第9回 科学? 事実? フィクション? ノン・フィクション?

第9回 科学? 事実? フィクション? ノン・フィクション?:もくじ

はじめに

いま配ったものを説明するね。裏表に印刷をしてあるものです。「科学」「事実」「フィクション」「ノン・フィクション」「ドキュメンタリー」とか「経験」「ルポ」「ジャーナリスティック」とかいうような項目が書いてあります。これは岩波書店の『広辞苑』から抜いてきたものです。その裏側は「経験」「体験」「当為」という3つの項目について書いてあります。これは岩波書店の『哲学思想辞典』から引っぱってきました。

それから今日取りあげる資料のおくづけをみてください。『広島・長崎の原爆災害』というタイトルの本です。編集をした、あるいは編集をしてこれを書きあらわしたという責任を持っているのは、広島市と長崎市の原爆災害誌編集委員会だね。著作権は広島市と長崎市が持っています。1979年の出版です。巻頭の写真3と4を見てください。「3 長崎、1945年8月7日、爆撃2日前.右上方から長崎湾に流入している浦上川.その流域一帯の工場と住宅.(撮影:アメリカ軍)#」「4 長崎、1945年8月11日、爆撃2日後.(撮影:アメリカ軍)#」とあります。アメリカの軍隊がつくった資料については「#」のマークがつけてあります。

その写真をちょっと見てごらん。原爆の3日前と2日後の写真です。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、市街区域みたいなものが非常にはっきりわかる左手の3の写真と比べて、右手の4の写真ではその区域はもうのっぺらぼうになっちゃって、全部灰と塵になってしまったという風景だね。

目次をみてください。「第I部 物理的破壊」となっていますね。第1章は「原子爆弾投下──広島・長崎の被爆」となっていて、この第1章は3ページから始まって、「第1章文献」の7ページまでのわずかなページで終わってしまっています。「第2章 原子爆弾とその熱線」これもたいしたページ数はありません。今日はこの第2章と第4章の「熱線・爆風・火災による総合的被害」、第5章の「原子爆弾による放射線」を、みなさんにみてもらおうと思います。目次のほかの章もみてください。この本がどういうものなのかということがわかると思います。これがひとつです。

それから今日とりあげるもうひとつの資料を説明します。みなさん、おくづけのところを見てください。『米軍資料 原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで』(東方出版)という長いタイトルがついていますが、1996年9月に出版をされた本です。本は1996年出版です。その上のほうに書いたふたりの人の紹介が載っています。奥住喜重(おくずみ・よししげ)さんと工藤洋三(くどう・ようぞう)さんだね。奥住さんは1923年生まれ。8月15日生まれなんだね。それから工藤さんは1950年生まれだね。この人たちはなんとなく物理学とか、そういう工学の人だね。

では、目次をみてください。最初に「口絵」「まえがき」「凡例」とありますが、口絵の「4」という写真をみてください。「4. 改修したB-29の爆弾倉内に吊された試験用模擬リトルボーイ、ウェンドーヴァー飛行場にて、1945年5月頃」と写真の下にキャプションがありますね。「リトルボーイ」というのは広島に落とされたものですね。それから「5」の写真には「内発型(ファットマン型)試験弾を作る、ウェンドーヴァー飛行場にて、1945年」と書かれています。「ファットマン」というのは長崎に落とされたものですが、この写真もそれの試験弾を作っているところです。1945年というのはわかるけど、何月かはわからない。

それから「6.かまぼこ型兵舎の中でモザイク写真を作る、おそらくはグアム島と思われる」と書いてありますが、グアム島というのはどこにあるか、あとで地図で確認しておいてくださいね。横井庄一という人を知ってる? 横井庄一というグアム島にずっと隠れていた元日本兵いるんだけど・・・。この写真が撮られたのは、グアム島はすでにアメリカ軍に占領されているときであろうというふうに考えているんですが、モザイク写真なんていうのはいまならば簡単です。衛星で一発で撮影できちゃう。それをわざわざ現像したりせずに、衛星から送ってきた画像をそのまま瞬時に解析して、「ここに誰がいる、こいつを殺せ」ということができるようになっていますが、その当時は飛行機で撮った写真をいろいろ何枚もつなぎあわせてモザイク写真を作っていたんですね。そのモザイク写真をもとにして、「資料I その他の資料」の「I-1 広島原爆投下用 XXI爆撃機集団石版集成図、広島地区、目標No.90.30市街地 照準点:063096」や「I-2 長崎原爆投下用 XXI爆撃機集団石版修正図、長崎地区、三菱製鋼および兵器工場、目標No.90.36-546 照準点:114061」にある「石版集成図」──「石版」というのは「リトグラフ」と読みます──のようにつくりかえて、これにいろいろ目盛りをつけて、爆撃の目標を定め、同時にこういう図面を持って飛行機に乗った人たちが爆弾を落とすんだね。そういうものです。

もう一度、目次のところを見てください。「資料D 電文集」とあります。「電文」というのは、電信で送った文章だね。そのころは電信ってどうやって送ってたかね? モールス符号かな。モールス符号って知ってる? 「ツーツートントン、ツートントン」ってやつだね。おそらくモールス符号か、なんらかの符号を使って送っていたと思います。それを文字になおしたものがここに集められていますが、いくつかは最高機密になっていました。最高機密というのは、おそらくはふつうの人はみることができなかったわけですが、30年を経過すると公開できるようになるんだね。みてもらったらすぐにわかると思いますが、その電文集は8月6日、これが一番最初に出てきます。それから「資料D-13」をみてもらうと、8月9日です。いろんなふうにこれをみてもらったらいいと思うんですが、注目をしてほしいのは、どういう言葉づかいというか、何がここで描かれているか。空の上からもちろんみているわけですよね。それから、爆撃機に乗っている人たちが何を目的にしているかということは、こういう文章からよくみえる。何がみえるか、何がみえないか、ということもわかるし、ほかにもいろんなことがわかると思いますが、最初から言っちゃうと、こういうのは、私たちがずっと考えようとしてきた「ジャーナリズム」という範疇からは相当ずれます。相当違うたぐいのものだということだと思います。ただ、「ジャーナリズム」はこういうものを使うことはできる。

科学と事実

一応、資料にはこういうものがあるという説明はしました。今日は「科学と事実」ということをしないといけないんだよね。みなさんはきっと、「科学」ってなんだろうとか、「事実」ってなんだろうとか、いろいろ考えてきたに違いない。考えるために手がかりはないかなと思って、事典を引いたりいろいろしてきたよね。

さあ、「科学」ってなんだろう。ちょっと『広島・長崎の原爆災害』をみてください。これは科学とはどういうものかをみるためのサンプル。「ああ、科学ってこういうものだ」ということがわかると思います。ちょっと目次をみてください。目次自体もおもしろいんですが、たとえば「第2章 原子爆弾とその熱線」というところをみてください。「広島および長崎に投下された原子爆弾は・・・」という書きかたで始まっていますね。これは別に科学者でなくても書ける。

それから「それぞれウラン235(235U)およびプルトニウム239(239Pu)を使用したものであった.」と書いてあります。この文章はちょっと科学者でないと書けない。「これらの原子の原子核に高速中性子を衝突させて爆発的な核分裂連鎖反応をおこさせ、それによって大きなエネルギーを発生させたのである.」というのは、かなり科学者でないと書けない(笑い)。その次は「発生したエネルギーは、戦後かなり長い間、広島・長崎とも高性能通常爆薬TNTに換算して20kt(キロトン)のエネルギーに相当すると言われていた.」と書いてある。これはちょっとだけ科学者でも書ける(笑い)。「しかし最近、広島原爆のエネルギーは12.5±1kt、長崎原爆のそれは22±2ktであったと推定されるようになった.」この文章自体はちょっと科学者だったら書けますが、注をつけたり、その注のものを読んだりするということを含めると長澤くんにはできないかな(笑い)。「20ktのTNTから放出されるエネルギーは、1kgのウラン235が完全に核分裂したとき解放されるエネルギーにほぼ匹敵する.」これも本当にわかって書くためには、相当科学者でないとだめですね。僕には書けない、そういうたぐいの文章です。もし僕が書くとすれば、そういうふうに言われているというふうに書くことができる。

そうすると、そういうふうに言われているというレベルの考えかたで、ここで少しものを考えてみましょう。科学的考えかたの第一段階というのは、おそらくこういうものだろうということを少しやってみようと思います。「20ktのTNTから放出されるエネルギー」というのは、「20kt」というのはその前に書いてあるように、広島をあんな状況にすることができたエネルギーだよね。広島、長崎を壊滅的にしてしまったエネルギー。「1kgのウラン235が完全に核分裂したとき解放されるエネルギーにほぼ匹敵する」だって。

さあ、そこで、科学者ではないけれども、科学的にちょっと考えてみようと思う人は、こういうふうに考えるよね。下に「図 2.1 広島に投下された原子爆弾の外観(模型)」というキャプションのついた図があるでしょう。文章のなかでその図を説明した箇所を読むと、「その大きさは、長さ3m、直径0.7m、重さ4tであった.」あるいはその次をみると、長崎に投下された原子爆弾の説明があって「長さ3.5m、直径1.5m、重さ4.5tであった.」とあります。それでちょっともどってください。「1kgのウラン235が完全に核分裂したとき解放されるエネルギーにほぼ匹敵する」と書いてありましたね。1tって1kgの何倍だ? こういうのはメモするといいんだよ。考えてごらん。「キロ」というのは「1000」だよね。1kgの1000倍が1tです。ということは、4tは1kgの4000倍ですよ。

ふつうは──これはみなさん、最近よく聞くことだと思いますが──ウラン燃料というのがあって──ウラン燃料というのは、ここに書いてあるウラン235というようなやつですが──これを、軍用あるいは軍事用ウラン、あるいは兵器級ウランという言いかたをするんだよね。90%以上の純度と言われています。1kgのウランすべてが核分裂連鎖反応を完全にすれば、TNTで20ktの破壊力がある。広島に落ちた原子爆弾とか、長崎に落ちた原子爆弾(に使われたウラン)が、実際にどれくらいの純度のもので、何kgであったかということは、僕は知りません。知りませんが、仮に純度が90%だったということで、もし1kgのウラン235がTNTで20ktの破壊力であったとすれば、純度90%なら1.1kgのウランになるよね。それだけの塊。それだけの塊は、どのくらいの大きさだと思う? きっとゴルフボールよりも小さいくらいです。その大きさで重さが1kgとかいうんだったら、(手で)持てますよね。それでキャッチボールしたりしてね(笑い)。問題なのは、そういう兵器級のウランをどうやって管理するか。そういうウランは、いま世界中に山ほどあるんだよ。いまの問題はいいですか?

中尾:なんでゴルフボールの大きさで1kgもあるのか、わからない人いる? 正直に言って「そんな小さいのに、どうして1kgなんて重いんだろう」と思う人? そうは思わない? 大丈夫? じゃあ、水だったらどのくらいの大きさになりますか?

吉田:1リットル

そうそう。1リットルっていうのは、一辺が10cmの立方体だよね。縦10cm、横10cm、高さ10cmだよね。水ならば、これで重さは1kgになるよね。いいよね。鉄だったら、これはどれくらいの大きさになる? これはね、比重というものがあるんですよ。鉄の比重は、7.8、水の比重は1.0。条件はいろいろあるようですが、この比重になるのは摂氏4度で1気圧のとき、だよね。逆に言うと、これだけの容積を持っている水の重さを1kgと決めたんだよね。鉄の比重は7.8だから、鉄の場合には一辺の大きさは何cmになるでしょう。これはそんなに難しくないよね。一辺を「X」とすると、「X3=」どうなるの?

さあ、どうやったら鉄の立方体の一辺を出せるか。重さ1kgの鉄の立方体の一辺は何cmになるか。ちょっと計算してごらん。どういうふうに解いたらいいか。容積そのものは7.8で割ったらいいんじゃないの? 「重さ=容積」じゃないでしょう。だから容積を出すためには、1を7.8で割るんじゃないの。じゃあ、1を7.8で割ったらいくつになる? 1kgは1000cm3でしょう。だから1000を7.8で割ったら、「128・・・」こんなような数になるわけですね。そうすると、これはcmだから128cm3だよ。これで一辺が何cmになるかという計算したらいいんだよ。一辺は何cmになるでしょう。近似値でいいから計算して。125cm3の立方体の一辺は5cmですよ。128 cm3にしようと思ったら、一辺は5.01cmくらいかな? だから1辺が5cmの鉄の塊はだいたい1kgあるんですよ。

さあ、その次。ウラン235というのは、比重がいくつかというと、19.06と言われています。1kgのウランの立方体は一辺何cmになる? ああ、もう5時4分(授業開始から約45分経過)になっちゃった・・・。面倒くさいから、比重19.06を20として計算しようか。すると、ものすごく簡単にウラン1kgの容積は50 cm3になるよね。容積は50 cm3になるためには、一辺は何cmか。「3×3×3=27」だから、一辺は3よりは大きいんだよ。「4×4×4=64」だから、4じゃ大きすぎる。そうすると、3cmと4cmの間だよね。おそらく一辺の長さは3.7cmくらいだと思うけど、そうするといくつになった?

長澤:50.653

そんなもんだと思います。だから広島を壊滅状態にしたのが、ウラン235の塊でどのくらいの分量だったか。一辺たった3.7cmの立方体のウラン。その当時は4tとかいう、でっかい爆弾でした。中身はたいして大きくないですよ。でも外が大変なんだよね。でもいまはどんどんどんどん技術が進んでいるから、本当にスーツケースに入れて持って運べるようになった。しかも広島みたいにあんなに破壊しなくてもいいから、あれの半分くらいにできないかということで、またいろいろ工夫をしているみたいです。

こういうような話はかわいらしいけれども、科学の世界なんです。ついでに、東海村の臨界事故というのがあるでしょう。知っている人?(多くの学生の手が挙がったのを見て)おお、みんな知っているんだ。えらいね。「臨界」っていうのは、この前も言いましたが、要するに核分裂連鎖反応が起こってしまうのを臨界って言うんだよね。それで「臨界量」というのがあります。純度がいくら高くてもウラン1gと1gをくっつけても、核分裂連鎖反応は起きません。それはある量に達しないと起きないんです。したがって、原子爆弾は原理的には、くっつけてひとつになったら臨界になるような量を離して置いておく。そして、それを爆発させたいときにくっつける。そうすると爆発しちゃうわけだね。こういうしくみでできています。

東海村ではそんなことをしたいわけではなかったんだけど、核分裂連鎖反応が起きちゃった。そのときにひとつのバケツで運んでいたウラン燃料のもとになるものは2.3kg。このもとになるもののウランの濃度は18.8%だった。2.3kgのなかに純粋なウランはどのくらい入っているんでしょう。はい、計算して。簡単だよ。2.3に0.188を掛けたらいいんだね。東海村の作業をしている人は、1日目(1999年9月29日)にこれを4杯入れてかき混ぜた。2日目(1999年9月30日)になって、さらに3杯を1日目の分に足した。ということは、あのかき混ぜる機械の中に入っていたのは合計7杯分入っていたんですね。2.3kgの7倍はいくつ? 16.1kgだよね。その16.1kgの燃料をつくるもとになる溶液の中に、純粋のウランは何kgあった? これも16.1に0.188掛けたらいいんだよ。3.026kgだよね。3kgちょっとだったら、計算上は広島並みの原子爆弾は3発できるということだよね。わかったよね。

そうすると何を心配しないといけないか。要するに日本中でつくられていたり、運ばれていたりする原子力発電の燃料になるはずのものを盗んでいくのは簡単だね。それを適切に処理をすれば、核爆弾をつくることができる、ということだよね。よくよく考えてみると、日本にはそういうことをする人はあんまりいないかもしれないけど、ほかのところにはうじゃうじゃいるんじゃないかな(笑い)。でも、日本にいないと言いきれるだろうか。盗んでいかなくても、つくるという方針にしたらすぐできちゃうよね。こういう問題がここにはありました。

さあ、科学の遊びはもう終わり。『広辞苑』から抜き出してきた資料の「かがく」というところを見てください。「世界の現象の一部を対象領域とする、経験的に論証できる系統的な合理的認識。」と、なんか難しいこと書いてありますが、いまウランの濃度だとか、容積だとか、重さだとかいろんなこと言っていたよね。これは合理的認識です。「研究の対象や領域によって種々に分類される」と書いてあります。それはそうだろうね(笑い)。そして「狭義では自然科学と同義。」と書いてあります。まずこのことをちょっと考えてほしい。

もともとの目標はどこにあるかというと、「ジャーナリズム」というものはどういうものなんだろうかという、とんでもない問題にみなさんは挑戦しているわけです(笑い)。これが一番大きい問題だよ。そしていまその周辺をうろうろうろうろしているわけです。その周辺で考えなければならないことのひとつに、どうやら「科学」というものがあるなというふうに思います。今回のこの授業のタイトルは、「科学と事実」というんだよね。「事実」を同じく『広辞苑』でみてみると、どういうふうに書いてあるか。「じじつ」の項の最初のところを見てください。『史記』の「荘子伝」の中に書いてあるんだって。「事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄。」と書いてあるね。「事実」という言葉はもっと前からあったかもしれませんが、『史記』の「荘子伝」というところに「事実」というふうに書かれていた。そんなに難しくないかもしれませんが、たぶんみなさんが議論をしていて、「本当にあったかどうやってわかるのか」とかいうことを考えはじめると、たちまちわけがわからなくなってきます。しかし、一応ここにこのように書かれてあるということをみてください。

次のところに哲学では「事実」を何と言っているかが書いてあります。だけど、哲学と言ってもいろいろあるからね。その哲学のうちのどれを採用しているかということは『広辞苑』のこの項には書かれていませんが、「本来、神によってなされたことを意味し、・・・」俺は神を信じていないという人は、ここは無視してください。その次は「・・・時間・空間内に見出される実在的な出来事または存在。実在的なものであるから幻想・虚構・可能性と対立し、所与として当為的なものと対立し、個体的・経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。」と書いてあります。「当為」ってなんですか? わかんないよね。「当為」というのはこの資料の裏をみると書いてあります。

当為 〔英〕oughtness〔独〕Sollen〔仏〕devoir
中世高地ドイツ語s(ch)olnは、もともと『義務づけられている(verpflichet sein)』『べきである(sollen)』ということを意味しているように、当為は、言語的には、負い目(Schuld)、負い目がある(schulden)などの言葉と類縁関係にある.当為とは、『まさに為すべきこと』をいい、あるがままの姿としての『存在』の対概念であり、現状の状態を変えてまでも新しい事態を行為によってもたらすことを人間意思に命ずるものである.したがって、当為とは、価値あるものとして肯定される存在や生起を要求すること、特に価値の実現を意思に内面的に要求することである.当為は、このように、自然を存在に則して考察する理論的科学的観点とは違って、極めて実践的道徳的観点をもたらすものであり、カントによって初めて哲学用語、とくに倫理学の基本概念として導入されたものである.すなわち、『存在』としての自然の事実を説明する理論理性(悟性)の立場と、『当為』の世界としての実践理性(意志)の立場、自然科学的観点と道徳的行為観点とはそれぞれ全く別の秩序と法則によって方向づけらえている.・・・」(廣松渉ほか編『岩波哲学・思想事典』 岩波書店、1998年)

なんのことだろう?(笑い) 難しいよね。それでもう一回『広辞苑』の方に戻ってください。「事実」は「・・・実在的なものであるから幻想・虚構・可能性と対立し、所与として当為的なものと対立し、個体的・経験的なものであるから論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。」と書いてあって、そのあとに3つめの意味が「(副詞的に)ほんとうに。じっさい。」とあります。そして「事実僕は何もしゃべっていない」という例が挙がっています。こういうふうに使う。これは大変に難問だよね。

われわれはわからない言葉を覚えることはできない。「当為」という言葉を理解したいけれども、どうも簡単には理解できそうにない。わからない。これから大事なことを言うよ。それで『広辞苑』をみながら、みなさんは、「自分たちが」あるいは「自分が」使っている「事実」という言葉は、『広辞苑』をみて「ああ、そうか。そのとおりだな」と思うようなものがあるかないか。ここに賭けるしかないんだよね。「なるほど、この説明で私が使っている使いかたはぴったりだ。これで説明されている」と感じることができるものかどうか。それを考えながら『広辞苑』の説明をみてください。

それからさっき「科学ってこういうもんだよ」ということを言ったよね。みなさんは(中尾がそう説明したのを)どう思っているかしりませんが、これまでみなさんそれぞれが「科学」という言葉を使って、なにかを言いあらわしてきたわけだよね。例えば、『広辞苑』をみたときに、「これが俺の使いかただよ」というのがあるか、ないか。それをちょっと確かめてみてください。

同じように「経験」というところをちょっとみてください。「経験」とはなにか。いろいろな使いかたがあるらしいけれども、一番目には「人間と外界との相互作用の過程を人間の側から見ていう語。」と書いてあります。「えー、そうかな」と思うかもしれないし、「いや、そのとおりだ」と思うかもしれません。そのあともう少し説明がありますが、その次の「イ」というところをみてください。「人間の直接にぶつかる事実。」と書いてあります。「ぶつかる」ってどう「ぶつかる」んだろうな(笑い)。「人間の直接にぶつかる」というのは、物理的にぶつかることを意味していないと私は思います。「ロ バラバラな非組織的な事実。」「ハ 感覚。印象。」「ニ 外界・内界の両面から見た意識過程。」「ホ 何事かに直接ぶつかる場合、それがなんらかの意味でわれわれの生活を豊かにするという意味を含むこと。『得がたい──』」と書いてあります。2番目の説明を読んでみると「【哲】感覚・知覚を基礎にして知的活動までを含む体験の自覚されたもの。この認識における価値については哲学的立場によって異なる。」と書いてあります。「いやー、『自覚』がでてきちゃったな。困ったな」という感じがするかもしれませんが、『広辞苑』には「経験」はこんなふうに書いてあります。

繰り返して言いますが、『広辞苑』をみて、みなさんは「私がこれまで『経験』という言葉を使うときに使っていたのは、こういう意味合いだよ。なるほどそうだよ」というものがあるか、ないか。これは「ない」可能性があるんだよね。「ない」ときに、自分は「経験」という言葉をこういう意味合いで使っている、「経験」という言葉を例えばこういう用例──「経験がある」とか「経験がない」とかいうふうに使っているということを、もし説明したらこうなるという自分の辞典をつくるしかない。だけど、「事実」や「真実」という言葉を平気で使っているよね。まずちょっとそれを考えてください。

まだ結論はパッとでなくてもいいんですよ。考えなきゃいけない。その次の「フィクション」という言葉の説明をちょっとみていただくと、「1 作りごと。虚構。2 作り話。創作。小説。」と書いてあります。さあ、みなさんは「フィクション」という言葉を使ったときに何を意味していただろう、と自分の頭のなかで考えてみてください。俺の顔を見ていてもダメだよ。こっち(資料)みなきゃ。

次に「ノン・フィクション」という言葉が書いてあるよね。「事実に重きを置いて作られた文学作品・記録映画。」とあります。そうすると「文学作品」というのは小説というようなことが含まれるんでしょうから、「ノン・フィクション」は「小説」、でも「小説」は「フィクション」のほうにも書いてある。こう考えて「あれっ」と思う人がいるかもしれない。

ついでに「ドキュメンタリー」という項目もみてください。「事実に重きを置いて作られた文学作品・記録映画。」と書いてあるね。「ルポ」のところには「ルポルタージュの略。」と書いてあって、「ルポルタージュ」のところをみると、最初に「報道。現地報告。」、2番目に「第一次大戦後に唱えられた文学様式で、社会の出来事を報告者の作為を加えずにありのままに叙述するもの。わが国には第二次大戦後、文学の一ジャンルとして登場。報告文学。」と書かれています。

では「ジャーナリズム」の項目をみてください。ここに書いてあることはダメです。「ダメ」というのは、この授業でみなさんに把握してもらおうと思っていることはこの範疇には入らないということです。それはたちどころにわかるよね。

この授業では、まず何をしたか。原爆をめぐるジャーナリズムというところだけに限ってみましょう。一番最初にでてきたのは、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』です。それはここに説明されている「ジャーナリズム」にあてはまりますか? 「あてはまらない」とは言えない。その次にでてきたのは『黒い雨』、『重松日記』でした。これにぴったりあてはまる? わかんないね。その次にでてきたのは「長崎の証言の会」が掘り出してきたいくつかのもの──1970年に見つかったものとかいろいろあるよね。それはこの「ジャーナリズム」にあたるだろうか。まじめに考えてみて、これにあたるか、あたらないか。

ここに書いてある「ジャーナリズム」からは、少しずれる。もっと深く考えるために「ジャーナリズム」という言葉を使いたい、というふうに、まず思おう。みなさんが気になっていることにひとつに「虚構」というのがある。英語でいうと「fiction」。「fiction」ってなんだろう。じゃあ、「fiction」の反対はなんだろう。これは考えものですよ。

「fiction」の反対は「事実」だと思わないほうがよろしい。なぜか。みなさんがみたものは、すべて書かれたものです。誰かが書いたものです。誰かが書いた作品なんだよ。しかし、にもかかわらず、ある作品を指して「フィクション」と言い、ある作品を指しては「フィクション」とは呼ばずに「ノン・フィクション」と呼ぶ。それはなぜか。しかし、「ノン・フィクション」=「事実」じゃないよね。「ノン・フィクション」というのは、作家がこれはこういうふうに書こうと決めて取りかかった、その取りかかりかたが、作品を「ノン・フィクション」にするか、「フィクション」にするかを決めるんだよね。だから「虚構」の反対は「事実」じゃないです。取りくみかたが違う。

本文参照さあ、文章のうまい人かそうでない人か、文章力のあるかないか、人が読める文章を書くか人が読んでもよくわからない文章を書くか(笑い)。左端に「文章力なし」、右端に「文章力あり」、上に「虚構」、下に「ノン・フィクション」とする座標軸を考えましょう。「文章力なし」とか言ったって、まったくないということはありえないですよ。だけど仮にそういうふうに考えてみよう。人間の頭って、こういうのはいくらでも考えられる。それで考えてみると、「さあ、俺のやっていることはなんだろうな」(笑い)、「本当にこういう取りくみをして『フィクション』を書こうとか、『ノン・フィクション』を書こうとか決めて、ものを書いているだろうか」と、みなさん考えてください。みなさんがレポートを書くときに、自分はどういう取りくみで書いているんだろうかと考えてください。「フィクション」を書こうとしているのか、「ノン・フィクション」を書こうとしているのか。考えてください。

実は、そうするとわかってくることは、いくつかの場合には、とくに学校のようなところでやっていることは、「フィクション」でも「ノン・フィクション」でもない。ちょっとだんだん頭に血が上ってきたから落ち着いて言いますが、誰かが書いたことをそのまま書き写すというのは、「フィクション」でも「ノン・フィクション」でもないよね。自分の「体験」ですらない。そういうレポートが約3分の1ありました。したがって、それはあきらかに「文章力がある」とか「文章力がない」とかいうことも実は通用しない。なぜかと言うと、ほかの人が書いたのをそのままなぞって書いているだけだから、自分の文章力が「ある」「なし」に関係ないもんね。こういう座標軸に置くことさえできない。そういうことになっちゃう。どうしてだろう。

本文参照こういうふうにちょっと考えてみよう。そうすると、もっといろいろ考えられるよね。座標軸の縦横は適当にひっくり返したらいいんですが、文章ということではなくて、もっと広く言うと、表現力というようなものを考えることができるでしょう。例えば、「表現力を発揮している」か「していない」かを縦軸の上下において考えてみる。「表現力がない」なんてことは、人間様にはありえないんだよ(笑い)。「発揮しているか」、「発揮していないか」です。じゃあ、「表現力」ってなんだろう。口でしゃべることも表現力ですよね。あるいは絵に描くかもしれない。いろいろありますよ。

横軸には何を入れよう。さっきと同じ「フィクション」と「ノン・フィクション」を入れようか。何を入れたってかまわないんですよ。でもそういうふうにいろいろ考えてみると、「事実」というのはこういうところに書きあらわすべきじゃない。そういうもんだよね。どうやらそうらしい。じゃあ「事実」はどうしたらいいんだろう。じゃあ、また『広辞苑』をひとつの手がかりにしてみてください。

「事実」=「ほんとう」?

「事実」とは「ほんとう」・・・、「ほんとう?」・・・、「ほんとう」(笑い)。ひょっとしたらここ(座標軸の「ノン・フィクション」のところ)に重なるかな。ぴったりじゃないかもしれないけど・・・。もし無理にここに重ねたら、反対側(の「フィクション」のところ)にあるのは「うそ」だよ。「ほんとう」と「うそ」。「うそ」をものすごくうまく言う人は、ここらへん(座標軸の中央より左側で真ん中より上の部分)にいるということになるね。「ほんとう」のことをうまく言う人──ジャーナリズムの鑑だね(笑い)──はここ(座標軸の中央より右側、真ん中より上の部分)にいることになるかな。よくわかりません。

だけど「ぴったり重ならない」と言ったのは、「フィクション」は「うそ」か? ああいう小説のたぐいは「うそ」か? ねえ? 僕は常識的に考えて井伏鱒二は文章がうまい、文章力はあるほうだ、と思う。どうしたらいい? ここが難しい。井伏鱒二自身が体験していない。そうすると自分自身が体験するということは、こういう図式(座標軸)のなかにどういうふうにいれたらいい? よくわからないけど、第三の次元を考えるべきかな。だけど、さらに考えてみると、自分自身が体験していなくたっていいじゃない。体験したら死んじゃう、とかいうこともあるわな(笑い)。ほんとうに自分自身が体験しないといけない? みなさんのなかにはレポートの中でそういうふうに言っている人もいました。自分自身が体験したことでなければ値打ちがないか。そんなこと言えるかな、ということも考えてみてください。

そもそもたしかめられるかい? これはたしかめられないんです。したがって、みなさんが『広島・長崎の原爆災害』をみてすぐにわかったことは、そもそもここにはたしかめられないことは書いていない。「たしかめられない」というのは「科学的にたしかめられない」ということ。これ(『広島・長崎の原爆災害』に書かれていること)は科学的にたしかめられる。そういうふうにできております。科学的にたしかめられないことは、私たちが日常的に使っている「事実」という言葉と一致しないだろうか。一致するよね、きっとね。だから科学が取り扱っている範囲が、ものすごく狭いということがわかりますよね。科学が取り扱える範囲は狭い。

想像力のある人は、『広島・長崎の原爆災害』をみて、ここで描かれていることの背後で起こっていること、全部わかっちゃう人はいるかもしれない。しかしそれは想像しないとわからない。なにごともそうですが、ものすごく一所懸命想像しないとわからない。そして、想像できるとはかぎらない。言うことは簡単なんですよ。ある種の論理性があって、必然的にこういうことになるということを言う世界ですから。なるほど東海村の臨界事故のときには、純粋なウランに換算すればそんなにいっぱいあったのか。3kgもあったのか、ということは論理的には言える。でもそれで大内さんがどういう状態になって、どういうふうに亡くなったか、家族はどうしたか、ということは書けない、ということになっているんだよね。数は書ける。

ちょっと訂正というか追加をすると、前回の授業で広島のその当時(原爆が投下されたとき)の人口が25万人くらいだったと言いましたが、それはひとつの推定に基づいています。ほかの推定もある。アメリカ軍は30万人くらいいるだろうと推定をしていました。日本でその次の年(1946年)に推定をしてみると、32万数千人いたのではないかという推定もあります。さまざまあります。これはいずれも推定だよね。しかし、その推定はどういうふうな条件で推定をしているかということを書くと、これは科学的書きかたになる。われわれ自身が科学者でもなんでもないけれども、ときにそういう推定をしなければならないよね。実際にそういうふうに推定をしたりします。だから「純粋に科学的でない人」というのはいない。あるいは「純粋に科学的である人」もいない。わかりやすく言えば、ある仕事をするときに、「科学」というルールに則ってしているのか、そうではなくて違うルールに則ってしているのか。そういう問題だよね。両方を使うことも当然ある。

・・・もう(授業の残り)時間がないからやめよう(笑い)。

みなさんの今日の課題は『広辞苑』を読んだり、あるいは哲学辞典のようなものを読んで、そこに「経験」とか「事実」とかいろいろ書かれているのをみたときに、この説明は自分の使っている言葉の使いかたにぴったりだというのを探せるかどうかだよね。これを必ずやってください。それからもうひとつは、どうしてもそこにあてはまらないような自分の言葉の使いかたがあるんだったら、それを自分で振り返って、こういうふうに私は使っているということをノートに書いてください。例えば、私は「経験」という言葉をこういう意味合いで使っています、と人に説明をしてください。

これで今日の授業を終わります(……と言いつつ)。

ホワイトボードに新しい座標軸を描く。縦軸の上には「あったことをあったと言う──non-fiction」、下には「なかったことをあったかのように言う──あったことをなかったかのように言う──fiction」を書く。

本文参照「あったことをあったと言う」、「なかったことをあったかのように言う」あるいはこっちには「あったことをなかったかのように言う」というのがあるんですよ。これは僕たちはしょっちゅうやってます。「なかったことをあったかのように言う」より、「あったことをなかったかのように言う」ことがはるかに易しいから、僕たちはよくやっています。しょっちゅうやっているよね。あるいは「あったことを言わないで黙っている」。いわば、「ノン・フィクション」と「フィクション」ですね。だけど、繰り返して言うけど、こっち(上の「あったことをあったと言う──non-fiction」)が「事実」じゃないよ。「あったと言う」っていう、「言う」ということ、あるいは「言ったり」「言わなかったり」することが重要なんだよ。

そうすると「ノン・フィクション」「フィクション」というのはこういうふうにみることができますが、同時に「文章がうまい」「文章が下手」あるいは「表現ができる」「表現ができない」というのを言いかえると、表現をする一歩手前の段階で自分が受けとるものごと──例えば自分が授業を聞いている。「授業はなんだかどうしてもまとまらない。筋がとらえられない。何をやっているんだかわからない」というのと、これは「中尾ハジメがでたらめなのか、自分がでたらめなのか」、(横軸の左端に「断片化」「平板化」<無関係、でたらめ>、右端には「統合」「物語り」<因果>を書き足して)こういう座標軸は考えられますね。難しいですよ。そんな簡単にいかない。

だから断片的にしか自分がものごとをとらえていない、刹那的にしかわからない、ということがあったとしましょう。でもそれは時間がかかれば、自分のなかで統合されて「ああ、あれはこういうことだったのか」というものになっていくかもしれない。だけどもある一瞬だけとらえたら、この場面で自分が何を理解しようとしているのかということが明確になればこっち(右端には「統合」「物語り」<因果>)になるし、そういう意識がなければ気絶状態で、「なんだかわかりません」というふうになるだろうし・・・。

例えば、こういう座標軸に自分が読んだ──自分に読まれる前のものじゃないよ(笑い)──『黒い雨』はここだ、『重松日記』はここだというふうに考えたら、どうなるかな。さっきも言ったけど、たいへん難しい問題がある。井伏鱒二自身は、その日あの時間に横川駅にいなかった。だけどもそもそも人間の言葉というのはなんのためにあるんだろう。

みなさんもご存知のように、みなさんが「読んだ」というふうに僕は一所懸命言ったけど、井伏鱒二はもういない。重松静馬もいない。多くの人は初めてあれを読んだんですよ。その読んだものは、この座標軸(2番目に使った軸──縦軸の上が「表現力を発揮している」、下が「発揮していない」、左「フィクション──うそ?」、右「ノン・フィクション──ほんとうのこと?」という座標)を使えるだろうか。まったく使えないとは言いきれないけれども、それより重要なのは、たぶんこういう座標軸(最後に使った軸──縦軸「あったことをあったと言う──non-fiction」、下には「なかったことをあったかのように言う──あったことをなかったかのように言う──fiction」、横軸の左に「断片化」「平板化」<無関係、でたらめ>、右に「統合」「物語り」<因果>という座標)だろう。それで、たぶん『重松日記』と井伏鱒二の『黒い雨』はこの軸の上で比較することも難しいだろう。たぶん単純にはできないだろう、と思います。

授業日:2003.06.10;ウェブ公開:2004.05.03:更新:2004.05.03;
協力:川畑望美