「環境問題」は「公害」

京都新聞2003年5月7日夕刊「現代のことば」掲載

──「公害」は、たとえばある工場が排出した毒によって、ある地域の人びとが健康被害をうけるというように、加害者を特定できる。しかし「環境問題」は、産業社会が全体としてもたらしている問題で、いわばその産業社会によって生きるすべての人間が加害者であり被害者である──という「公害」と「環境問題」の仕分け方があるが、私はこのように区別して考えることに反対でさえある。

いささか専門家たちの内輪話のようなところもあって、これまでは口をはさむまでもないと遠慮してきた。しかし、どうもこれが世間の「常識」になってきたようなのだ。これまで地域的あるいは時間的に比較的限定してとらえることのできた「公害」が、もはや地球規模に拡大し、人類史の時間でとらえるべき問題になったというのなら、それに異論はない。また、私たちが産業社会の内部にとらえられ、それによって生きているという認識もまちがってはいない。しかし、だからといって、加害者を特定できない、あるいは誰の責任であるかを明かにできないということにはならないはずである。

ところがある専門家は、人間はだれでも生産に従事しているときも消費に従事しているときも加害者であり呼吸をしたり子どもを出産したりするときには被害者なのだと言ったりするのだ。つまり、明かに被害をもたらすにちがいない生産技術によって企業活動をする責任も、健康を害するにちがいない商品を販売する責任も、特定できないかのように言うのだ。これが、「環境問題」と「公害」をことさら区別することに私が反対する理由のひとつだ。

ちょっと考えてみればわかることだが、かつては「公害」という言い方さえなく、やがて「公害」と言われるようになった時代には「環境問題」という言い方がなかったということにすぎないのだ。いま「環境問題」と呼ばれているものの内、環境汚染、森林破壊、土壌劣化、気候変動などなどは結局のところ、かつてならば「公害」と呼ばれたものであるにすぎない。あえて誤解を恐れずに言えば、こういった「環境問題」の中身とは、多発し続ける「公害」ということなのだ。

さらに、「公害」の被害者は特定できるが「環境問題」の被害者は特定できない、というもっともらしい「常識」は、きわめてたちが悪い。世界の産業社会化の地図をみれば、足尾鉱毒問題ゆえに滅亡させられたかつての谷中村のような地域が、はっきりと点在していることがわかっていながら、被害地域や被害者を特定できないと言うのだから。この手の「環境問題」と「公害」の区別を言いたてる人たちは、足尾銅山の側に立ち被害農民を弾圧した政府と同じ立場か、いずれにしても目先の利得を手放したくない金持ちなのではないかと思えてしまうのだ。