ルース・ソックス(2)

京都新聞1998年02月19日夕刊「まいとーく」掲載 いまどきの若者<3>

自己主張のようでいて

ルース・ソックスは、というべきか、ルース・ソックスをはいている女子高校生は、というべきか、見た目にかわいいともいえるし、全国的流行に一所懸命なのがちょっとお馬鹿でかわいらしいともいえる。もちろん、あんなのは不格好だという人もいる。しかし、けしからんといったってどうにもならない。ちょうどいま高校生の男の子たちが中年になったとき、現中高年のおじさんたちの定番のひとつ、セーラー服フェティシズムに対応する、ルース・ソックス・フェティシズムがみられるかどうか。というような性質のことがらなのだ。

そんなことを話題にする私も、そうとうの馬鹿である。が、ルース・ソックスは大学のキャンパスには侵入してこないし、大人の女性がはいているのを見たこともない。

中学校では高学年のほうから浸食がみられるが、それは部分的だといっていい。女子高校生自身はどうかといえば、彼女らが制服でないときは、ファッションのきまりにしたがい、ルース・ソックスをはくことはまずない。ようするに、ルース・ソックスは多くの女子高校生そして一部の女子中学生の「制服のようなもの」で、昔のバンカラ・ファッションがそうだったようにみごとに社会的位置をあらわしている。

彼女らは私たち高校生よとか、中学生よといっているのだから、そのかぎりでは先生たちが目くじらをたてる必要はない。それに、流行はまもなく下火になり、こんどは紺のハイ・ソックスだとかに替わるにきまっているのだから、なぜそんなにしゃかりきになるのだろうか。ひょっとすると先生たちには、小さな流行のあれこれが問題なのではなく、いっこうにいうことを聞こうとしない生徒たちの存在そのものが気にいらないように感じられるのか。そのいらだちを、とるにたりない服装論議に発散させているということか。

この手の論議を教育論議であるかのようにいいはるのは、「小公女」のミンチン先生のような古典もあり、目新しいことではない。が、小学一年生に算数計算のスピードを秒単位できそわせる必要があるなんていう幼稚な教育迷信が白昼堂々まかりとおる現状であれば、この無自覚的サディズムが蔓延するのも不思議ではない。

そして、こまったことにというべきか、当然ながらというべきか、当のルース・ソックスの女子生徒たちのなかにも、服装にかこつけての支配と服従が蔓延する。なさけないといえばなさけない、しかしやっぱりかわいそうなのは、みんながはいてるからというそれだけの圧力で、内心仲間はずれを恐れて、ルース・ソックスをはいている子だ。どんな流行にも避けがたく起こることといえばそれまでだが、自己主張のしるしであるかのようなルース・ソックスを、自己消滅のしるしであるかのように、その子らは身につけている。