私語

京都新聞1998年02月05日夕刊「まいとーく」掲載 いまどきの若者<1>

公の場にも定着

一月十五日は国民の祝日で、たいていの市町村ではその年二十歳になる人たちを招いて成人式を行うことになっているらしい。最近はこの式典をどう盛りあげるかで、若者の好みにあわせて、ロックバンドでも呼んだらどうだろうという案さえ聞かれるようになっているという。式典を主催するのは、いうまでもなく大人であり、そっちの側から気になる問題が、どうやら耐えかたいほど目につきはじめたらしい。

それは、たとえば市長さんや来賓が祝辞をのべているときに、ペちゃくちゃと「私語」か止まず、式典のかっこうがつかないということだ。舞鶴の江守市長は式辞の途中で、これは同窓会ではないといって釘をさしたという。この江守市長は立派だ。気まずい雰囲気を怖れずに向かいあうということを放棄していない。

なぜこんな祝日が国の法律で設けられてしまったのか、という問いは後回しにしよう。都市部になれば自治体の主催する成人式に参加しない若者の比率が大きくなるのは不思議ではない。ひとことでいえば、共同体の感覚をもつことは顔見知りでなければむつかしいからだ。

しかし、調べていないので当てずっぽうでいうしかないが、参加する若者の比率が年ごとに小さくなるということもないのだろう。今年はあいにく天気も良くなかった。それでも意外に多くの若者が集まってくる。女の子たちは見事にほとんどがふりそで、男の子たちはスーツで、集まってくるのだが、なにをしゃべっているのか、なにが彼らをそうさせないのか、時間がきてもけっして会場に入らない。しかたがないので、主催者側は子どもたちを誘導したり追いたてたりする牧童のような係を配置しなければならない。さあ、こういう状況をどう論じたらいいのだろう。

これは、じつは多かれ少なかれ大学がかかえる問題で、他人ごとではない。高校でも中学校でも小学校でも、同じだろう。ようするに躾ができてない、あるいは、躾のメッキがいとも簡単にはがれてしまって、授業中の「私語」がある、という論じ方はまちがってはいない。また、講義が、式辞が、彼らには面白くないのだろう、というのもそのとおりだろう。これには、彼らはなぜか大人の仲間になりたくないのだ、と言い換えられるところがあるかもしれない。だとすれば、とりわけ教員諸氏にとって、これはずいぶん居心地の悪い事態でもある。仲間にならないようにしている集団に向かって、むなしい言葉を発しつづけなければならないのだから。

いずれにしても、かなり前から常態化していた学校での「私語」が、いよいよ成人式のような、さらに公の場にも定着してきたらしい。「地域の学校化」とはまさしくこういうことを指すのだという研究者もいるほどだ。なるほど、学校という閉鎖空間で文字どおり培われてきた、およそ外の世界とはつながりようのない同世代集団のおしゃべりが、その閉鎖性と画一性を強めながら、学校の外にこれほど歴然と見られるようになってきたのだ。