大学という夢

『京都精華大学紀要』22号別冊 岡本清一先生追悼特集、2002年4月

今日の京都精華大学の前身である京都精華短期大学の、はじめての学生募集要項には、おそろしく風変わりなアピールが載せられていた。風変わりというのは、なによりも、そのころ、いや今日でも、日本の大学の一般的状況をあれほど真っ向から批判することによって学生募集をしようとすることなど、まったくありそうにないことだったからだ。それに加えて、わずか九百字足らずのなかに詰めこまれたそれは、いささか論理性を欠いているかのように感じさせるものであった。たとえば、いまは事情があって短大だがいつの日にか四年制大学に発展するという、どうやら長期的な目標が述べられている。短大に入学する学生諸君は、その四年制大学を創りだす仕事を分担するのだ。それゆえ二年間の凝集教育の鍛錬に耐える忍耐力、誠実と謙虚の精神を求めるのだから、覚悟をしてほしい。そのように読まなければならないのだから、長い時間展望を持たない若い受験生には、即座に納得できるものであるはずもなかった。なにしろ、短大は花嫁学校と呼ばれていた時代である。

また、もとより忍耐力などこそは、大学をはじめとする体制的なるものが受験生としての若者に押しつけているものだという解釈のほうが、広く受けいれられていたにちがいない。その解釈からすれば、一貫した論理を読みとることはできなかっただろう。もちろん、もっと丁寧に言葉を重ねたものであったならば、その不整合は現実のなかに身を置くがゆえの、いわば大学の実存とでも言うべきところから発せられた声の、生きた振幅にすぎないことが解かるはずだったとしてもである。

いずれにしてもそれは、どんな職業的コピーライターも書くことのできないアピールであった。そして、おそらく、創設の準備に当たった人びとの他のだれも、岡本清一初代学長以外のだれも、こんな風には書くことはできなかったにちがいない。

どの大学を選ぶべきか。全国八〇〇を越える大学のなかからたった一つの大学を、自分の愛すべきアルマメーター(母校)として選択することはむつかしい問題である。しかし諸君はいまその決断を迫られている。大学は学問と教育と深い友情とを発見する場所である。学生の精神を凍りつかせるような官僚主義的な環境の大学では、友情を培うことはできない。学生を群集のなかの一人としてしか扱うことのできない巨大大学においては、学生の孤独からの脱出はきわめて困難である。そして学問的にまた人間的に魅力のない教授による教育は、無意味である。われわれの大学は新しい画布のように、一切の因襲的な過去から断絶している。そして教師も学生もすべて、まず人間として尊重され、自由と自治の精神の波うつ新しい大学を、これから創造していこうとしているのである。

われわれの大学は、現在、可能なかぎり最高の質の教員と職員とを集め得た。幸運といわなければならない。そしてその間に、友愛の心を深めることにも成功した。われわれは、この結束力をもって諸君の教育にあたる。

わが大学は、四年制大学に発展するまでここしばらくは、短期大学として出発しなければならない事情にある。しかしこの二ヶ年間で四ヶ年の教育に相当する凝集教育を行い、その目標を、専門家の養成におく。したがって学生諸君に対しては、高校段階の学力よりは、むしろ鍛錬に耐える忍耐力と、誠実にして謙虚な精神とを要求する。

われわれの大学は、四年制大学になろうとも、学生数は極力少数におさえられる。そしてすでに形骸に化した学問の自由と大学の自治を回復し、教職員と学生がともに人間として尊重され、その人間的自由と自治の拡大が図られる大学を、われわれは目指している。

この大学の理念のもとに、今日の「失われた大学教育」を、京都の地において回復することに、われわれは使命を感じている。この新しい大学創造の仕事を分担しようとする学生諸君! 諸君の参加をわれわれは待っている。

学生募集の広報を目的としていることは明白である。しかし、受験生層のどれだけの人数に、どの程度まで訴求することができ、実際にどれほどの受験生数が獲得できるか、という「現実的」マーケット意識をもった職業的広報マンならば、発想することもなければ、けっして賛成するべくもないコピーであったと言わなければならない。「因襲的な過去」からの断絶をうたうがおそろしく古風に響くこのアピールが、いわゆる現実主義に欠けていたことは、振り返ってみれば、いやというほど解かる。まさにその開学の年に頂点に達した大学闘争さえ、はじめからというべきか、すでに社会的には孤立した事件にすぎず、自動化したかのような経済成長と一体化した大学の量的な膨張が無批判に続いている、その最中だったのである。

多くの若者にとって、大学は、数多くの大学は、自分の意思とは無関係に存在する。人間の考えにしたがい創られ、創り変えられるものであることは、ほとんど意識されることもないと言っていいのではないか。とりわけ受験生と呼ばれる人びとは、少なくとも当時から今日にいたるまでは、ほとんど受身的な存在と言っていい。選択するのは受験生であり、大学は選択される側だと言われはじめた今日になっても、大学を創りだす仕事をするために、その大学を選択するなどという意識はほとんどないだろう。選択といわれても、せいぜい並べられた商品の選択を比喩的に思いうかべるしかなく、たとえば批判的思考の場となる可能性を選びとるのだなどと考えることはまずない。しかし、そこに向かって、そこになければならない小さな潜在性に向かって、アピールは書かれていたと考えないわけにはいかない。

大人の世代、つまりは社会を勤労によって担っている人びとには、アピールはどのようにとどいていたのだろうか。実証的なものは何も残ってはいないが、あの学園紛争の時代から今日にいたるまで、総体としての日本の大学が肝心なところでは革新されることはなかったことを見れば、大きく肯定的な推察をするわけにはいかない。「学歴社会」として描きだされた姿が意味するのは、アピールの求めようとする学園を、空洞化してしまったことであり、やがて「偏差値」が支配的になったことが意味するのも、同様である。とすれば、批判的な意識を持ちながらも、結局は、横並び意識から長いものには巻かれることを選択しつつあるほとんどの人びと──そこに向かって、そのなかに紛れている小さな可能性に向かって、アピールは書かれていたということなのだろう。

しかし、この声は、どれだけの人に、どのように、とどいたのだろうか。こう問わずにおれないのは、数としての受験生確保がどうであったかを確かめたいからではない。開学の年に集まった受験生はわずか二〇〇人を少し超える程度であったことは、書き変えることのできない事実である。その意味では、勝ち負けを問うなら、負けであったと言うしかない。あるいは、体制批判の働きを多少なりとも果たしていた言論界からはかなり好意的に受けとられていた、ということを確かめたいからでもない。問わずにおれないのは、この、大学のいわば理念をうたうアピールが、生気をもった夢をリアルに生きようとする主体によって書かれ、同じような考えをもつはずの主体に向かって書かれているからだ。その夢こそが、われわれの京都精華大学の原初の存在理由だったのであり、いまでもそうにちがいないからである。

いや、もっとはっきり、こう言わなければならない。私もその同じ夢をもつ者の一人であるからだ──岡本先生、結局のところ、私はあなたの夢を引き継いでいるのです──と。

正直に言えば、そのころの私は、大学一般にも、この京都精華大学にも、多くを期待する立場には立っていなかった。底の浅いニヒリズムだという批判は甘んじて受けなければならないが、ヒッピー的な私には、政治政党の綱領にも通じるスタイルで理念を冒頭にかかげ、学生の「母校愛」を語る情熱は、どこか眉唾ものに映っていたのだ。理念的なるものには、集団組織を理念によって構築しようとすること一般には、できるだけ近づかないようにしていたと言ったほうが正確かもしれない。

しかし時を経て、結局のところ私は、この昔風のアピール文書を、まるで自分の書いたものであるかのように、まるで自分が書きたかったものであるかのように、読んでいる。これが思想転向なのか、ただ成長したということにすぎないのか、自分では判定のしようがないが、夢の同形は否定することができない。

アピールが向けられていたのは、決意表明がつねにそうであるように、書き手である本人にでもあり、大学の教職員にでもあったにちがいない。当時世間の基準からすれば少数派であった京都精華大学の内部で、夢はどこまで共有されていたのだろうか。開学二年目の学生募集要項に載せられた、われわれの大学が何者であるかの確認でありアピールであると言うべき一文でも、やはり岡本清一学長の主題は日本の大学の一般的状況への批判であり、ありうべき大学への希求であった。垣間見られるパターナリズムは、それが生きた人間の抱いた希求であったことの印であり、それ以上の意味はもたないだろう。また、一年たらずの時間ではあっても、すでに実際の教職員と学生とが存在していたのである。夢の共有がほんとうのところどうであろうと、現実の政治アピールとしては、自由自治の精神がすでに根づいたかのように語らねばならないという事情があったと推察される部分があり、そこはあきらかに多少は割り引いて読まねばならない。しかし、岡本清一学長のなかで、現実の行動の指針となる夢が、現実をくもらすことになっていたという考えを、私はとらない。

 ・・・略・・・ はじめは学生たちも、この大学の精神環境にとまどいと、ある種の不安を感じていたようにも見えた。しかしやがては自由は規律とともにあるものであり、自治には責任がともなうことを、生活を通して知った。そして大学という知的社会においてこそ、ほんとの意味での自由と自治の精神が生きてはたらかなければならないのだということがわかってくるにつれて、学生たちのはじめのとまどいは、この大学とその精神とに対する誇りに変わっていったのである。

われわれは今日のもろもろの大学に渦巻く不満と、あの不幸な学園紛争とは、けっきょくにおいて自由と自治の精神とその事実とが、学園に欠如しているからだと思っている。したがって高く自由自治精神の旗をかかげるわれわれの大学においては、いわゆる当局と大学人の間に、また大学の構成要素としての教員、職員、学生の三者の間に、いかなる秘密もあってはならず、そして学生もまた大学全体の運営から遮断されることなく、自治能力の開発をはかりつつ、その分限に応じて、これに関与することが望ましいと考えられている。大学におけるすべての機会は、教育と研究のためにこそ生かされるべきものである。かくしてこの大学は、教員のものであり、また職員のものであると同じように、学生のものとなる。そこにおいては学生の大学に対する疎外感は、生まれず、すなおな母校愛が成立するにちがいない。

このような教育環境の中で、学生たちはいま、きびしい訓練をうけている。はじめはその鍛錬に、耐え得ないのではないかとさえ思われたこともあった。しかし自ら芸術家として、また英語職業人として、専門家になることを志して入学した学生たちは、見事、最初の山を越えた。そしてこの鍛錬を外からの強制としてではなく、自治意識をもって受け止めつつある。

いま大学を志している諸君のなかに、もし、このような大学の在り方に共感する人があるならば、この新しい時代のための大学づくりの協働者として、いっしょに腕をくんでいきたい。そしてこの白い画布に大学の理想を描いていこうではないか。

・・・略・・・

やがてこの大学は、きわめて近い将来に、美術学部にはじまって、政治経済学部、英語英文学部というように、四年制大学になる。しかしわれわれは、少数学生主義を堅持しつつ、この教育環境をまもり、高めていく。学生と先生との間に、不信とへだたりのない大学。

・・・略・・・

現に、短期大学の美術科はそれから一〇年後、四年制の美術学部になり、さらに一〇年後には英語英文科も、政治経済学部でも英語英文学部でもなく「人文学部」であったが、四年制の学部になった。しかし、その一〇年、二〇年の月日の経過とともに、あれほど主張されていたはずの「失われた大学教育」の回復は、大学構成員による協働の目標とは、意識されなくなってしまっていたと言わなければならない。

短大からの四年制大学への転換そのものについても、経営実務を担うことになった人びとの現実主義的計画と、当初の岡本学長の夢とが、どのように重なりあったのかは、明らかに示されることはなかった。より深刻なことに、この発展について、教職員内部の協働が理念の指し示すようなものであったかどうか、学生の関与がどの程度のものであったかを考えると、協働からはほど遠く、分業であったと粉飾することさえ難しそうな、分解過程が示唆されることばかり思いだされてしまう。秘密主義でも相互排除でもなく、相互無関心・無責任が、蔓延しはじめていたのだ。検証のための記録は残されてはいないが、美術科から美術学部への改組に抵抗感をもった学生は少数ながらいたことはまちがいなく、英語英文科から人文学部への改組のほうは、反対運動というべき広がりをもった抵抗に行きあたった。学生たちには、一部ではあっても、英語英文科の廃止を母校がなくなることのように受けとるということが起こりさえしたのだ。結果的には、幸いなことに、四年制大学へと無事に移行することができたのだが、夢の共有ははるかに遠のいたという印象は否めなかった。

組織的凝集力の低下がここに至る過程は、じつはそれらだけを独立して論じなければならない、いくつかの出来事の連鎖を含むのだが、ここではそれに立ち入ることはしない。ここでの問題の焦点は、事件の連鎖としての歴史ではなく、私たちがそこに向かって集まるはずの夢が、いま、どこに、どのように、あるのかということだからだ。

極端な言い方をすれば、開学の理念から切りはなすことのできない四年制大学化の目標は、いつのまにか、協働によって実現すべき夢でさえなくなり、その他の夢の構成要素も、むかし誰かがたまたま思いついたコピーにすぎなかったかのように、たがいに無関係のただの言葉の羅列に解体されていた──ほとんど、そう言ってもおかしくなかったということである。四年制化の実現から今日まで、さらに一〇年が経過している。多くの短期大学が姿を消し、私立大学の三割が定員を確保できなくなった今の時点では、大学の経営にかかる圧力が、原初のこの大学の特異性の印であった、ほとんど唯一無二の、あの夢の告白と宣言を、完全に無意味化してしまわんばかりである。

これは、事態の、少し皮肉な推移だったと思う。学園紛争は、いまでははるか昔の出来事であり、もろもろの大学に不満が渦巻いているわけでもない。私たちの大学も、日本社会の経済成長とともに八〇年代を経過し、九〇年代には、わずか数年の間ではあったが、受験生のバブルを享受したのだ。もちろん成長の時代であれバブルの時代であれ、大学経営の至上命題は、その後に現実として迫る受験生激減期にむかって、いかに生き延びるかであり、そのことに手を抜いたわけではない。四年制大学化こそ、その実践の結果でもあった。そして、学生がどれほど大学に満足しているかという調査では、京都精華大学は安定して全国のトップクラスにある。これは、率直に喜ぶべきことではある。

しかし皮肉なことに、京都精華大学という少数派は、その内部において、批判精神も希求すべきものも忘れ去り、多数派のなかに横並びに並んでしまったように見えてしまう。学生数減少の不安を、他の多くの大学とまったく同じように、つまりは横並びになって、抱えてしまっているのだから。三〇年まえの、十八歳人口も大学進学率もこれから伸びていく時代のことは、今の状況にはいっさい参考にならないという考えに反論することは、実際のところたしかに難しい。他の多くの大学とあれほどに異なる、この大学の存在理由など、思いだしたり探しだしたりすることは無意味に思えてしまうのだ。結局、この大学が開設から三〇年を超えて存在しつづけ発展もし充実もしてきたのは、日本の経済成長や一八歳人口と大学進学率の上昇に還元されてしまう事柄であったかに思えてしまうのだ。開学から二、三年の時点では、理念に反することをせざるをえない事態となれば、いつでもこの大学を廃止しようと、会議のなかなどで実際に語られていたという。そこからの落差は、皮肉としかいいようがない。

ほんとうに、夢はもう夢としての力をもてないのだろうか。だから、私は、あの初期の大学案内の巻頭におかれた、おそろしく風変わりなアピールが、どれだけの人に、どのようにとどいていたのかを、繰りかえし問わなければならないのだ。

学問の自由と大学の独立、「失われた大学教育」をこの京都精華大学において回復すること──今日までのこの大学の現実の体験を振りかえれば、それはむしろだれも意識しなくなってしまった目標であったかもしれない。ひょっとすると、当初この理念に熱心であった人たちのなかに、時とともに制度疲労ならぬ観念の疲労のようなものが避けがたく発生していたということなのかもしれない。組織的凝集力の低下は、端的にそのことを表しているように思う。しかし、そうであったとしても、冷静に考えてみればわかることなのだが、あのような理念がもし語られなかったならば、私たちがここまでたどりつくということも、絶対にありえなかったのではないか。強く信じてであろうが、斜めにかまえながらであろうが、面白がってであろうが、私たちがここに集まってきているのは、あのおそろしく理想主義の宣言に向かってではないだろうか。

それがなければ、一人の教員が、控えめに計算しても一〇〇人の在学生を個人として知るという私たちの大学の現状が、どうやって実現しえただろうか。三〇〇〇人を超える学生数は、三〇年まえの岡本学長にしてみれば想定してはならない巨大大学を意味したかもしれない。が、「学生の精神を凍りつかせるような官僚主義的な環境の大学では、友情を培うことはできない。学生を群集のなかの一人としてしか扱うことのできない巨大大学においては、学生の孤独からの脱出はきわめて困難である」という、あのような言葉がなかったなら、実現していたのは、やはり学生を群集のなかの一人として扱う大学であったにちがいない。

開学の前年、「教育の基本方針に関する覚書」に、「人間を尊重し、人間を大切にすることを、その教育の基本理念とする」と書かれることがなかったなら──そしてまた、「かくしてこの大学は、教員のものであり、また職員のものであると同じように、学生のものとなる。そこにおいては学生の大学に対する疎外感は、生まれず、すなおな母校愛が成立するにちがいない」と語る者がいなかったならば──とりわけ、教員と職員の同一賃金などの、「非現実」的な実践をしてしまうほどの理想が語られなかったならば──こんな気風は育ちはしなかっただろう。岡本先生、他でもないあなたが、愚直なまでの理想主義の夢を抱き、それをあのように宣言することがなかったならば、いまある教職員と学生の親密度も、キャンパスに働くすべての人びとが親しみを込めて挨拶しあえる気風も、このようには実現しなかったにちがいないのです。

気風と、現実主義の働くべき組織政策とは、たしかに異なる次元にある。にもかかわらず、それは密接であることも疑いようがない。私は、三四年まえの京都精華大学のそれと、まったく同形の夢をもっているし、もちつづけるほかはない。夢の手直しなど、するべくもないことだからだ。だから、なお大学は創りださねばならないものだと考える友人たちとともに、現実の趨勢からすればおよそ困難な課題と言わなければならない、その夢を、こう語りつがねばならないと思う。

──大学は、学問を発見する場所でなければならない。大学の学問と教育のために求められるのは、高校段階の知識的学力というよりは、むしろ知的鍛錬にたえる忍耐力と、深い思考のための誠実な精神のはずである。入学のための道筋も、極力このことに沿うよう、改良されていく。易きについて、学生を知的鍛錬へと向かわせることを回避してはならない。大学は、そのような教育の場であるが、その教育は深い友情を伴わなければ起こりえない。自治と呼ばれるものの根底に必須なのは、この友愛の精神である。学生を群集の一人として扱うことのないよう、京都精華大学は、一人の教員が一〇〇人の在学生を個人として知る現状から後退することがないようにしなければならない。また、学生と教職員のみならず大学に働くすべての人びとが、ともに人間として尊重される気風を、さらに強め維持しなければならない。そして、学問の自由と大学の自治は、かえってその輪郭を失いつつあるように見えるが、私たちの大学は自らを積極的に社会にむかって開くことによって、 それを回復しなければならない。