学校で培養された洗脳語(1)

京都新聞1998年03月05日夕刊「まいとーく」掲載 いまどきの若者<4>

親愛の情 隠れてしまう

いつだったかはっきりは憶えていないが、たぶんもう二十年以上まえのことだ。「シツレイシマス」と、真面目くさった声で、すれちがう学生がいう。「こんにちわ」も「やあ」もでる幕はない。ある年突然、この挨拶ことばが若い人たちのあいだに、馬鹿のひとつおぼえのように、はびこったのだ。面接試験対策でおろかな指導をうけた結果かなと思ったが、どうやらそうでもない。いたるところで、学生同士が、いわゆるセンパイ・コウハイの関係なのだろう、すれちがうだけで、身体がふれるわけでもないのに、やっぱりシツレイシマスだ。

あまりに変てこで、さすがに長つづきはしなかった。ほかの表現といい具合にまざって使いわけられるようになったのか、いまでは気になることもない。が、断固、私の趣味にあわなかったのは、慇懃無礼の味わいさえない、あの画一性であり、目上とみれば、親しくもないセンパイとみれば確実に、シツレイシマスを連発する姿だった。もちろんセンパイには、シツレイシマスと返すようなユーモアなど期待できるわけもない。

うすっペらで、これほどまでに緊張した世界、といえば気を悪くする人がたくさんいることは承知のうえ、あえていわせてもらいたい。センパイもコウハイも、戦後五十年のいつのまにか、全国的に学校のなかで生徒たちが頻繁に、おそらく戦前にもましてますます頻繁に、使うことばになってしまった。そこでは、ほんものの親愛の情はかなり後退し、ただ一年上か一年下かというだけの地位の差ばかりが前面にでているかのようだ。

同学年なら「○○さん」と呼ぶが、一年上なら「○○センパイ」と必ずセンパイをつけて呼ぶことになる。純粋に学年のちがいだけを表すのではない。他の学校の上級生は通常はセンパイではない。けちな所属のことばなのだ。そして、センパイに気づかず挨拶をしなかったら、便所に呼びだされて懲罰をうけたりする。またブカツでは、一年生は球ひろいで、センパイは二年生を最後に、なんと「インタイ」することになっていたりする。

引退は、たとえば体力や気力が年齢ゆえに衰えて身を引くことだったはずだが、いまどきの学校では、多くの子どもたちはたった一年や二年のブカツ・ゲンエキのあと、たいして成長することもなくインタイしてしまい、ちゃんちゃらおかしいのだ。もちろんなかにはやる気がでてしまって一生懸命になる子どももいて、センパイ・コウハイの身分意識に「啓発、薫陶」されて偏狭となった同輩たちの、横ならびの集団力学を突破することもある。したがってインタイしないこともあり、それはおおいに結構。

なかば冗談で、センパイ、コウハイは禁句にするといったら、学生たちはきょとんとした表情になり、つぎの瞬間には、またセンパイ、コウハイといいあっていて、めんどくさくなってやめてしまったことがある。最近のチョベリバなども学校で培養されたことばだが、洗脳力ということでは、センパイ・コウハイの類にはるかにおよばない。