第10回「事実」と「虚構」


12_shigematsu.jpg何時間寝たか、時計を見ておかなかったので、わからない。天井を見つめていると、昨日の広島が遠ーい遠ーい昔にあったことの様に思える。(重松静馬『重松日記』p.57)

12_kuroiame.jpg何時間寝たか、時計を見ておかなかったので、分からない。障子がぼんやり白く見える。天井を見つめていると、昨日の広島のことが、遠ーい遠ーい昔にあったことの様に思える。(井伏鱒二『黒い雨』 p.91)


「書く」ということは、ただ物理的に紙の上を鉛筆が走り、その跡が残る、ということだけでは成立しない。文章は意志の結晶であり、だれかが読むことで命が吹き込まれる。とうぜん『重松日記』を読んだ井伏鱒二も、重松静馬の思いを感じたはずである。二人の文章を重ねて透かし見れば、そこで彼らが対話している姿が見えるはずである。


第10回 「事実」と「虚構」:もくじ

事実と虚構

さて、今週は先週のつづきをやります。先週は「科学と事実」という問題をやったはずです。あんまりそういう感じでなかったかな。今週は「事実と虚構」という問題ですね。

みなさん、先週お配りした『広辞苑』から引用してきた資料をもう一回出してみてね。「科学」とか「事実」とか「ドキュメンタリー」、「経験」、「ルポルタージュ」、「ジャーナリスティック」とかいうような言葉を『広辞苑』から引いています。それを手許にみてください。いいかい?

一番最初にこの授業でやったのは『谷中村滅亡史』(荒畑 寒村、岩波書店、岩波文庫 青137-3、1999年)だね。『谷中村滅亡史』をさらによく理解できるように、『寒村自伝』(荒畑 寒村、岩波書店、岩波文庫1975年)をちょっとみたよね。それから、他にもありましたね。憶えているかな。これまでどういう資料を読んできたか、今日の日付でちょっとノートにメモしてごらん。自分たちはどういう資料を読んできたのか。書名あるいは記事のタイトルとか、あるいはそれを書いた人物などをもう一回書いてみるといいね。

ずいぶんたくさんいろんなものをみてきたわけだけど、全部でなくても、一応、授業計画のなかに書かれていたようなものをひろって、それがどういうものであったか、どういうふうに特徴づけられるかということをもう一回振り返ってみるといいと思います。

ある回で、イプセン(Henrik Ibsen, 1828-1906)の「人民の敵」(原千代海 訳、『イプセン戯曲全集 第四集』所収、未来社、1989年)をやったよね。これはどういうふうに位置づけることができるかをちょっと考えてみてください。ジャーナリズムのものすごく広い定義を使えば、すべてジャーナリズムの作品になっちゃうね。「ジャーナリズム」の定義を、あまりだだっ広くしないで使うと、どういうふうに言えるだろうか。ということもあるんですが、広い定義をそのまま使って、例えばイプセンの「人民の敵」を「ジャーナリズム」についての「ジャーナリズム」ということができないだろうか。つまり、イプセンの「人民の敵」という戯曲ですが、この戯曲であつかわれている中心的問題──主題は「ジャーナリズム」だととらえることができるね。「ジャーナリズム」というのはこういう問題を抱えているんだ、ということを描いた戯曲ですが、しかしその戯曲そのものもまた「ジャーナリズム」だということができるかもしれない。二重構造になってるね。「ジャーナリズム」についての「ジャーナリズム」という言いかたになります。もし言えば、だよ。言わなくてもいいんだよ。しかし、「ジャーナリズム」についての戯曲と言いかたができると思います。

そこから振りかえってみれば、『谷中村滅亡史』というのは、「ジャーナリズム」としか言いようがないですね。しかも、そのときに荒畑寒村(あらはた・かんそん、1887-1981)は20歳という若さであって、しかも本を書くというのは初めての仕事だったんですね。という意味で言えば、駆け出しのジャーナリストであったかもしれないけれども、これはジャーナリストによるジャーナリズムであった、というふうに言うことができます。

宇井純(うい・じゅん)さんが編集した本も紹介をしましたけれども、そのなかにもいろいろなかたちの「ジャーナリズム」が載せられていた。荒畑寒村の『谷中村滅亡史』もそこには含まれていました。それと並べてみると、庭田源八(にわた・げんぱち、1834-1921)さんの文章はやっぱりちょっと質が違いますね。けれども、庭田さんのあの文章は「ジャーナリズム」でないと言ったほうがいいかというと、そんなことはないですね。あれも「ジャーナリズム」ですね。ただ視点が違う。どこに焦点をあてているか、ということがまったく違う、というようなことが言えます。あるいは、そのなかに出てきた田中正造(たなか・しょうぞう、1841-1913)の議会での質問、演説。あれはどういうふうに考えたらいいだろうか。あれもやっぱり同じように「ジャーナリズム」と考えることができます。

『谷中村から水俣・三里塚へ──エコロジーの源流』それらのものを集めて、また一冊の本にした(『谷中村から水俣・三里塚へ──エコロジーの源流』、社会評論社、1991年)というのが宇井純という人ですが、宇井純さんはジャーナリストではない。けれども一冊の本をつくるということで、ジャーナリズムの活動をしたわけだね。そういうものをみなさんが読んだわけです。何回も前に読んだことがある人いるかもしれませんが、前に読んだと言ったって、みなさんはせいぜい1980年くらいの生まれですから、ここ(宇井純さん編集の本)に登場してきている人たちが、それぞれ書いたりあるいは本をつくったりしたのは、それよりもずっと前のことだよね。そこで取りあげられている出来事も、みなさんにとってははるか昔のことです。それをみなさんが読んで知ったわけです。そしてはじめて、実はジャーナリズムの過程の最後のところが成り立った。つまり、「読者」というものに届いたわけです。ようするに、みなさんがそれを受け取った。受け取らないと、ジャーナリズムのプロセスは成立しない、途中で終わっちゃうというふうになっていたな、ということが振りかえるとよくわかると思います。

書かれなければ「ジャーナリズム」は存在しない、受け手に届かなければ「ジャーナリズム」は成立しない

なにか大変なことが起こったんだよね。鉱毒問題とか、広島に原爆が落ちたとか、長崎に原爆が落ちたとかいうことが起こった。それで、このことを体験した人がいるんだね。だけど、よく考えてみたら、誰かによってそのことが経験されなければ、これは存在しているってわからないよね。あることを経験した人がいるんですね。あるいは体験した人がいるんですね。出来事の中心にはいなくても、そばにいる人たちもそんなことが起こったんだということを知っていますよね。だけど、みなさんはどこにいたかと言うと、(その出来事からは)全然時間的にも空間的にも離れたところにいたんだよね。いまいるわけだよね。これはここ(「みんな」ところ)までどうやって届くか。どうやって届いた。印刷物だよね。

でもその前に誰かが文章を書かないといけない。誰かが作文したんだよ。文字を書ける人でないとできないことですが、それがある。そういうことをする人を、いまは僕たちは仮に「ジャーナリスト」だというふうに呼んでいるわけです。この図(出来事→読者・わたしたち・「みんな」)という図が描かれていて、矢印の部分に「誰かが作文をする・文章をつくる」と書かれている)はきわめていいかげんな図だよ。だけれども、そうだよね。それでこの人(作文をする人、文章をつくる人、「ジャーナリスト」)は死んじゃうんです。あるいは遠いところにいるんです。ではどうやってみんなのところへ届いたか。これを指して、「メディア」って呼んでいるんだよね。

  • 板書・1

いまは、例えば、バグダッドでミサイルがどっかに当たった瞬間を1秒も経たないうちに、僕らは映像で見たりするよね。そういうとんでもない大変な出来事を、簡単に、あっという間に知ることが、いまはできます。だけども、1905年にはそういう方法はなかった。そのころ使われたのは印刷メディアだったんだよね。この印刷メディアはまだ生き残っています。だから、みなさんはそれでみているんだよね。もう少し厳密に言うと、昔の印刷と違う印刷がいまはある。つまりみなさんに配る資料は、昔の印刷技術ではできない。いいよね。

「長崎の証言」というのも同じことですが、「長崎の証言」のうちのあるものは、例えば、みなさんが読んだ日記は、もうひとつ誰かがあるいは何かあいだに入っているんです。つまり、誰かが日記を書いた。だけれど、それは誰にも読まれずにどっかにおいてあった。それを「長崎の証言の会」の運動が発見した。発掘した。そういう運動があった。それで出版をして──つまりメディアが登場するのはここですね──それでみなさんの手元に届いた(さきほど描いた図の矢印部分に「運動」と書き足す)。

  • 板書・2

もうちょっとだけ細かくと言うと、ここ(さきほどの図の矢印の部分)にメディアがある。ここに何があるか。大学というものがある(さきほどの図の矢印部分にさらに「大学」と書き足す)。みなさんと大学を切り離したら、本当は具合が悪いんですよ。みなさんは大学の構成員だから、具合が悪いんだけど、いまは理解しやすくするために切り離して書きます。こうやってみなさんは長崎の原爆のときの体験とか、あるいは「事実」と呼ばれるようなものを手にしたわけね。そんな言葉なんてどうせ軽いものだ、というふうに書いている人もいたけれども…。でも方法は書くしかないんだよ。もちろん厳密にはまだありますよ。絵を描いてもらうとか、あるいは数少ない写真で、みなさんはいま知ることができる。

  • 板書・3

「ジャーナリズム」の過程と言いましたけど、こういうことを含んでいる。「過程」っていうのはわかるよね。「過程」というのは、時間的、空間的にこういう何か持続するものがあって、時間は経過していく。あるいは空間でも、あるところからこの地点までのあいだで何が起こるか、何かがいろいろ起こってきた。それでその過程は、みなさんが「長崎の証言の会」がつくったあの本を目にして、一応完結したわけ。ここ(「みんな」・「読者」)に届かなければ、「ジャーナリズム」の過程は成り立っていない、というものすごくあたりまえの話だよね。

「書く」という行為

何を言おうとしたか忘れないうちに戻ってこないといけないんですが(笑い)。さて、「科学」です。前回のことをもう一回思いうかべてみてください。前回、みなさんに読んでくるようにお願いした『広島・長崎の原爆災害』(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会 編、岩波書店、1979年)というものがあったよね。持っている人はひっぱり出してみるといいと思いますが、そこに述べられていることはよくよくみると、やっぱり文章で書かれているんだよ。あれは誰かが書いたんだよ。書く人がいたんだよ。書く人というのは、非常に重要です。文章はどうやって書くだろう。文章は書くんだよ。それしかないしょうがないんですが…。科学であろうと、科学でなかろうと、文章で書かれているんだよ。

「叙述」という言葉があるんだよね。ほとんど「ジャーナリズム」は叙述なんです。ときどき違うのがあるけど…(笑い)。ほとんど叙述です。叙述というのは、あきらかに文章に順番がある。考えとか出来事を順を追って述べていくこと、これを叙述と言います。あたりまえだよね。でもこの(述べる)順番は、必ず時間の流れに沿ってつくらないといけないということではありません。ときには、ちょっと1日さかのぼります、と言ってさかのぼったりすることもできる。できるけれども、いづれも叙述でないと読む人は何が書いてあるかわからない。

文章を書く人が、どういうふうに書こうかということを、決意しなきゃ書けない。どう書くか決めないといけない。自動的に手が動いて文章はできあがらない。だから早くレポート書け、書けと言われたら、とっとと書かなきゃいけないんだけど、とっとと書くときに、いままでに書いたことがない人は、どう書いたらいいかわからなくて止まっちゃう。でもどう書くかを決めて、書いて、この書きかたはよくないと決めたら直す。書きなおしをする。場合によったら、例えば科学者だったら、同僚の科学者に、長崎と広島の原爆被害について、僕はこういう論文を書いたけど、ちょっとみてくれと言う。みてもらったら、ちょっとこれはおかしいんじゃない、とか言われて、やっぱり書きなおしをするかもしれない。

だけどそのときに、その書きなおしには、この書く人じゃなくて読む人の意見が入ってくるんだよね。あたりまえだけど。でもこういうふうにやってできるとしたら、自動的に「事実」あるいは重要な「体験」が文章になるわけないよね。自動的にはならない。誰かが決意しないといけない。書かないといけない。俺は書く。そんなことは書かないでください、と言われても、「いや、俺は書くんだ」と言って書かなければ、「書かれたもの」は世の中に存在しない。「書かれたもの」が存在するようになって、それでようやく「みんな」に届くんだよね。

いまは「みんな」のことはちょっとおいといて、「書く」ということはどういうことだろう。みなさんが自分自身の体験を振りかえれば、それはどういうことだか簡単にわかる。どんなふうにわかるだろう。まず書くということは、簡単でない、難しい。あるいは、ものすごくたくさん書くことが好きな人でも、書くことが好きな人が持っている書くことの問題はある。何かと言うと、「私はたくさん書いているけれども、どうも肝心なことまで届くことができない」ということだったり、「もう一所懸命書いているけれども、自分が書いていることはきっとみんなのところに届けば、みんながそれで感動するに違いないと思うけれども、私はお金がないからメディアにこれを載せることはできない」という問題を持っている人もいるかもしれない。

でも、いまみなさんに焦点をあててほしいのはその問題じゃなくて、みなさん自身が文章を書くときに、どういう問題にいきあたるかということ。自分自身が文章を書くときに、自分はこういう問題にいきあたっているんだ、ということを思いおこしてほしい。ある人はやっぱり自分は語彙が少ない、というふうに問題をとらえているかもしれない。でも想像してみてすぐわかるように、例えば広島、長崎で起こったあのことをどう書きあらわすか。みなさんはもう読んじゃったから、「へん、簡単だ」と思うかもしれませんよ。だけど、あれは人間が初めて体験したんだよね。いままで誰も体験しなかったことだった。したがって、いままで誰によっても書かれたことがなかった。書きようがない、ということだったということを考えてみてください。でも書けることはあるんだよね。それから、なによりも書かなきゃいけないと思ったわけです。

さあ、それで今日の本題にだんだん近づいてきましたが、そうすると、「ジャーナリズム」ということが要するに「書く」ということなんだ、ということがわかるかな。書かないといけない。写真を撮るという方法ももちろんあります。それから映像をつくるという方法ももちろんあります。しかし、どの方法にしても、自分がそこになにがしかのエネルギーとか、「よし、これをみんなに伝えよう」とかいう気持ちが働いて、実際に手が動かないと「ジャーナリズム」というのははじまらない。あたりまえだよね。

「書き直し」を意識しつつ『重松日記』と『黒い雨』を比較しながら読む

『重松日記』今日は三つの資料を使います。まず重松静馬(しげまつ・しずま、1903-1980)の書いた「重松日記」(2001年に筑摩書房より『重松日記』として出版されている)と呼ばれているもののうち「火焔の日」です。その「火焔の日」のうち、本のページ数で言うと、44ページから63ページ、8月6日の途中から8月7日までの分です。これを資料Aとします。次は同じく「重松日記」ですが、「被爆の記」の91ページから97ページまで。これは8月7日の分です。これを資料Bとします。そして、三つ目は『黒い雨』(井伏鱒二、新潮社、新潮文庫1970年、*単行本1966年出版)の114ページから143ページまで、8月6日の途中から8月の7日までを資料Cとします。『黒い雨』の「8月6日の途中」というのは、寺町というところの街路から始まっています。いいですか。確認できたかい?

さあ、そしたら8月6日の分はAとCを見比べることができますね。Bは8月7日のところしかないから、だめだよね。わかった? AとCをちょっと並べてみてください。ここに書かれている文章に最終的責任を持っているのは、Aのほうは重松静馬だよね。Cのほうは重松静馬の書いたものをもとにしているけれども、最終的に責任を持っているのは井伏鱒二(いぶせ・ますじ、1898-1993)だよね。ちょっとまずこのふたつを見比べてごらん。5分間見比べてみよう。たぶん5分間では全部を見渡すことはできないでしょうけど、5分間でCのほうに書いてあってAのほうに書いてないこと、あるいはAのほうに書いてあってCのほうに書いてないこと、それをちょこちょこちょこっと傍線でも引いてごらん。

さあ、少しわかったね。井伏鱒二は「火焔の日」を書いた重松静馬の文章をどういうふうに書き直したか、あるいはまったく書いていないことをどういうふうにつけ加えたかわかったよね。それではそれを置いて、同じく重松静馬が書いたんですが、Aの57ページに「八月七日 僧侶代行」というタイトルがついているところがあるでしょう。そこから始まって、「八月八日 火葬」の手前まで、ページ数で言うと57ページから62ページまで。これは重松静馬が自分で「火焔の日」という題名をつけた文章のなかの8月7日の分です。Bをみてください。Bの最初91ページをみると、「八月七日 晴」というふうに書いてありますが、同じ重松静馬が「火焔の日」に書いたことを書き直した文章です。わかったね。同じ重松静馬です。あたりまえのことですが、叙述というのは、叙述をする人が「俺はこういうふうに書く」と決めて書くんだよね。あるいは書きながら、「ああ、こういうふうにしよう」と決めて書く。

ちょっとAをみてください。

何時間寝たか、時計を見ておかなかったので、わからない。(重松静馬『重松日記』p.57)

Bのほうをみると、

何時間寝たか、時計を見ておかなかったので、分からない。(井伏鱒二『黒い雨』p.91)

「分からない」のところが漢字にかわっただけで、あとはいっしょです。そんなしょうもないこと言うなよ、と思うかもしれませんが、でもしょうがないよね。もうひとつひとつみるしかない。もうちょっとみてください。

Aのほうでは「わからない」のあとは、

……天井を見つめていると、昨日の広島が遠ーい遠ーい昔にあったことの様に思える。(同 p.57)

と書かれていますが、Bのほうをみると「分からない」のあとは、

……障子がぼんやり白く見える。天井を見つめていると、昨日の広島のことが、遠ーい遠ーい昔にあったことの様に思える。(同 p.91)

って書いてあるよね。つまり重松さんは「障子がぼんやり白く見える」というのをつけ加えたんだよね。ご本人がこういうふうにしようと思って、したわけです。「障子がぼんやり白く見える」というのは、どういうことだろう。まだ暗いんだよね。まだ暗い時間だった。さあ、その続きをAのほうで読んでみます。

……何千里も先が、焼野ヶ原となっている様でもある。(同 p.57)

これは不思議な文章だよね。ちょっと状況の説明をしておかないといけなかったかもしれませんが、この人は8月6日に広島の爆心近くまで彷徨って、それでようやくそこから抜け出して電車に乗った。それで自分が8月6日の朝に行こうと思っていた会社、工場があるんですね。それが広島の市街から離れたところにある。そこまで辿り着いたんです。いいかい?

それで、ちょっとAへ戻ろう。ややこしいね。8月7日のことを描く前に、重松さんは6日のことを描いているんだよね。これはやっぱり大きな意味で、「こういう順番で描かないとわかってもらえない」と思って描いている部分があるので、それを少し補充をしておきたいと思います。Aの44ページ、「寺町には一箇の寺院もない」という文章から始まる段落、そんなことがずっと書いてあります。ついでだから、AとCを見比べながらいきます。

少し書きかたをかえている部分というのは、見たらわかると思います。それから、Cのほうでまったく新たにつけ加わっている部分。しゃべりかたをかえただけじゃなくて、内容がまったく新しくつけ加えられている部分というのは、Cの114ページの中ほどから始まっている馬について。Aのほうにも馬の話は出てきますが、Cのほうで読むよ。

……下半身は完全に残って、軍袴に拍車のついた長靴を履いている。その拍車が真に金色を見せていた。軍人だとすれば、金の拍車なら将軍級でなくては履けない長靴である。この軍人は厩へ駈けつけて、裸馬に乗って飛び出して来たのではなかろうか。その馬は不断からこの車人に愛されていたらしい。今にも倒れそうになりながらも、僕の気のせいか拍車の長靴男を慕っているように見えた。(『黒い雨』p.114)

これはAのほうにはなかったよね。もう結論から言っちゃいますが、こういうのが「虚構」というものです。さあ、同じくCの116ページをみてください。その前をちょっと読まないといけないのかもしれませんが……。藪があったんですね。その竹藪のところでのことです。116ページの1行目。

下刈りがよく行き届いていた。やっと涼しい葉陰に辿りつけたので、僕らは口もきかないで坐りこんだ。(『黒い雨』p.116)

Aのほうへ戻るよ。45ページ中ほどです。

孟宗の竹林に行き当たった。涼しい葉陰がある。どっかりと座った。二人も申し合わせたように座った。(『重松日記』p.45)

「二人」というのは、おくさんと姪御さんだね。

カバンを卸し、上衣を脱いで敷き、上向きに寝た。体が消え失せ、深い深い〔原文はくの字点〕うすぐらい地中にスーと落ち込んでしまうようだ。何もわからなくなってしまった。(『重松日記』p.45)

という文章がありますね。そこのところとさっき読んだCの116ページの「下刈りがよく行き届いていた。やっと涼しい葉陰に辿りつけたので、僕らは口もきかないで坐りこんだ。」というところは対応します。その続き、

僕は救急袋をはずし、防空頭巾を脱ぎ、靴を脱ぎ、仰向けに寝ころんだ。体が消えて行くような気がしたと思うと、すっと眠りに入って行った。(『黒い雨』p.116)

「眠り」という言葉を井伏鱒二は使っています。その次の文章は「どのくらい眠ったか知らないが……」という書き出しですが、Aのほう重松さんは「幾ら経過したか知らないが……」という書きかたになっています。これもいいよね。

それから、その次C『黒い雨』116ページの終わりから5行目あたり、胡瓜が登場します。(閑間重松の)奥さんが背負袋から胡瓜を出して、みんなでそれを食べようというところですね。そこはなかなかおもしろいんですよ。Aのほうとそれを見比べてください。これに対応するAのほうの文章はどこになっているかというと、45ページの一番最後の行から始まっています。多少ここには井伏鱒二がCのほうでAには書いていないことをいろいろつけ加えていますね。

具体的にどこかと言うと、116ページの終わりから2行目

村上さんの奥さんが今朝早く、胡瓜を三本と、煮干を十尾ばかり持って来て下さったそうだ。先日、妻が郷里から届いたトマトを村上さんへ届けたお返しに下さったのだと云う。(『黒い雨』p.116)

こんなことはAのほうには書かれていません。それから、さらに117ページのほうで、胡瓜が変色をしているということについて、セリフが入っているね。

「これは一考を要するよ。僕が大学のグランドから家に帰ったときには、霧島つつじの葉を蓑虫が食っておった。胡瓜は焼けて、蓑虫は生きておったんだからな。」

僕は胡瓜に塩をつけて食べながら考えた。(『黒い雨』p.117)

この「僕は胡瓜に塩をつけて食べながら考えた」という部分ですが、Aのほうでは46ページの真ん中あたりの「胡瓜を食い乍ら、こんなことを考えた」というところにあたりますね。この部分はCの『黒い雨』では前後が入れ替えてある。Cでは考えた中身は「僕は胡瓜に塩をつけて食べながら考えた」という文章のあとの「この胡瓜を漬したバケツの水面に……」という部分が「こんなこと」の中身になるんですね。Aのほうでは、それが46ページの最初のほうに出てきてしまって、それを締めくくる言葉として「胡瓜を食い乍ら、こんなことを考えた」というふうに述べられています。

胡瓜を食いながら重松静馬という人が考えたこと。これは「科学」だね。こういうのを「科学」って言うんですよ。あたっているかどうかは別です。ここは科学的に考えようとした部分です。

さあ、Aのほうで先へ進んでみましょう。47ページをちょっとみてください。47ページの中ほど、

国道を避難者がまばらに可部の方へ行っている。国道沿いの民家は、どの家も表戸を締めている。避難者の這入り込むのを避けるために、戸を締めたのであろう。山本駅の北陵にあるカトリック教会の神父さん達が、担架を提げて市内の方へ韋駄天走りに走って行かれた。何という崇高な姿であろうか。自然に頭の下がるのを覚えた。国道沿いの家は、行っても行っても〔原文はくの字点〕戸を締め切って、避難者を近づけない。あさましい心情だ。(『重松日記』p.47)

同じようなことがCの『黒い雨』のほうにも書かれています。が、「あさましい心情だ」という言葉は、井伏は採用しなかった。重松さん自身がどういう傷を負っているかということは、みなさんはもう読んでいるはずだから説明しなくていいと思いますが、山田優貴(ある学生)が疑問に思ったところだよね。「……電車の左側三メートル位の所で、フラッシュの様の、とても強烈な光球が眼に映じた……」(『重松日記』p.12)というふうに書かれている。みなさんはちょっとだけ科学的に考えなければならない。

そのとき重松静馬は、その光の球のように見えた方向に自分の顔をまるまる向けていたのであろうか。それともそうではなくて、顔は別な方を向いていて、左側の方に光の球が見えたというふうに感じたんだろうか。考えなきゃいけないよね。でもすぐに答えはでちゃったよね。つまり彼は左側に火傷を負っていたんですね。ということは、光の球の方に真正面に顔を向けていたわけではなかった、ということがまずわかる。これでちょっとわかったよね。

それで、この火傷は大変な火傷であるということが、延々と書かれています。大変だという書きかたはしていないけど、読むとどのくらい大変な火傷であったかよくわかる。そういう状況で、ようやっと自分が朝行こうと思っていた工場に、奥さんと姪を連れて辿り着くんです。辿り着く途中では、いまみなさんが読んだところのように、あるいはその前にみなさんが読んだところに書いてあったように、それはもう何万という人たちが死んでいくのを、あるいは死んじゃっているのを見ながらきたんだね。

しかもまた、たくさんの人が郊外に逃れようとして──重松さんは「洪水」という表現を使っていますが──傷を負った人たちが洪水のように郊外に向かっていくところも見ていた。電車のなかでもいろいろ恐ろしいことがあって、ようやく工場に辿り着いた。その工場で、重松静馬さんは次から次へとお葬式をしなきゃいけなかった。本当の坊さんではないけれども、坊さんのようにお経を上げたりしてたんだね。

読む人の身になって考える──「添削」あるいは「推敲」、「書き直し」

それで8月6日は終わって、8月7日。何時だがわからない、眼を覚ました、というところが、さっき読み始めたところです。書き出しの部分だけをみても、「ああ、こんなふうに書きかえたんだ」、「重松静馬は書き直しをしている」ということがわかると思います。これは書く人はみんな知っていることだよね。自分が書いた文章を、「これじゃあ、ちょっと不十分だから、こういうふうに書き直そう」あるいは「こんなことを書いておいたけれども、これはいらない。これを削除しよう」という作業をする。

これを日本語で何て言うか知ってる? 加えたり削ったりすること、「添削」と言います。でもみなさんが知っている「添削」は、学生が何か出したら先生が加えたり削ったりするんだよね。でも自分でやっても添削は添削です。もうちょっとこういうのをかっこよく言うと、「推敲」って言うんだよね。ふつう自分でやるのは添削って言わないんだけどね。でも同じプロセスですよ。自分がやろうが、ほかの人がやろうが。加えたり削ったりするんだよ。それで文章を直すんだよ。一番わかりやすい言葉は「書き直し」です。

そのときどうやって書き直すか。考えてごらん。先生が添削をするときは、先生が読んでみて、「ちょっと何を言っているんだかわからないな。こういうことを言ってんじゃないかな」と思って、これを加えたらどうかとか、これは余分です、というふうにやるんだよね。添削にしろ、推敲にせよ、あるいは一般的に書き直しにしろ、そのとき何が想定されているか。それは「読む人」、別の言いかたをしたら、「他人」の視点。「視点」ってそんな大げさなことじゃなくて、読む人の身になって考える、ということです。これを読んでわかるかな、と考える。自分がただ書くだけじゃなくて、読まれたときに「これでわかるかな」ということを考えるということが、「他人の視点」という意味だよね。

その「他人」というのはいろいろな「他人」がいますから、科学者はどういう方法で書くか、どういう叙述のしかたをするかというのは、それは科学者でないと訓練を受けていないからわからない。そうだよね。みなさんに、あの岩波書店の『広島・長崎の原爆災害』のような、ああいう文章を書けと言ったって書けないよね。

叙述というのは、ひとつだけではなくて、いろいろな方法があるんだよ。あたりまえだけど。ただいろいろな方法と言っても、それが読む人に通じない方法じゃダメだよね。みなさんはある意味で言ったら、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を読まされて、「こんなもの読めるかい。読ますやつが悪い」とか、中にはさらにそれを飛び越えて「荒畑寒村ってやつはひどいやつだ。こんな読めない文章を書いている」というふうに思ってしまったりするかもしれませんが、その時代はそういう文章で書いてよかったんだよね。わかるよね。あたりまえだよね。

ジョン・ハーシーは英語で書くしかなかったんです。それをわれわれが読むためには、翻訳するしかないんだよね。そういうもんです。そういうふうになっている。そうすると、英語の叙述の方法と日本語の叙述の方法は全然違うもんね。言語が違う、という意味で違います。ただし、そこに描かれていることが全く違っちゃったら、翻訳にならないですね。だから違わないように一生懸命努力する。それも自動的にできることじゃなくて、翻訳をする人がこれがいいだろう、あれがいいだろう、と考えながらやるんだよね。だからさっき書いた図式の書く人、文章をつくる人、というのが、ジャーナリズムのプロセスの中で、ものすごく重要ですね。あたりまえですけど。

さあ、もう少し言うと、実は添削であろうが、推敲であろうが、ひとりでやるときにはどういうふうになるかと言うと、自問自答しなければならない。これがまた大変なんだよね。「自問」っていうのは、自分で問いを立てないといけない。問いを立てる基準はあるんですよ。ほかの人が読んだら、どう読まれるだろうかということを考える。そう「自問自答」をしないといけない。

いま読んだ8月7日の書き出しの部分を、重松さんは少しかえてる。みなさんは、「そんなもん、かえなくていいんじゃないかな。たいしてかわってないな」と思うかもしれませんが、重松さんは一生懸命考えてかえたんだよね。ということをまず考えて、というよりも感じてください。

さて、さらに進んでみるとどうなっているでしょうか。重松さんが、これは決定的にかえてしまったな、というところがあります。この理由はものすごく変わっているんですよ。ちょこっとだけヒントを言っておくと、Bのほうをみてください。Bの95ページ、「次から次へと死者が出る。……」というところ。それでその前の94ページをみると、こういうお経を読もうということまで書いてありましたね。そこにも注目をしたらいいんですが、95ページ、「次から次へと死者が出る」から始まって、96ページの2行目「工場長が、お布施を出すなどと冗談を言うので、……」という言葉で始まって、それで最後の段落。寝ようと思ってくるりと横を向くんですね。そうすると、「青白い死人の手足が蚊帳の角の方から、だらりと垂れさがってくる。……」というような文章があって、最後の行「体が軽く震えている。」という文章で8月7日が終わるんだね。

Aのほうをみてごらん。Aのほうは、8月7日はもっと違うことが書いてある。わかったよね。だいぶ違いますね。61ページの3行目から読みます。

昼食前に二人他界した。夕方にも死亡した。次々と死亡者が出る。その度に、重松さん葬式です、来て下さいと、僕のきまった仕事の様に云って来る。(『重松日記』p.61)

これは、さっきのBのところにも似たようなのがありましたね。実は、それからあとのところの書きかたが違うんです。Aのほうの続きを読んでみると、「……家族や友人達は僕の読経を心から喜んで居た。……」と書かれている。それで62ページをみると、「読経と読経の間は、雑談と雑事で一日が終わった。夕暮だ、帰ろう。……」という書きかたになっていますが、一番最後のところだけみてもちょっと違うね。「寝よう寝よう〔原文はくの字点〕と、くるりと横に向いた。横に向いても、蚊帳ごしに、死人の手足が目に浮かぶ。」とこれで終わっているんですね。でもこの死人の手足云々については、Bのほうではもうちょっといろいろ書いてるね。なぜだろう。これはただちょっと文章をいじったということではないです。

それで、何が「ジャーナリズム」で、何を「事実」というふうに呼んでいるのか、何を「虚構」というふうに呼んでいるのかということは、いまの問題と重ねてよく考えてください。AとCをみくらべると、Cのほうには、「なるほど、これが『虚構』という部分だ」とわかるものがあると思います。しかし、「虚構」だからと言って、被爆の状況をわれわれに伝えていないだろうか。どうもそうは言えないみたいだ、ということがあるよね。それをよくお考えください。

それから、科学者でなくても、みなさんでも科学的に考えようとするところはある。そういう自分が考えようとしたことを記録したり、あるいはそれをさらに「いや、こんなふうじゃなかった」と、いろいろ書き直したりするということも、ジャーナリズムの過程のなかに当然含まれる。それは書く人がとにかく考えないといけない。だからけっして何か自動的に写しとってできあがるもんじゃないということを、よく考えてみてください。

「事実は一方的な情報の中では存在しない。事実は対話的(双方向的)な関係の中で創造される。」

こういうふうに言うとかっこいいよね(ホワイトボードに書くが、すぐ消す)。

今日の授業はこれで終わります。

参考になるリンク

授業日:2003.06.17;ウェブ公開:2003.07.30:更新:2003.07.30;
協力:川畑望美