、本部を佐野町に移し、憲兵数百人、また佐野町に屯所を設けて非常に備へ、而して各渡船場には、警官数十人づヽ出張して、警戒すこぶる厳なりき。

十三日に至るや、午前十時頃、雲龍寺を出でヽ舘林町に向ひたる時は、鉱毒被害民の数実に一万二千と号したりき。(同 p.62)

これはいわゆる主催者発表というやつですね。警察発表はこれより少ない。

…而して栃木県足利群久野村長、稲村与市これが将たり、…

この稲村与市という人は村長さんですけれども、この人がリーダーになったんですね。

…同県安蘇郡界村助役野口春蔵は一隊の青年を率ひ、馬に騎して号令を指揮しつヽ、…

つまり、何人か、全員ではないと思いますが、馬に乗っていた。

…旗鼓堂々として途に邑楽郡役所を襲ひたるに、…

役所を襲っちゃったんだね。

…郡長は恐怖して逃走せしかば、更に舘林町に向ひて、警察署の門前に出づるや、茲に警官との間に一場の争闘を惹起し、…

ここで争いが起こった、ということだね。

…遂に五名の被害民は警官のために負傷せしめられしにも屈せず、…

まだ負けないで、ということだね。

…警官が死力を尽せる防禦を蹴破り、更に進んで川俣に至りたるが、此処には警察官の全力と、数百の憲兵とが警戒し居れるより、野口春蔵の指揮する青年団二千五百人は、川舟二双を大八車に載せ、舟の前に斜めに切りたる青竹数竿を、剣の如くに装ひたるを曳き、警官もし峻拒せばこれを以って突き破らんと進み行きしに、一隊の憲兵巡査は、突如として藪陰より踊り出でヽ途を遮り、洋刀を以って突き立て、靴にて蹴倒し、拳を固めて乱打し、土砂を投げ掛け、負傷して倒るヽ者を捕縛する等、一場の大争闘を惹起し、被害民は遂に十数名の負傷者を出して退却するに至れり。(同 p.62)

というような具合でありました。これは実は警察が待ちかまえていたんです。利根川を渡らせないように、あらかじめいろんな橋を壊しておいた。被害民は川俣だったら渡れるかなと思って来た。渡る人たちは谷中村から80キロを歩いて東京までおしかけようとしたんだね。この「一万二千」人というのは、僕はちょっとオーバーだと思いますが、少なくとも数千の桁の人たちが80キロ歩いて、いまで言えば「デモ行進」をしたんですね。

そのころは「デモ行進」という言葉はなかったんです。これを「押し出し」と言った。おもしろいよね。その「押し出し」という言葉をつくったのは、そのデモ行進をしている人たちです。自分たちは何をしようかといろいろ考えたんだね。それで「押し出し」っていうのをやろうということになった。「押し出し」とは何ぞや。暴力はふるわない、歩いていく。歩いてお願いに行くんだ、と。

それで、ついでに言っちゃいますが、そういうことをすれば、警察が何かするだろうと思っていたに違いないね。だけど、こんなことをするとは思っていなかった。それから、新聞は必ずこれを取材して書くであろうと思っていたに違いない。あらかじめ新聞社に「押し出しをするぞ」と伝えていたに違いないと思います。本当かどうか確認する方法があったら、確認をしてみてください。

しかし、これは大変な事件で、この「押し出し」をする側がどの程度のことを予測していたか。それ以上の警察の対応だったんですね。法的に「押し出し」を禁ずることはできない。法律がないんですよ。「みんなで歩いて行って何が悪いの?」ということです。いまだったら道交法で車道を歩いたらいけませんとか、いろいろあるかもしれませんが、歩いていることを禁じることはできないでしょう。

ところが「こういうことが起こるぞ」ということを予想していたので、新しい法律をつくるのです。しかし、その法律はこの川俣事件が起きたあとに成立するんだね。川俣事件が起きたあとでできた法律をつかって、裁判にかけようとするんです。その法律をなんと言うか。それは、みなさん、研究してください。「治安維持法」とか、もっと後になると「破壊活動防止法」というのがありますけれども、かなりそれに近いようなものだと思います。それの前身にあたるような法律が、この川俣事件のあとにできたんです。川俣事件は明治何年ですか? 川俣事件は何年かということもご確認ください。鉱毒そのものは、さっきも言いましたが、川俣事件で突然始まるわけじゃなくて、もっともっと前から始まっていた。川俣事件でひとつのピークをむかえるということだね。

僕らの持っている問題意識の輪郭を鉱毒問題に照らして明かにする

本当に、ひとつのテキストだけを読んで何かがわかるというふうにできていない。残念ながら、僕らがいま持っている問題意識を、この鉱毒問題に照らしてだんだん輪郭を明かにさせていこうと思ったら、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしながらやるしかないですね、残念ながら。いま言っている「僕らが明かにしようとしている輪郭」とはなにか。

ちょっとだけ言うと、まずみなさんが読んでいるもの、そのものがジャーナリズムです。言わば、みなさんという読者に届いたんだよね。その仕事は、例えば、立松和平という人がまだやっている。1997年(『毒──風聞・田中正造』)に書いている。それを文庫本にするということは、ごくごく最近2001年に起こったことです。それを読んで初めて「足尾鉱毒事件というのがあったんだ」というのを知る人たちがいるんだね。

だから、みなさんはイラク戦争が起こったのが、日本時間で言うと3月20日だったということは覚えているかもしれない。けれども、いまから何年も経ったあと──みなさんが爺さん、婆さんになったころに──で、実はイラク攻撃というのはこんなことであったということが、小説家の手によって若い人たちにわかることになるかもしれない。それは困ったことと言えば、困ったことですが、しかしそういうふうにできているんだよ。困ったことですが。

それから、今度は逆に、もっとリアルタイムでいろんなことがわかるようにするにはどうしたらいいか、という考え方もありうると思います。そう思いますが、イラク戦争で言うと、リアルタイムでわかっていることも実は山ほどあるんだよね。われわれはよくわかっています。ブッシュが戦争を始めたというのをテレビで見ている。それから実際にミサイルが飛んでいって、バグダッドのどこに落ちたか。ここに落ちたとか、あそこに落ちたとかいうことも見えている。ついでに言えば、それで吹き飛ばされた人たちの姿も、実はわれわれは見ている。

だけど、それを見たからといって、俺たちはそこにどういうふうに介入できるか。リアルタイムに知っているということと、その問題を解決するのに自分たちが貢献できるということは直線的には結びつかない、という問題もあるよね。他にもたくさんありますが、例えばこういうのはジャーナリズムの問題なんです。やっぱり。

こういうことをいまやろうとしているわけですが、輪郭を描くのはなかなか難しい。難しいんですが、これだけ資料があれば、少し歴史を100年くらい遡って、その間に起こってきたこと、あるいは、むかし実は同時進行的に起こっていたことが何であったかということを、僕らは確かめることができる。

困ったことですが、「環境問題」というような問題と戦争の問題を切り離すことはできない。直接的にそれをつなぐ言葉を僕らはいま持っていないですよ。ほとんどない。あったとしても、例えば、劣化ウラン弾をたくさん撃ったらいけない、環境破壊になるよとかね。そういう程度のことは言えるかもしれない。だけれども、もう少し大きく考えてみて、そもそも「どうして環境破壊が起こるのか」ということと「どうして戦争をするのか」ということは無関係ではないみたいですね。

印刷メディア──新聞──手紙──裁判記録──印刷技術、製紙技術──識字率

幸徳秋水と堺利彦のふたりが『萬朝報』を辞めて、「平民社」をつくるんですね。その『平民新聞』は鉱毒事件について一所懸命書いた。鉱毒事件を問題にした。その流れのなかで、荒畑寒村という少年──そのときはまだ少年だったんです──は、東北に行商に行ったんだね。「社会主義伝道行商」というのに、リヤカーみたいなものを引いて行ったわけ。それこそ原チャリも何もないんですよ。この行商は自転車ですらない(笑い)。それでいろいろ本を売ったんだね。その本というのは、例えば、みなさんがいま読んだような、ああいう類の文章がおそらく書いてあったんだろうと思います。

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田中正造
その過程で彼は栃木県で田中老人に出会っちゃうんだね。田中老人に出会ったときは、彼はおそらく18歳くらいじゃないかと思いますが、老人のほうはもう60を超えている。本当のお爺さんです。僕もだいぶ爺になってきたけど(笑い)。その本当の爺と青年が、いわゆる約束をしたというのとはちょっと違うと思うけれども、何かあったんだね。その後、谷中村が結局は全部滅ぼされちゃうわけです。それは読んでもらったらいろいろわかると思います。これはジャーナリストとして書かないわけにはいかない、というので、寒村は書いたんだね。そのときに20歳。みなさんくらいです。こういうことになっています。

ちょっとまた遡りますが、その当時のジャーナリズムのなかで、足尾鉱毒問題を書いていた人は荒畑寒村だけではありません。さっきみてもらったみたいに、地元の人たちが一所懸命いろんなことを書いていた。ただし、出版ということになかなかつながらなかったんですね。いまは、出版だけではなくてテレビとかインターネットとかいろいろありますが、印刷をして出版をするということが、その当時としては大変な働きがあったんだね。総称して、こういうのを「メディア」と言います。印刷メディアですね。

よくよく考えてみると、印刷ではなくて、手で書いた手紙類──手紙とか訴状とか、「みんな、これ見てくれ」と言って渡すようなもの──がありますね。そういうものをまた誰かが書き写す。その書き写すことを写本と言います。要するに手書きのメディアもあったんだよね。裁判所で誰かがしゃべったことを、それを速記者が速記に残して、そこから普通の人が読めるように書いたものを裁判記録と言いますが、それもみんながまわし読みをしたりすれば、りっぱなメディアになるんだよね。何でもそうです。つまりメディアというのは、必ずしも大量に印刷されるものだけじゃない。

それから、もう少し言うと、印刷にもいろんな印刷があります。活版印刷(活字印刷)は活字を使った印刷で、グーテンベルグという人がヨーロッパで中世のヨーロッパで聖書を印刷したというので有名だよね。これは「グーテンベルグ革命」と呼ばれています。

明治の日本のことを想像していただいたらいいんですが、印刷技術そのものは、すでに江戸時代に長崎などを通じてそういうものがあるんだということはわかっていた。だけど、本格的に鉛の活字を使って印刷するようになったのは、明治に入ってからです。たちまちいろんな新聞社ができるんだね。山ほど新聞社が発生しています。とくに新聞社がたくさんできるのは、不思議なことに、日露戦争が始まるぞという頃でした。

実は別に不思議ではないんです(笑い)。つまり、日露戦争があるからということだけではなくて、日本が出版をして紙をまずたくさん造らないといけない。紙というのは大変なものですよ。伝統的な紙すきでやっていたのでは、たくさん造れませんからね。機械でつくらないといけない。そうすると、製紙技術が導入されて、印刷用の紙がたくさんつくられる。紙は何からつくるか知っていますよね。木を切ってこないといけない。たくさん木を切って、たくさん紙を使うようになる。

紙は教育のためにも必要だね。明治時代の識字率というのはどれくらいだったでしょう。あるいは、もうちょっと限定的に言うと、『谷中村滅亡史』が書かれた明治40年(1907年)の日本の識字率はどれくらいだっただろう。これを「リテラシー」と言いますが、こういうこともジャーナリズムを考えるときの重要なものさしです。読めなきゃしょうがない。それで、いまのわれわれは本当に読めるだろうか(笑い)、という問題があります。

今日はもういろんなことは言いませんが、来週は今日紹介したような資料をいろいろ駆使して、その当時の『谷中村滅亡史』というのが、どういうふうに位置づけられるかを考えてきていただきたい。えらい漠然としたことを言われて困るかもしれませんが、そんなに困らなくていいですよ。読んでいたら、おのずと「どういうことかな」というふうに疑問がたくさんでてくると思います。その疑問を追究できるものは追究しておいてください。追究できないものについては、僕が答えられるとも思いませんけれども、聞いてみるとかね。それから「こういうふうにとらえたらおもしろいんじゃないか」というようなことは、大いに考えておいていただければいいと思います。

さっき鉱毒問題について書いた人は荒畑寒村だけではなかったと言いましたが、他の有名な人を言うと、木下尚江という人がいます。この人はキリスト教の人ですが、毎日新聞にいたんだね。いまの毎日新聞とは違いますよ。いまの毎日新聞は、大阪毎日新聞と東京日報が合体してできたんだね。彼がいたのは、その当時の東京にあった毎日新聞です。木下尚江は毎日新聞に「足尾鉱毒問題」という連載の記事を書いていました。それを本にして出したのは、荒畑寒村よりかなり前の段階です。したがって、その有名な木下尚江さんの「序」が、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』に出ているんだね。木下尚江さんは昭和になっても生きていましたが、昭和8年ぐらいに中央公論にまたまた書いている。ですから、みなさんは木下尚江を追いかけてみてもおもしろいと思います。

これで今日の授業はおしまいです。

写真出典

  • 荒畑寒村」荒畑寒村『寒村自伝』上巻(岩波文庫、1999年)口絵より
  • 田中正造」宇井純『谷中村から水俣・三里塚へ』(思想の海へ[解放と改革]24、社会評論社、1991年)p.51 より
授業日:2003.04.22;ウェブ公開:2003.06.10:更新:2003.06.10;
テープ起こしをした学生:野村 哲也、長澤 智行
協力:川畑望美