第6回 これまでの授業・ただの挫折か? 収穫か?

不思議の國のアリス「ここからどの道をゆけばよいのか、教えてはいただけません?」
「そりゃ、まったくあんたのゆきたい方角次第だよ」とネコは言いました。
「わたし、とくべつにどこへと言うことも ──」とアリスは申しました。
「それじゃあ、あんたがどの道をゆこうと、かまわんじゃないか」とネコは言います。
「──どこかに出られるものなら」とアリスは説明をつけ足しました。
「なあに、どこかに出られるにきまっているさ」とネコは言いました。「たっぷり歩きさえすればね!」

ルイス・キャロル『ふしぎの国のアリス』
生野幸吉 訳
ジョン・テニエル 画


「環境ジャーナリズム」という言葉はあるが、資料として提示される、その例は、どうやら学生諸君の考える「ジャーナリズム」という範疇におさまりきらない。そのせいだろうか、なかなか前へ進めないという様子が目だってきた。しかし、こういう場面こそ、思考の過程を振りかえるために大切な素材が豊かにあるはずだ。遅々とした足取りであっても、躓きを躓きとして認め、混乱を疑問の形に変え、思い込みを解体し、新しい知への道のりを切り開かなければならない。あれこれの混迷を言葉にすることができれば、それだけでも収穫だ。


■「怪物の腸」は環境ジャーナリズムか?──岡本恵一

中尾ハジメ:『レ・ミゼラブル』のレポートを提出してもらいましたが、内容は少々ミゼラブルでした。どういうことかな。読めないんかな? ちょっと、聞いてみたいと思います。岡本君、どう? 「怪物の腸」、歯が立たないって感じかい?

岡本恵一:やはり、長い小説の部分だけ取り出しているせいか、舞台背景がよくわからなかったり、ユーゴーの時代についての知識も少なくて苦戦しました。

中尾ハジメ:環境ジャーナリズムの文献としてはどうだった?

岡本恵一:「怪物の腸」が、いわゆる「環境問題」についてどういう態度なのか、よく分からないんです。

中尾ハジメ:それは、こまったな。これが実状なのかもしれないんですが・・・、今日で6回目だね。どうもみなさんのレポートを読んでみると、僕が期待しているようには、理解が進んでいるようではありません。必ずしも、全くダメだというわけではないんですが、この辺で、いちど振り返って反省をしてみたいと思います。で、みなさんの方から、疑問でもいいし、横道にそれるようなことでもかまわないので、考えたことを言ってください。じゃあ、姉崎君から。

■ジャーナリズムに出会う──姉崎晋悟

姉崎晋悟:ぼくにとっての「ジャーナリズム」は、中尾先生がくれる資料のイメージとずいぶん違っていました。じぶんの持っていた「ジャーナリズムのイメージ」以外のものに次々と触れることで、ジャーナリズム観が揺るがされました。そして、あらためて「ジャーナリズムとは?」ということを考えるようになりましたが、まだ自分の中でまとまりはついていません。

中尾ハジメ:「ジャーナリズムがどういうものか考える」というようなことだけど、これまでの授業で、その補助線になりそうなものをいくつか提示してきたね。たとえば、『谷中村滅亡史』。しかしミシュレの『海』なんかも、どういうわけか君にとっては意外だったかもしれないけど、ジャーナリズムなんだよね。そういうことが腑に落ちないということは、それはそれで手がかりになるから、ちゃんとノートとっておくんだよ。井本君は、休みか。あ、いるね。井本君。

■言葉には力がある──井本 彰

井本 彰:ひとの書いた「言葉」が、こんなにも説得力を持って、ぼくに語りかけてきたことは、ほとんど初めてだったように思います。いささかありきたりな言葉でしか言えないんですが、改めて、大量に印刷されたものであっても、思いを込めた言葉というのはすごいな、ということを考えました。

中尾ハジメ:たしかに、ほんとうはすごいことなんだけど、ふだん見落としがちのことであります。多くの人に伝えるというのは、どうでもいいことではないんだよね。しかし、「環境ジャーナリズム」ということにつなげて、気がついたことや、何か言えることはない?

井本 彰:それは、まだうまく言葉にできません。

中尾ハジメ:そうかぁ、がんばれよ。大島君はいるか?

■『レ・ミゼラブル』── 普通の小説とは?──大島昌行

大島昌行:はい。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』は、高校の時に読んだことがあったんですが、そのときは普通の小説としてだけ読んでいたので、「怪物の腸」の「環境ジャーナリズム」のような視点に気が付かなかったです。僕は「普通の小説」には、ああいうやりかたで社会に問題意識を投げかけるような態度があると考えたことがありませんでした。だから高校のとき読んだときも、確かに全部読んだんだけど、「怪物の腸」の部分はストーリーに直接関係のないもの──ただ時代背景の細部を描くことで雰囲気を盛り上げる働きをするようなものにすぎないと判断したんですね。高校の時は、冒険的物語にとても没頭していたんですね。

中尾ハジメ:で、読み直してみてどうだった?

大島昌行:それは、まだうまく言葉にできません。

中尾ハジメ:そうか。でも、まあいいから、しっかり、いま考えたようなことを書き留めておくんだよ。じゃあ、次、大場君。

■補助線として役立たない「補助線」──大場明広

大場明広:ユーゴーや、その他の人たちを「補助線」と、先生は言ったけど、僕の中では、いわゆる「補助線」として機能しませんでした。だから・・・

中尾ハジメ:よし、そこでいったんストップ。僕が「補助線」だと言った。で、大場君には「補助線」とは、こういうものだという考えがあるんだね。

大場明広:「補助線」ということで言うなら、ユーゴーやミシュレは、最初にやった、ジャーナリズムとしての『谷中村滅亡史』についての理解を深めるのに役にたつように思われないんです。

中尾ハジメ:よーし、じゃあ、ちょっと全体的に考え直してみましょう。僕たちは、「環境ジャーナリズム」に取り組もうとしていますが、そういうことをやっていく上で、いったいどういうものが「補助線」になると考えていますか?

大場明広:・・・よく、わかりません。

中尾ハジメ:それは、おかしいな。だって、補助線についてなんのイメージもないとしたら、「怪物の腸」を読んだら、「ああ。これが補助線なのか」って思うでしょ。

大場明広:たしかに、「怪物の腸」は読んだんですけど、どうもしっくりきませんでした。

中尾ハジメ:よくわからんかったんやね。ミシュレの『海』の方は?

大場明広:こっちも・・・。正直に言うと、ミシュレの『海』を読むことで、逆に「ジャーナリズム」が、いったい何なのかが分からなくなってきました。

中尾ハジメ:よ〜し、よし。いいところに来ました。どうもミシュレは、君が考えている「ジャーナリズム」というものにあたらない、ということだね。

大場明広:・・・はい

中尾ハジメ:じゃあ、君が思い描いていた「ジャーナリズム」ってのはいったいどういうものだろう。「ジャーナリズム」とは何なのかを問われれば、すぐに答えが出るのか。それともはっきりしていないのか。なんとなく、中尾ハジメの用意するものはジャーナリズムとは違う気がするけど、じゃあ、ジャーナリズムがなんなのかと聞かれたら答えられない。ある種の矛盾ですね。もし、そういう矛盾があるんだったら、その矛盾を大切にして下さい。そしてそれを書き留めて下さい。

でね、ちょっといまの質問への、ある側面からの答えになると思うんで聞きますが、ピューリッツア賞って聞いたことあるかい?

■ピューリッツア賞は、ジャーナリズムにあたえられる?──岸本・池本・小畠・清水・蔵持

岸本智史:聞いたことあります。

中尾ハジメ:おまえは、何でも聞いたことあるんだな。(一同笑い) 岸本君以外では?(まばらに手があがる)そうかそうか。池本さん、ピューリッツア賞はどういう賞だい?

池本奈美:報道写真に与えられる賞。

中尾ハジメ:確かにそれもあります。しかし、もう少しつけくわえられないかな? 小畠さん?

小畠史絵:戦争写真の展示会を見に行ったときに、その名前を聞いたことがありますが、その時も今も、それがなんなのか、ということはよく知らないままです。

中尾ハジメ:よーし、じゃあ、きっしー(岸本君)だ。

岸本智史:えーと、記憶によると、すぐれた報道をした人に与えられる賞って聞いたことがあるんですけど。

中尾ハジメ:ほかに、ピューリッツア賞っていうことで何か言いたいことある人いない?

清水千絵:はい。94年ごろのことだと思うんですけど、飢餓の状況の恐ろしさを訴えるために、ハゲタカだったか、ワシだったかに、女の子が食べられそうになっている写真がありました。その写真家は、確かピューリッツア賞をもらったんだけど、何で写真とってるひまがあったら、その子供を助けなかったんだ、ってせめられて、自殺してしまった話を聞いたことがあります。

Pulitzer Prize 1994 Feature Photography 部門 Kevin Carter, free-lance photographer

Pulitzer Prize 1994 Feature Photography 部門
Kevin Carter, free-lance photographer

中尾ハジメ:そうか、そうか。その話には、また、別の問題提起がありますね。報道する人は写真を撮ったりして、それはそうだけど、なんで、その場にいる人を助けないのか? たいへんな、深刻な問題です。それは、また別の時に考えましょう。で、岸本説によれば、ピューリッツア賞は、すぐれた報道をした人に与えられる賞、ということでした。これ、与えられるのは、賞状だけじゃないんだよね。賞金がもらえるんだよ。ピューリッツアって人は、いつ頃の人だと思う?

岸本智史:19世紀後半から、20世紀初頭の人ですか?

中尾ハジメ:ピューリッツアは、たしか、ドイツからの移民だったと思いますが・・・ファースト・ネームはジョセフだったかな。生きていたのは、1847年から1911年にかけてだね。で、もうひとり、ウィリアム・ランドルフ・ハーストって名前は聞いたことある?

岸本智史:たしか、アメリカの新聞王と呼ばれた人だと思います。なんて新聞だったか、忘れちゃいましたけど、もともと父親が持っていた、小さな新聞社を継いだんだけど、そのあと、アメリカでも有数の新聞社を作った人だと思います。

中尾ハジメ:そうだね。で、この2人は実はライバルなんです。ハーストは1950年頃まで生きてたと思います。で、『市民ケーン』って映画知ってる? 知らないか。まあ、いいや。このジョセフ・ピューリッツアも、新聞社を持っていて、ものすごい数を発行したんだね。こういう人たちの新聞を「イエロー・ペーパー」と呼びました。すごく大衆に売れたんです。発行部数は、30 ・・・ いや40万部を超えていたと思います。そんな日刊紙を出していたんです。ピューリッツアは、移民です。だから、最初はドイツ語の新聞の記者をしていました。そこから商売を広げていったんです。で、そのピューリッツアって人が、正確な年号は忘れましたが、1900年ごろにコロンビア大学に新聞学科を作ったんです。新聞学科を作るために、ものすごい資金を寄付したりしました。で、死んじゃうんですが、遺言で、ピューリッツア賞が作られるんですね。で、こんな事は、どうでもいいことかもしれませんが、このあいだ読んだ、『ナチュラリスト』って覚えてる?

蔵持志乃:エドワード・ウィルソンが書いたものです。

中尾ハジメ:そうだね。ナチュラリストが書いた、『ナチュラリスト』だね。で、ナチュラリストってのは、博物誌や自然誌を書く人だったね。博物学者とか、自然誌家といいましたね。で、彼は、実は2回、ピューリッツア賞をとっていますね。で、これは、ジャーナリズムじゃないの?ピューリッツア賞はジャーナリズムに関係あるんだからね。ウィルソンはノンフィクション部門で受賞したんですが、中尾ハジメの考えるジャーナリズムなんだね。まあ、こんなことは、本来考えられないことだけど、もし19世紀のヨーロッパにピューリッツア賞のようなものがあれば、ミシュレなんか、受賞していたと思うんだよね。日本であれば荒畑寒村も。ところで日本人で、ピューリッツア賞を取った人を知ってる? 知らない? 関心のある人は調べるように。さて、ここまでの一連の話──こういうのを「補助線」というんですが──なんとかして、どうやって輪郭をとるか、つまり、絵を描くにしてもいろいろな素材を、線やら点やらを、利用していきますが、それをどうやって作っていくかが問題です。ほかに、何か言える人いる? 小松原さんいる?

■言葉にはいろんな意味がある──小松原佳子

小松原佳子:・・・ ・・・ ・・・ ・・・。

中尾ハジメ:なんなんだ、いったい。しゃべんなさいな。

小松原佳子:今日、ここまでの授業を見てきて、言葉には、私が普段その意味をあまり考えずに気軽に使っている言葉であっても、いろいろな意味があって、それをいいかげんに使ってはいけないと考えさせられました。しかし、あらためてしっかりと意味を踏まえながら言葉を使って、考えようとするのですが、なかなかうまくいかないんです。

中尾ハジメ:いいね! そのとおり。言葉にはいろんな意味があります。自分が使っている言葉に、自分が使っている意味以外の意味を込めて使う人がいたりして、そういうのに気づくんですね。それは重要な発見です。ほかの人はいったいどういう意味で使っているんだろう。そして、どうやったら、ほかの人が使っている言葉の意味と調和できるか、あるいは、たたかうか。そういうことが必要なんですね。そういうこと言いたいの?

小松原佳子:・・・はい(笑い)。しかし、やっぱりこの授業の中でいうなら、「ジャーナリズム」という言葉について、なかなかうまくいきません。この授業は、ひとことひとこと発言するのに、とても緊張してしまうんです。

中尾ハジメ:言葉がいろいろなことを意味するということと、この授業が何をみなさんに求めているかという問題がからんでいて、少々やっかいです。この授業を通じて、「ジャーナリズム」という言葉を、ほかの言葉で言い換えられるようになる──同じような短い言葉でなくて、もう少し長い言葉でも同じですが、とにかく反射的に言い換えられるようになる──で、それをおぼえさえすれば、意味が分かった、というように思うかもしれませんが、僕はそういうのはイヤです。何言ってるか分かる?

それから、「ジャーナリズムは斯くあるべし」っていうことで、「環境ジャーナリズム」の第1回目の授業で清水さんと佐々木くんが、「斯くあるべし」なんて言い方こそしなかったけど、ある種の定義をしていたよね。一方は「ジャーナリズムは事実の報道」で、一方は「ジャーナリズムは主張」というようなことを言いました。それは、バカにはできないことだと思うんですが、でも、それだけでは、ジャーナリズムという言葉の意味は分からないはずです。で、僕なんかはいろんな例を挙げていったら、分かるようになるだろう、なんて言い方をしていますが、しかし、このわかり方は人によってまたちがうだろうし、一概には言えませんね。これからも、この授業では、ジャーナリズムの例示は続けます。何で続けるかというと、みなさんのそれぞれの中に「ジャーナリズムはこういうものだ」というかたちを作って欲しいからなんですね。さて、斎藤さんいる?

■誰が、「ジャーナリズム」を決めるのか?──斎藤里江子

斎藤里江子:先生が紹介する資料をいろいろ読むうちに、わたしもジャーナリズムっいうものがいったい何なのかが、だんだんわからなくなってきました。で、もし、先生が配ったようなものたちがジャーナリズムだとしたら、私の思い描いていたものととても食い違うんです。すると先生が勝手に「ジャーナリズム」の概念を、先生の都合のよいように歪めているようにも思えます。そして、「ジャーナリズム」というものは、そんなふうにして、人それぞれに違うものであっていいのか、いったい誰が、「ジャーナリズム」を「ジャーナリズム」だと決めるのか、また分からなくなって・・・。

中尾ハジメ:難しいね。う〜ん、「誰が、ジャーナリズムだと決めるのか?」 一見すると、人によっては、ばかげた疑問だと言うかもしれません。しかし、そうではないと思います。そして、その疑問はしっかりと書き留めておいて下さいね。ついでに言いますが、私たちは、いろんな言葉を日々使っていますが、それらの意味だって、いったい誰が決めているんでしょう? なかなか面白い問題に行き当たっているようです。じゃあ、別の角度から見てみると、君が言うように、中尾ハジメは、自分に都合のよいように独断で「ジャーナリズム」の概念をもてあそんでいるようかい?

斎藤里江子:違うとは思うんですけど・・・

中尾ハジメ:そうだね。じゃあ、この路線で、先生が決めるのか、学生が決めるのかっていう分け方をしたら、どっちが決めるものだと思う?

斎藤里江子:(「わからない」というふうに首を振る)

中尾ハジメ:そうだね。難しい問題ですね。もし、皆さんのなかに、こういう風に考えてみたらどうだろう、という意見があったら聞かせて下さい。

学生:べつに、先生とか、学生とか、一人が決めるもんじゃないと思います。

中尾ハジメ:一人が決めるもんじゃない。としたら、じゃあ、多数決かい? え〜、難しい問題なので、この問題は後にとっておきましょう。佐々木くんいる?

■挫折してしまいそう、という問題──佐々木良太

佐々木良太:最初は荒畑寒村、で、ヴィクトル・ユーゴー。その人たちの作品を読んでいく上で、その人達の生い立ちとか、あと、ほかに書いたものとかを読んでいくことで、新しい観点から見られるというようなことを考えました。やっぱり、いろんな情報をもっと取り入れないといけないなと思いました。でも、書いてあるものの、たとえば言葉や表現が難しくて、すっと読めなかったりすると、挫折してしまいそうになります。

中尾ハジメ:う〜ん、ここまでは、いわば原理的な問題だったけど、今度は実践的な問題だね。これまた深刻です。ちゃんとみんなメモしといてね。ふたつのことを言ってますね。ひとつめのことは、たとえば、『谷中村滅亡史』を読めば、たしかに『谷中村滅亡史』を読んだことになるけど、そのほかの時代背景や、ほかの書物を読むことで、『谷中村滅亡史』も、また、別の読み方ができるようになる。ということですね。しかし、ふたつめ。あんまり、いっぱい読んでると、だんだん難しくて、挫折をしてしまいそうになる。この挫折ってのは、たいへんなことですね。挫折したんなら、またやりゃいいじゃないか、っていうように簡単にはいかなくて、挫けちゃうんだね。どうしたらいいのかな? だれか分かる? う〜ん、簡単に言い換えたら、中尾ハジメがたくさんのものを渡しすぎるって話か? 毎回渡してる資料ですが、しっかり読もうと思ったら、どれくらい時間がかかる? 佐々木君は?

佐々木良太:ほかの人は、よく分からないけど、僕は結構、時間かかりますね。

中尾ハジメ:このあいだ渡した資料はどれくらい時間がかかった?

佐々木良太:さっと読んだら、1、2時間くらいですね。

中尾ハジメ:さっと読んだら、そんなもんか。考えながら読んだら、どれくらいかかるかな? う〜ん、でも、そんなに消化しなきゃいけないものは多くないと思うんだけどな。

佐々木良太:消化するのは、例えば、渡されたものを理解するだけの問題じゃないような気がします。渡されたものを読むことに加えて、独自で集めた情報を見ていると、それぞれの情報にはそれなりの根拠があって、それを自分のなかに取り入れていくことで、別の新しい考えが生まれて、またそんなのを考えていくうちに、すこしづつ挫折していっちゃうんです。

中尾ハジメ:そうか、すこしづつ挫折しちゃうのか(笑い)。う〜ん、佐々木君の言ってることの答えにはならないかもしれないけど、ジャーナリズムはかくかくしかじかのものであるということを文章に書かなければいけない、また、達成されるべき目標があって、それをしなければいけない。と、いうように思っていると、そりゃ難しいだろうな、と思います。しかし、ミシュレの『海』の一部を読んで、なんだか面白いなあ、とかそういうふうには感じないかい?

佐々木良太:文学的な言葉の使い回しとか面白いと思いましたけど・・・

中尾ハジメ:ウィルソンの方は、どうだった? おもしろさを感じるためには渡した資料はちょっと短すぎたかな? う〜ん、佐々木問題に答えられる人いる?

■再度・ピューリッツア賞は、ジャーナリズムにあたえられる?──清水千絵

清水千絵:私もミシュレの『海』を読んでも、ジャーナリズムと結びつけることができなくって・・・

中尾ハジメ:はい、ストップ。じゃあ、あなたの考えている、ジャーナリズムっては、どういうものなの?

清水千絵:え〜と、一回目の授業のときの定義とは、今は少しずつ変わってきています。確かに事実を伝えなければいけない。けれど、ニュースに出会って、報道するかどうか選ぶ時点で、その人の主観が入ってきてるから、主張はどうしても入ってしまう・・・

中尾ハジメ:いや、そういうことじゃないんだよ、僕が聞いたのはね。え〜と、今の対話はちょっと難しいね。「ミシュレの書いたものを私はジャーナリズムだとはとらえられない」と清水さんは言いました。で、じゃあ、なにだったら、ジャーナリズムだと思うのと、僕は聞きました。それに答えてくれなきゃ。

清水千絵:『谷中村滅亡史』はジャーナリズムだと思います。

中尾ハジメ:いいね。でも、ミシュレの『海』は、違う?

清水千絵:ジャーナリズムという言葉と結びつけることは・・・

中尾ハジメ:清水さんの考えるジャーナリズムとは結びつかない?

清水千絵:はい。

中尾ハジメ:ウィルソンが、2回もピューリッツア賞とってるっていうことはどういうことだと思う? あれは、清水さんのなかでは、ジャーナリズムじゃあないの?

清水千絵:はい、まだ、だめです。

中尾ハジメ:繰り返しになってしまいますが、かれはピューリッツア賞をとってるんだね。じゃあ、清水さんの考えているジャーナリズムと、ピューリッツア賞を与えている人の考えているジャーナリズムは、一致しているのか、そうでないのか。あるいは、どうやって一致させるか、調和させるか、ケンカするか、考えなきゃね。 え〜、つぎは、杉本さんいる?

■テレビに出てくるジャーナリストと、テレビのない時代のジャーナリスト──杉本千夏

杉本千夏:テレビとかで、いわゆる「ジャーナリスト」と呼ばれている人たちが、社会問題を取り上げるのと、荒畑寒村とか、ミシュレみたいな人たちが、書物を通して、何かを伝えるのが、同じジャーナリズムって感じがしないんです。

中尾ハジメ:それも、難しい疑問だね。なぜ難しいかというと、ミシュレの時代には、テレビがありませんでした。荒畑寒村の時代にもありませんでした。だから、そういう意味では、同じとか、違うとか言いにくいね。しかし、その問題はこういう発展のさせ方があると思います。新聞がなかった時代もあるでしょ? で、そのときは、どうやって多くの人に伝えようとしたんでしょうか? まあ、そんなわかんない時代のことはおいておいても、印刷技術があるおかげで、たくさんの出版物が出回った時代があります。どうやら、新聞をはじめとする、いわゆる出版活動が盛んに行われた、というようなことがあることはすでにこの授業でも言いました。それで、今は、それに加えて、テレビもある。インターネットもある。その時代の多くの人に伝えるって事は、印刷技術しかなかった時代とは違うだろう。じゃあ、どう違うんだ? というふうに問題を展開できますね。

杉本千夏:たしかに、時代とともに報道の手段は変わってきたと思うんですけど・・・

中尾ハジメ:じゃあ、もうちょっと付け加えるとね。たとえば「近代国家の成立」って言葉を聞いたことがある? 近代国民国家とかさ。う〜ん、ちょっと横道にそれるようだけどね、これは、英語では、 Nation State といいますね。これも、「ジャーナリズム」と同じで、二重三重の意味で、難しい問題を抱えています。例えば、ひとつはね、「国家」。だ〜れが、「国家」なんて決めるの? 分からないけどね、そう決まってるんですよ。日本は国民国家ですよ。歴史的には、いわゆる「近代」でなかった時代にはこういうものはなかったんですね。Nation という考え方も、歴史的な産物ですからね、昔はなかったんです。日本では、そもそも、「くに」っていう言葉がありますが、「国家」って言葉を使うようになったのは、いつでしょう?

マジライン:・・・明治?

中尾ハジメ:ある意味そうだといえますね。その前にまったくなかったかといえば、ちがうかもしれませんが、明治は、日本を国民国家にした時代ですね。今、横道にそれているようですが、違うんですよ。新聞のような──杉本さんによれば「報道の手段」−こういうのをメディアといいますが、 そういうものがなければ、「国民国家」なんてできなかったんじゃないか、と思います。これも、研究課題ですね。それで、さらに言えば、新聞なんか、みなさんはあまり読まない。むしろ、テレビにつながってる。なかにはテレビも見ない、マンガは見るという人がいる。こういうことは社会の形を変えないだろうか。メディアだけで、社会の形が変わるというようには、僕は思いませんが、もし、新聞が国民国家を作ったとしたら、こういうものは社会の形に、何らかの意味を持つかもしれませんね。そこで、やっぱり、ジャーナリズムとは何だろうか? う〜ん、これは、そもそもの質問が悪いように思えますね。「ジャーナリズムとは何だ?」と問われれば、「なになにだ!」というように簡単に答えれられそうでしょ? そこがたぶん間違ってると思うんですけどね。「国民国家」っていう言い方があります。そして、それは何かを意味しています。それは、何かのかたちをとって目に見えるかと言えば、見えませんね。で、たとえば、「議会制国民国家」だよ、っていえば、「ああ、政府みたいなものがあるんだな」とか、「代議士みたいなのがいるんだな」というようにかたちが見えてきますが、しかし、国民国家っていうのは、こうだ! っていうようなものはなかなか見えないんです。しかし、ぼくたちはそれによって生きて、動いている。とらえがたいものだとしても、実際に存在しているんです。憲法だってそうです。あれは、何ですか? 皆さんの実感からすれば、憲法なんかなくたって生きていけるように感じられるかもしれません。でも、違うよね。そういうようなことをとらえていかないと、社会でやっていくことはたいへん難しいです。ジャーナリズムだって、そういうものなんです。だから、一例に過ぎませんが、皆さんの頭の中にある、「国」とか、「国家」とか、そういう言葉の意味をどういうふうに人と共有しているか、っていうのは、極めて重要な問題なんです。

みなさんがしゃべるのを聞いていますと、皆さんがそれほど考えを練ってしゃべっているわけではないのは分かりますが、しかし、どれもこれも、ないがしろにしてよい問題ではないようです。例えば、佐々木君なんか、挫折しちゃうしね(笑い)。 だからね、そういう問いをね、しっかり書き留めるんだよ。鷲見さんいる?

■なぜジャーナリズムを追求しなければならないのか──鷲見幸子

鷲見幸子:もしかしたら、私の努力が足らないのかもしれませんが・・・。

中尾ハジメ:反省なんかするなよ(笑い)

鷲見幸子:まず、そのまま感じたことや、思ったことを掘り下げて文章にすることが難しいということを感じます。それに、この授業では、自分が疑問に思っていることへの答えを教えてもらうというような進行のしかたをしません。私が、知らなかったことや、疑問に思っていたことが分かるようになれば、すこし違うのかもしれません。

中尾ハジメ:じゃあ、鷲見さんの疑問をひとつ言ってみてください。

鷲見幸子:すこし根元的な疑問になってしまうんですけど、「ジャーナリズムとは何か」ということ、追求しなければならないのは、なぜなんですか?

中尾ハジメ:「なぜ、追求しなければならないか?」。・・・。これは、たしかに根元的な質問ですね(笑い)。やや無責任に聞こえるかもしれませんけど、べつに、ジャーナリズムが何か追求しなくてもいいやという感じを持っています。追求しなきゃいけないもんじゃなくて、ジャーナリズムってのは存在している。国民国家が存在しているように存在している。国家と呼ばれるような社会の組織は、これから変わっていくでしょう。どういうふうに変わっていくのか? と問われれば、こういうふうに変えたいくらいは、言えるかもしれないけど、確実にこう変わるだろうなんて予測はできないように、ぼくは思っています。ジャーナリズムと同じようにね。で、ここまで、今日皆さんと話してみると、ジャーナリズムはこういうものという思いこみが存在しているようです。ジャーナリズムだって、姿を変えて行くんです。聞きますがね、現在、どういうジャーナリズムがあると思いますか?

鷲見幸子:それは、これからだって、変わっていくから・・・

中尾ハジメ:ぼくはそうは思いません。話の方向がかわってしまいますが、ジャーナリズムは変わって行くものでなく、変えて行くものです。もう一回鷲見さんの最初の疑問にかえりたいと思います。なぜ、「ジャーナリズムとは何か」ということ、追求しなければならないのか。皆さんは、国民国家のなかにいます。国民国家はどうしったって「在る」んです。そして、追求しなければならないんです。でもね、繰り返して言うけど、ジャーナリズムを追求することは、そんなに面白いことではない、といわねければならない場合もあると思います。どういうことかというとね、たとえば、小説というジャンルがありますが、小説を追求するのは、楽しいでしょうか? そりゃ、追求してもいいですけど。でもね、「自分が小説を書く」というやり方で追求していくのは、大いにやればいいと思いますが、自分は小説を書かずに追求するのは、どういうことかな、おもしろいかなと思います。だから、鷲見さんの頭の中で、学問ていうのがね、自分が何かをすることじゃなくてね、だれかがしたことを追求するってのが学問だと思ってるんなら、ぼくは面白くないと思います。でも、まあ、ぼくが面白くないと思うだけですけどね。

でも、皆さんがそれを聞くことで、これから先に進めそうだという感じを得ることができるのだったら、僕なりの「ジャーナリズムは、かくかくしかじかのもんだ」というものを言います。ジャーナリズムっていうのは、社会のなかで、社会問題をめぐって、主張をする。ジャーナリズムからその養分をとってしまったら、それは、ジャーナリズムではない。だから、簡単に言えば、例えば、平民新聞社は社会主義を主張していました。最近の新聞は、あまり主張をしているようには見えないかもしれませんが、もともと新聞は主張をするものでした。ただし、その主張ってのは・・・。変な話だけど、感情と、客観的な事実を切り離すというようなことを皆さんはします。皆さんがほんとに意識してそれをしているかというと、疑わしいけど、切り離せるかのように皆さんは言います。それは、たとえばですね、客観的科学、とその対局にあるのは、主観的芸術だ、というような言い方をしますね。で、正義ってのは、いったいどっちに属するんですかね? う〜んしかし、「科学」っていうものを皆さんがどういう捉え方をしているのか、難しいところなので、アプローチを変えてみますが、環境問題っていうふうにいうときに、その「問題」はどういうふうに捉えられたと思いますか? 何によって、何を手がかりにして、環境問題っていうものが捉えられたと思いますか? 今の時点で話すなら、たとえば、炭酸ガス。大気中の炭酸ガスの量が、何によって捉えられているか?

鷲見幸子:環境問題を「捉える」という意味がよく分かりません。環境問題は「捉える」ようなものじゃなくて、実際に起こっている事じゃないんですか?

中尾ハジメ:たとえば、「炭酸ガス」。これは、手で触れられるわけじゃないですね。目でも見えません。でも「大気中の炭酸ガスが増えている」という問題が、捉えられています。そういうのは、いわゆる客観科学によっているわけですね。さて、皆さんもご存じの通り、大気中の炭酸ガスの濃度が上がるっていうことについて言うなら、「濃度を上げないようにしなければならない」、という人と、「そんなの上がったってかまわない」という立場がありますね。

鷲見幸子:京都議定書をめぐる、アメリカのブッシュ政権の態度と、ヨーロッパの対立みたいなものですか?

中尾ハジメ:そうですね。みなさんは一年生のとき習ったとおもいます。国際問題のなかでも、よくでてきます。炭酸ガスの濃度が上がることについて、それを問題にするのが、馬鹿らしいという言い方があります。さらには、炭酸ガスの濃度が、上がらないようにするためには、火力発電所をなくして、原子力発電所にすればいい、っていうような意見までありますね。で、ある人たちは、それに反対をします。反対派はジャーナリズムを動員します。賛成派もジャーナリズムを動員します。ジャーナリストは、それぞれの立場から書いているね。そういうことが、現実に起こってるでしょ。 と、いうわけで最初の問題に戻って、「なぜ、「ジャーナリズムとは何か」ということ、追求しなければならないのか」。という疑問に、いま答えているとは思いませんか?

鷲見幸子:・・・。

中尾ハジメ:鷲見さんの質問から、ぼくはふたつのことを受け取りました。ひとつは、ジャーナリズムを追求するってことを学問的に、いや、もっと露骨にいうなら、大学で試験を受けて、単位を取るためにジャーナリズムを追求するんだったら、そんなことにあまり意味はないように思います。でもね、もし、鷲見さんにね、ぼくがいま言ったようなことでなく、何でジャーナリズムを追求しなければいけないのか、っていう疑問があるんだったら、ぼくも同感です。ジャーナリズムなんて、追求するもんじゃないんです。やらなきゃしょうがないんです。わかる? そのことにつなげて言うと、現実に、炭酸ガスの問題でも、いろんな人たちがいろんな主張をしています。それは、おもにジャーナリズムによって、主張されます。ジャーナリストが先頭に立っているんですね。

え〜。もっと違う言い方をしたらね、たとえば、この授業は必須なんです、っていう答えもあるよね(笑い)。 

多分、いま、この問題は解決しなかったと思います。でも、ちゃんと書き留めておいてね。じゃあ、次、高橋君。

授業の様子

■中尾資料は、ジャーナリズム概念のどこに位置づけられるか──高橋栄策

高橋栄策:ぼくも、非常に悩みまして、レポートも苦労したんですが、今日、お話を聞いていて、何となく分かったのは、ぼくが持っているジャーナリズムの概念にとらわれてて、『谷中村滅亡史』とか渡されて、その自分の持っていた概念との食い違いに、ぼくは悩んでいたんだな、ということが分かりました。

中尾ハジメ:そうか、悩んでいたのか(笑い)。

高橋栄策:文章自体は、それぞれ読むとすごく面白いんですが、でも、全体の流れというか、「ジャーナリズム」ということでは、いったいそれぞれがどういう位置づけなのか、っていうのは、難しいことでした。しかし、その「位置づけ」について悩むことで、逆に自分のジャーナリズムの概念は狭いものだった、もっと自由に考えていいんだなっていうふうに考えるようになりました。

さらに、これもある種の先入観ではあるんですが、「大学で授業を受ける」ということは、中尾先生が「唯一の答えはない!」というような言い方をしていても、でも、やはり先生は答えを知っていて、私たちはそれを知るためにやっているような気がしたりして、そうではないと思いつつも、とまどってしまいます。 とにかく、「自分の持っていた概念」以外の世界があるということは、わかるんですが、しかしそれが具体的になんなのか。たとえば、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』は、「環境ジャーナリズム」という枠組みの中で、どういう位置づけになるのかをやはりつかめないでいます。

中尾ハジメ:う〜ん、この授業の一回目の出だしがよくなかったのかな?

社会的な現象っていうのかな・・・。 こういう言い方は嫌らしいと思うんですが、現象として存在していることがあります。それを「存在しない」とはいいませんね。しかもね、それに「ジャーナリズム」なんて言葉をつけて、みんな普段から使っているんです。で、皆さんもその中の住人でね、地球温暖化について何か言え、って言われたら、何か言うでしょ。それが質のよいものかどうかは別にして、言うでしょ。でね、そういうことで、これまたやらしい表現ですが、「世論」を形成しているんですね。そのことを振り返ってみるのが、ジャーナリズムを追求するって事かもしれませんね。

え〜と、高橋さんが言ったことで思いだしたことを言いますが、何度も言っていて、繰り返しになりますが。単線的に、ひとつの線で、ジャーナリズムという社会的な現象が成り立っているわけではないですね。もともとはひとつだったのかもしれません。しかし、いま、僕らが捉えられるように捉えようとすると、どうも出発点は複数になるのです。たとえば、ミシュレは自然誌的な観点を持ちました。その観点に立てば、「自然保護」という言葉もでてきますね。「絶滅危惧種」なんていう言葉もでてきますね。それは、ひとつの出発点として設定できますね。ほかに言うなら、たとえば自分以外の自然をゆっくりとじっくりと観察するっていうような方法以外にも、目の前でおこっている事件、たとえば鉱毒問題に苦しむ人たちがいて、それを描くことがまた別の出発点になり得ますね。ほかにも、社会的動乱があった時代に、その動乱があったパリっていう街を、その街を作っていた自分たち人間が大量に暮らしている都市、その問題を抱えた都市を、下水に焦点を合わせて、様々な視点から、たとえば経済的視点などから、取り上げるんですね。それは、都市についてのイメージ──都市論、あるいは文明論──要するに、下水の世界を、普通に暮らしている人たちは、意識しないんですね。だけど、その下水は象徴的に哀れな人間達の作り上げた都市の問題を見せている。と、いうふうに見えますね。これもひとつの出発点。

いま言っている話はね、ともすれば、ひらたく環境思想の分類をして、それぞれを当てはめるだけのように見えないこともありません。しかし、そもそも環境思想自体が、いろんなものを内包していて、それぞれの主張があります。加えて、このジャーナリズムの授業にとって大事なのは、たとえば印刷技術という支えがなければ、社会的な現象は成り立たなかっただろうということなんですね。メディアの変化っていう路線もあるんだね。で、これもまだ丁寧に押さえられてはいませんが、メディアの変化みたいなものを考えないと、今の時代にいったいどういうことができるのか、を捉えられませんね。

授業日: 2001年5月22日;