第2回 人間・荒畑寒村

インバネス・コート(とんび)明治三十九年九月十二日の、雨ふりしきる午後二時頃、吾輩の仮の主人、荒畑寒村は、由分社の玄関に吾輩を脱ぎ捨てて、「たゞいま」と威勢よく叫んだ。吾輩は直ちに、何んかの手にとり上げられて、鴨居にかけられた。

荒川寒村「インバネス物語」より
挿画:インバネス・コート(とんび)


私たちが読んでいる記事は、紛れもなく人間によって書かれている。しかし、私たちがあえてそのことにふれようとすることがあるだろうか。ある記事が、どんな人物によって描かれているのかを知ることで、記事はまたちがった色合いをおびて私たちにかたりかけてくるだろう。


■宿題報告──荒畑寒村はジャーナリストとしては感情的?

中尾ハジメ:宿題はやってきた? それぞれのやり方でやってあればいいです。みんなどうやらそれなりに力を入れてやったみたいだから。じゃあ、どんなことをやってきたか聞きますね。えっと、書いてきたものがありますね。それを見ながらでいいから、やってきたことの要点を言ってください。書いてきたものをそのまま朗読しないで、要点をね。じゃ、溝脇恵里子。

溝脇恵里子:前の授業では、「ジャーナリズムとは何か?」という問題をめぐって、ふたつのことがあがっていたと思います。ひとつは、「意見・主張」であるということ。もうひとつは「事実の報道」でした。私自身は、ジャーナリズムにはそのふたつとも必要だ、という感じがしていて、寒村の『谷中村滅亡史』は、たしかにそのふたつの要素を備えているんですが、「感情」の方が強くでて、「事実」がちょっと曖昧であるように感じました。

中尾ハジメ:恵里子、どこまで読んだ? 全部読んだ?

溝脇恵里子:うーん、微妙(笑い)

中尾ハジメ:うーん、もし、「主張」と「事実」というふうにわけるなら・・・恵里子は、「感情」ともいってましたね。まあ、「主張」ってのは、「感情」がこもるもんなんだよね。で、恵里子によると、『谷中村滅亡史』は、「感情」が勝っていると。じゃ、つぎは鷲見(すみ)さん。

鷲見幸子:『谷中村滅亡史』の最後のところで、『滅亡史』を読み返した晩年の寒村が、「感情的すぎて自分でもやりきれない感じだ」と言っていました。私も読んでいて、「感情的だ」と感じました。でも、報道というのは、伝えたい! ということがあって書かれるものだから、これはこれで、報道の原点だと思いました。

中尾ハジメ:「原点」と言いましたね? それは、「報道の歴史」のようなものがあって、「さかのぼれば、そもそもはこうだった」というようなことがいいたいのかな? もし「ジャーナリズムの歴史的はじまりは、感情の産物だったのだ」というようなことを主張したいのであれば、まずは「ジャーナリズムの歴史」のようなものを勉強する必要がありますね。ただ、必ずしも「歴史的に進化してきた」ということじゃなくて、とにかく何かの「感情」がなければコトは始まらないでしょう、というふうに言っているのであれば、そうかもしれません。「原点」という言葉で、どっちがいいたいのかな? 僕が何を言ってるかわかんない? あ、そう。僕は、そういう歴史的探求の仮説を持ってもいいと思うんですけどね。
鷲見さんの言ったことは、溝脇さんの言ったことと重なっている部分もありますが、違うこともある。方法として少し違うのは、自分の意見の根拠を、具体的に本の中から取りだしている点ですね。もうひとつの違いは主張する内容の違いで、鷲見さんは「原点」という言葉を使って、「むしろ感情がなくてはだめなのだ」ということも言っていますね。じゃあ、山下さん行くかい?

授業の様子

山下明美:私は小学校の時に、田中正造の書いたものを読んだんですが、やはり田中正造に比べて、寒村の方が感情的だというか、荒々しさというか、そういうものを感じました。でも、こういう仕事をしている人は、ある程度感情的でないと、人に伝えられないだろうなと思いました。

中尾ハジメ:田中正造の何を読んだの?

山下明美:えっと、国語の授業だったので、教科書に載ってたやつです。

中尾ハジメ:なーんだ。うーん、田中正造だってすごく感情的だぞ。情報館に『田中正造全集』がありますが、見た人いる? いない? 見た方がいいから見といてね。えっと、今の意見は鷲見さんの意見に近いね。ほかのこと言いたい人いる? お! じゃあ、長澤。

長澤智行:漢字とか難しくて、読みにくかったんですけど、明快だったら、もっといいことが分かるんじゃないか、と思いました。

中尾ハジメ:そりゃおまえが読めなかったって話かい? 現代語訳がほしいってこと?

長澤智行:それは、欲しい。

中尾ハジメ:他に何か言える人いる? じゃあ、岡本君。

岡本恵一:『谷中村滅亡史』は、荒畑寒村が20歳の時に書いたもので、田中正造に頼まれて書いたということだったので、荒畑寒村は確かに書いたけど、その場で体験したことでなくて、田中正造に聞いて一気に書き上げたものだと思います。荒畑寒村の言葉ではあるけれども、同時に田中正造の言葉なんじゃないかな、と思いました。ただ、巻末に天皇制反対の言葉とかあって、田中正造は自由民権運動とかしてたけど、天皇に直訴に行ったりするんだから、そういうことは書かないと思うんです。だから、そこら辺は荒畑寒村自身の言葉なのかな。

中尾ハジメ:うーん。しかし、問題意識としてははなかなかいいですよ。結論だと思わない方がいいとは思うけど。岡本君によると、田中正造に聞いて、荒畑寒村が書いたものではないかということだけど、それは事実確認をした方がいいです。また、寒村は実際村にいなかったのではという趣旨のことを言いましたけど、それも調べる必要がありますね。ただ、そういう問題意識を持つのはとてもいいですね。
ほかに意見ないかい? お、田上さんどうぞ。

■寒村に感動した田上さん

田上奈緒:緒言しか読んでないんですけども、緒言の最後のところに、谷中村を何度か訪れたと書いてあるんですけど。あと、「しかも事遂に茲に至る、吾人そもそもまた何をかいわんや」というところに感動しました。

中尾ハジメ:いま二つのことを言ったね。ひとつは岡本に対して、岡本は谷中村に寒村がいなかったのではという問題意識を持ったけど、ここにはこう書いてあるよと。そういうことでしょ? もうひとつは、ちょっとおもしろいこと言ってたね。「何をかいわんや」が、どうしたって? 感動したの? じゃあ、田上さんの感動が間違っていなかったということを証明するために、現代語訳してみたいねえ(笑い)。目の付け所がよいと思います。しかし問題はねえ、僕もそうなんだけど、スラスラ読めないんだよね。だから、荒畑寒村の心情を、この部分に焦点を合わせつつ、今の僕たちがわかるようにしてみましょう。

田上奈緒:えーと、「さきに幾度か谷中村を訪ね、またしばしば政府の暴政と村民の惨状とを、江湖に訴う・・・」えっと、江湖(こうこ)ってなんですか?

中尾ハジメ:(笑い)江湖とはなんでしょう? 湖のことじゃないよね?

田上奈緒:「世間」ってこと・・・ですか?

中尾ハジメ:うん、そうだね。

田上奈緒:「ジャーナリストとして、何度か現地を訪れて、その状態を世間に何度か訴えてみた。それだけども、事態を止めることができずにここに至ったので、もう何を言ってもしょうがないんだけど、でも、黙ってはいられないような気持ちがあり、これを書いた」。

中尾ハジメ:渡したプリントの中には載ってないんですが、「自序」という部分があります。非常に短いんですが、簡潔に三つの文章がありますね。「今年六月十日、田中正造翁と共に谷中村を訪(と)う。当時翁予に語っていわく、希(ねがわ)くば他日谷中村の為(た)めに、一書を著して世に訴えよと。しかして古来いくばくもなく、谷中村破壊の悲報はいたって予の耳朶(じだ・みみたぶ)を打てり。予痛憤措く能わず、直ちに筆を執って草したるもの、すなわち本書なり」。ものすごい短期間に書いたんだね。「されど、その稿を起こすにあたってや、予の年少菲才(ひさい)にして、学に浅き文字に乏しきとは、遂にかくのごとき杜撰なるものを作るに至れり。これ、予の深く恥じるところなり。ああこの一小著が、世にむかって谷中村問題の真相を語るのとき、顧みれば谷中村は、すでに滅亡してあらざるなり。稿を終えてこれを想う、哀愁胸に迫って、涙、雨のごとし」。
・・・・。ほんとに泣いたんだよね、彼。うーん、どうするかなこういうの。なにをかいわんや。

長澤智行:わかんないです。

中尾ハジメ:僕が朗読しても、寒村が何を言ってたかわかんないってこと? そうだねえ、なかなかわかんないね。じゃあ、こちらに、もうちょっとわかりやすいものがあります。配るね。

■荒畑寒村とは、どういう人だったか?

中尾ハジメ:写真を見てください。こういう人だったんだね、荒畑寒村。

岸本智史:いつ生まれた人でしたっけ?

中尾ハジメ:1907年に20歳ってことは、いつ生まれたんだ?

岸本智史:1887年。

中尾ハジメ:1981年に死んでる。長生きだったんだね。配ったプリントの最後の一枚、年譜で、寒村の生涯をまとめてあります。ちょっと読んでみようか。5分もかからないね。読んでください。

中尾ハジメ:読んだ? まあ、どういう人だかちょっとわかったよね。(黒板に「原点」と書きながら)えーと、こういう言葉は、便利だからみんな使いますね。「足尾銅山事件は、日本の公害問題の原点だ」とかいう言い方とかで使うね。でも、何を原点とするかというのは難しいね。たとえば、長澤が、何かを指して「これが俺の原点だ!」なんて言えちゃったりしてさ。いい加減なものに思えてしまいますね。しかし、これ読んでみると、ただ田中正造に頼まれたから書いたという訳じゃないけど、あるところで田中正造に会っちゃったとか、そういうことはある種の「原点」なんだろうね。こういう年譜見てると、なんか見えちゃうわけだよ。

さて、いったいこの寒村ってのは、何なんでしょう? これは、ジャーナリズムと呼んでいいんでしょうか? まったく、この人は何回、刑務所に入ってる?

それでこんどはですねえ(筑摩書房『明治文学全集 −明治社会主義文学集』から紹介)、「インバネス物語」、「舞ひ姫」、「座布団」、そのあとに、「流れ木」という詩があります。岡本君は、こんなの見てどう思う? こんなものも書いてるじゃないか。これらはジャーナリズムですか? 大変だねえ、ジャーナリズムってのは。

「インバネス物語」は、『光』ってのに載ってたんですね。明治39年9月25日。「舞ひ姫」は、『日刊平民新聞』第1号、明治40年1月15日。それから「座布団」は、『新聲』、明治40年9月。『新聲』は 「新しい声」ということだったが、1年間でなくなっちゃたんだね。さて、『谷中村滅亡史』はいつ世に出ていますか? 明治40年8月。 (筑摩書房『明治社会主義文学集』巻末の年譜、荒畑寒村の項を使って)年譜の方を見てください。「明治37年、1904年。17歳。社会主義協会に入会」で、10月には、「満州軍の倉庫本部庫手に採用されて大連にわたった。病気にかかり帰国。大晦日に麻布広尾の赤十字病院を出て帰宅した」。これが17歳。18歳では、「山口弧剣や小田頼造の影響により」──影響受けちゃったんですねえ──「4月から7月まで、東北方面に向かって社会主義伝道行商に出た」。なんですか、「社会主義伝道行商」ってのは? 「7月10日、修繕した赤車を引いて第2次の伝導行商に出発。14日、谷中村で田中正造に会い感動した」。ここで会ったんだね。うーん、歩いて車を引くくらいのことをしないと、人と出あうということもなかなか起こらないのかもしれませんね? で、「10月9日、平民社の解散前、堺利彦の紹介により、紀州田邊(きしゅうたなべ)の『牟呂新報』の記者となるため、東京を去った」。ほんとにいろんなことしてますね。で、明治39年。これは『インバネス物語』が書かれた年ですが、「19歳。2月、『牟呂新報』の記者となって来社した管野須賀子と相識った。4月、堺に呼び戻され、上京して社会党の機関誌『光』や『家庭雑誌』などの編集を手伝った。8月、堺家を抜け出し」──抜けだすってのもどういうことかね?──「京都の管野の家で須賀子と同棲した」。ちょうどみなさんくらいのやることだねえ。「明治40年20歳。一月、創刊された『平民新聞』に参加。第一号に小説『舞ひ姫』を執筆した。管野と結婚」。「8月、最初の出版『谷中村滅亡史』を平民書房より刊行。25日、発売と同時に発禁となった。10月、大阪日報に入社、森近の『大阪平民新聞』の編集に協力した。明治41年、21歳。3月歸京(ききょう)。6月、赤旗事件によって検挙され、9月千葉監獄へ移った。明治42年、22歳。獄中で幸徳と管野の恋愛事件を知り、苦しんだ。23歳、2月。出獄した。五月、拳銃を持って湯河原に幸徳を訪ねたが会えなかった」──会えなくてよかった──「6月、幸徳事件」。この幸徳事件というのは、大逆事件のことだと思います。「大日本印刷の職工になるが、1ヶ月ほどで素性が見破られ、解雇された。夏、桂首相の暗殺をはかったが果たせず、房州の保田吉濱の網元秋吉屋に身を潜めた」。そして、「明治44年、1月。上京し」──幸徳は死刑になったから──「幸徳らの遺骸を引きとった」。まあいろいろ書いてありますね。大変だ、ジャーナリストは。 あとで、「インバネス物語」とかを読むことで、ああ、こういう人かってのがわかると思います。

■文学? ジャーナリズム?

中尾ハジメ:先週、誰が言ったっけ? 「そもそもジャーナリズムって何?」という問題を立てましたね。土屋君、ジャーナリズムってなんですか?

土屋悠太郎:報道?

中尾ハジメ:報道? それで、ルポルタージュというのは?

土屋悠太郎:・・・沈黙・・・

授業の様子中尾ハジメ:何かを問われても、さっと答えられないことがあります。でも、答えがないわけじゃないです。それから、間違っていても、答えたっていいんです。例えば、よかったのは、「田中正造って誰だ?」ってきいたら、「だれかに何かを訴えた人です」なんて言ってみたりね。(笑い) もうちょっと何とか言えよって感じがしないわけじゃないけど、まあいいじゃないですか。

ジャーナリズムとは何か、っていうことは、すでに存在しているジャーナリズムと呼ばれているものを繰り返し、繰り返し目の当たりにしなけりゃいけないんです。新聞見たら、書いてありますね、「ジャーナリストだれだれ」って。そういうのを見てくしかないんです。それに、時代によって、ところによって、何を「ジャーナリズム」としているかは違うかもしれませんね。みなさんに読んでもらった『谷中村滅亡史』は、これは、この授業で扱うジャーナリズムの典型だということで読んでもらいました。いいかい? ところがね、この、筑摩書房から1965年に出ている、『明治文学全集』の96巻には『明治記録文学集』というのがあって、「谷中村滅亡史」が載っています。だから、これは、記録文学なんだよ。ところが、記録文学とはなんだってことをききたくなるでしょ? で、たとえば、筑摩書房はこれを記録文学に分類したって具合に答えられますね。それぞれにとってのカテゴリーのようなものがある。さて今度は、みなさんに配った「インバネス物語」とか載ってるプリントは、『明治社会主義文学集』からのものですが、なんですかこれは? こんどは「社会主義文学」。しかし、文学ってなんでしょうね? しかも、「社会主義」。これもよくわからない言葉ですねえ。これもたぶん、「社会主義者」と言われる人たちを見るとかして、わかっていくという方法があります。辞書とか事典を見れば、数行で答えてるけど。そして、辞書の側からすれば、その数行でわかるはずだと思ってるだろうけど、まあ、なかなか無理だろうね。わかる過程は、その言葉が使われている実例を見ていくことによるんですよ。そういう理解を蓄積していくんですね。

で、宿題。来週までにしてくることは、先週出した宿題と併せてね。

学生:(宿題、と聞いて、やや不満げにどよめく)

中尾ハジメ:さて、先週、「フィクション」ていうものがあって、「ノンフィクション」てものがある、というはなしをしました。いささか馬鹿な問いかけですが、この寒村の書いた外套のはなし、「インバネス物語」は、フィクションですかね? ノンフィクションですかね? これを考えてきてください。先ほどからたびたび言っている「事実」っていうのは、どういうことを指してるんですかね? 誰かは、「感情」という取りあげ方をしていましたよね。いったなんなんでしょうね?分けちゃいけないとは言わないけど、分けられるものなんですかね? 人間としてのジャーナリストについて、事実と感情と、それを分けられるんでしょうか?

この「舞ひ姫」や、「インバネス物語」という、『谷中村滅亡史』とほとんど同じ時期に書かれた三つの話を読んでみると、『谷中村滅亡史』は、どう位置づけられるかね?

学生:(中尾ハジメは何を言っているんだ、というふうにどよめく)

中尾ハジメ:うーん、宮川さん。宮川さんなりに、今回の宿題の趣旨をまとめるとどうなる?

宮川真理子:えーと、「インバネス物語」がフィクションなのか、ノンフィクションなのかを考える?

中尾ハジメ:それは、隠し味なの。メインじゃないの。というのもね、それについては、何とも言えないって感じでしょ。例えば、「インバネス物語」はね、主人公は、ただの外套なんだよね。外套が話したりするはずないでしょ? ところがね、この後に人の名前が出てくるでしょ? これ、全部実在の連中じゃない。それで、どこそこの刑務所に入ってたとか、実際にあったことでしょ?

宮川真理子:(大変に困った様子で)わかりません。なにがなんだか。えっと、「位置づけ」ってなんですか?

■中尾ハジメ、不安な学生のために「ジャーナリズム」を定義しようとする

中尾ハジメ:そうだね、わかんねえよな。いいよ、わかんなくて(笑い)。よし、じゃあ別の言い方をしてみような。よーし、よく聞けよ。環境ジャーナリズムっていう授業があります。で、環境ジャーナリズムっていう授業は、環境問題を追求するジャーナリズムがあるって宣言しています。

学生:(不安げにどよめく)

中尾ハジメ:あるって言ってるんだよ(笑い)。で、そのジャーナリズムは、機械的なもんじゃないんです、当たり前のことだけどね、人間がするんですよ。そのジャーナリズムをね、明確に種類に分けられると言わないけど、でも、どうやらいろいろあるようだと。つまり、問題へのいろんな迫り方があるということです。ジャーナリズムってのは、まちがいなく、たくさんの人に何かを伝えるって仕事だね。その方法にいろんなやり方があるわけですね。で、そのひとつの典型として、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を取りあげているわけですね。みなさんのアタマの中には「ジャーナリズムってなんだろう」ていう問題意識があるようですよね? それで、試験に答えるための回答のような、「ジャーナリズムとはかくかくしかじかのものである」というような答えが早く欲しい、と思っているでしょうが、そうはいかないんです。いろんな迫り方があるとしたら、まず、それを見なきゃいけないんです。で、毎回の授業で少しずつ見ていくから、すこしずつ手がかりを手に入れていって、それをたよりにやっていくんです。あせらなくていいんです。で、今日はその第2段階なんです。荒畑寒村は、『谷中村滅亡史』だけじゃなくて、いろいろ書いてる。で、それは、みなさんがあらかじめ持ちたがっているジャーナリズムという枠組みではとらえられないかもしれない。だけども、みなさんにとっては不幸なことに中尾ハジメには、このおかしなシロモノたちを、『谷中村』と一体として、とらえざるを得ないという感じがあるんです。だから寒村のいろいろな作品を見た後に『谷中村滅亡史』っていうのは、どういう目で見ることができるだろうか。で、その目は、こういう目だっていうのを、僕が先に言っちゃうとおもしろくないからね、言わないの。

『谷中村滅亡史』を読んだでしょ? あるいはこれから読むでしょ。それでもって、「インバネス物語」も読むでしょ? するとね、何かでてくるの。

宮川真理子:「何か」ってなんですか?

中尾ハジメ:知らないよ。でてくるんだよ。「何か」が。

学生:(ええー? わかんないよー、というふうにざわめく)

中尾ハジメ:『共感する環境学』は読んだ? あのね、このなかのね、中尾ハジメが書いた部分を精読しなさい。不評な文章ですが、日本語なのは間違いないから。一行一行丁寧に立ち止まって読んでください。これを読むとですね、「ジャーナリズムってのはこういうことかな」っていうのがおぼろげにでてくるはずです。それがひとつ。その次はこちら。夏休みまでに石牟礼道子の『苦海浄土』というのを読んでください。講談社文庫、524円。わかった? で、こっちは買わなくていいですけどね、『レ・ミゼラブル』。岩波文庫ではその第4巻に、「怪物の腸」ってのがでてくる。みなさん、『ああ無情』って、多少は知ってるでしょ? 土屋君、どういう話?

土屋悠太郎:女の子ががんばって生きるはなし?

中尾ハジメ:(笑い)まあいいや。いずれ、こちらに進むので、じっくり読んでおいてください。

さて、石川三四郎って知ってる人? 知らない? ジャーナリストはそういうの調べなきゃいけないの。この写真見てごらん。「石川三四郎と山口弧剣の入獄記念」。これから刑務所に入る記念って言ってるんだよ。いったいどういう人たちだろうね。さて。今週はここまで。次回は宿題を提出しないとだめだよ。わかったね。

石川三四郎と山口弧剣の入獄記念写真石川三四郎と山口弧剣の入獄記念写真(明治40年4月25日)
筑摩書房『明治社会主義文学集(二)』より

授業日: 2001年4月24日;